忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


チェイン・メイル-中核的防具から補助的防具へ

チェイン・メイルという言葉は他の中世の鎧と同じように、名前自体に問題を含んでいるようです。日本では鎖鎧、鎖帷子などと訳されるこの鎧は、小さな鉄製の輪を大量に繋ぎ合わせてつくられたものですが、この鎧をさす専門用語は、実は「メイル」(英:Mail)だけで良いのだそうです。しかし、メイルという語の分かりにくさから、チェイン・メイル(Chain mail)やメイル・アーマー(Mail armour)、さらにはチェイン・メイル・アーマーなどという冗長な語さえあるそうです。当資料室では、とりあえず一般書籍などでよく使われているチェイン・メイルという語を採用したいと思います。訳語はなんでもいいと言えば、それまでなのですが、一応鎖鎧を使います。

さて、前置きが長くなりましたが、ここからが中身です。チェイン・メイルは中世の長きを通じて、騎士の防具に不可欠なものであり続けました。他の防具にも言える事ですが、チェイン・メイルは時代が進むほど体の部位にフィットするようになり、武器の改良に対応して変化していきました。中世後期以降のプレート・アーマー(例によって名称に問題有り、詳細は別の記事にて。邦語:板金鎧)の普及は、チェイン・メイルの重要性を減じてはいきましたが、それでもほとんどの場合、プレート・アーマーはチェイン・メイルと併用されていました。また、騎士の装備がプレート・アーマーを基本とするようになると、以前はチェイン・メイルを着ることの出来なかった下層の兵卒が、騎士たちに代わって中心的防具としてチェイン・メイルを中心的に使用するようになっていったのです。

もっとも基本的なチェイン・メイルの形はホウバーグと呼ばれるもので、これは腰から膝下まであるチェイン・メイルの胴着で、およそ15kgくらいの重量がありました。多くのホーバーグは頭部を保護するための鉄頭巾(コイフ)を備えていましたが、鉄頭巾が独立しているものもありました。また腕部の先端にミトン型の手袋をもったものもありました。この場合、手首から先を手袋の部位の手前にある切れ目から、外に出すことができました。さらに、ホウズと呼ばれるチェイン・メイルの股引き(靴下まで繋がっている)もありました。これも、ズボンのように脚が抜けるものと、タイツのように脚までくるまれるものがありました。ホウズの登場によって、裾を短くしたホウバージョンも登場しました。当然のことながら、このように全身に隈なくチェイン・メイルが施された鎧ほど高価なものでした。

チェイン・メイルの下には、矢の貫通に備えたり、鎧が擦れることによって皮膚を傷つけないようにするために、キルティングした布製の長衣を着込みました。鉄頭巾の上か下にも、同様の理由で布製の厚い帽子を被りました。また、ホーバーグの上には紋章を施したサーコート(陣羽織)を着て、自分の所属を明らかにしました。鉄製のチェイン・メイルは、もちろん革の鎧よりかははるかに頑丈でしたが、かなりの重量があり、かつ剣や鈍器などの強打に耐えられないという欠点を持っていました。また、オーダーメイドのプレート・アーマーに比べると鎧の全重量が肩に集中しやすいため、長時間着たままでいると体力を消耗しやすいという難点もありました。

チェイン・メイルからプレート・メイルへの転換は中世盛期~後期を通して段階的に進められていきました。初めは、膝を守るためだけに使われた板金は、腕、胸、脚などを部位ごとにカバーするようになっていき、14、15世紀頃にはプレート・アンド・メイルと呼ばれるプレート・アーマーとチェイン・メイルを併用した鎧が一般的になっていきました。しかし、騎士の鎧の中心がプレート・アーマーになった後も、関節部分など曲がりやすいところの補助として、局部的にチェイン・メイルは使われ続けました。
2009.7.14 加筆修正

PR

ノルマン・ヘルム-水滴型兜

中世ヨーロッパの兜で最もポピュラーなもののひとつがこのノルマン・ヘルムです。ノルマン人の進出と共にヨーロッパ各地で使われるようになります。訳語としては、その形状から水滴型兜と呼ばれます。

ノルマン・ヘルムは中世中期からヨーロッパ各地で広く使われ、形状にも多くの種類があります。一枚の鉄板から打ち出して作られたものや、金属部品を繋いで作られたノルマン・ヘルムもありました。さらに後頭部から首にかけてを保護するチェイン・メイルが付けられているものもありました。ドイツのノルマン・ヘルムの特徴としては頭頂部が前にせり出しているものが多く、またノルマン・ヘルムの多くは鼻当が後から取り付けられていました。バシネットなど機構に仕組みのある兜が登場するまで、このような単純な型の兜が戦場の主役でした。
  
          ▼ノルマン・ヘルム         ▼バイユーの壁掛のノルマン騎士     

19ca01dcjpeg     4709e0d1jpeg

メイス、フレイル-中世の棍棒

木製の柄の先端を金属で加工し、破壊力を増した棍棒型の武器がメイスです。メイスには様々な種類があります。ただ鉄球が突いているような単純なものもありましたが、鉄球に放射状に突起物を取り付けたものが有名でしょうか。金属板を切り裂いたり、鎧の隙間に槍を刺すのは簡単なことではありませんが、メイスならただ思い切り叩きつけるだけで、上手くすれば相手の骨を砕くこともできたのです。そのためメイスはプレート・アーマーを着込んだ重装兵に対する有効な武器として重宝されました。また、武器の製造が簡単で安価だったことから、様々な階級の兵士に使われました。

フレイルはメイスの攻撃力をさらに高めようと作られた武器です。柄の先端部分と突起の突いた鉄球を鎖でつないでいるものや、二本の棒の先端同士を鎖でつなぎ、片方の棒を柄に、もう片方の棒を攻撃用にしたものもあります。遠心力を使って勢い良く振り下ろされたフレイルは、かなりの打撃力を持ち、また連結部があるために攻撃を詠まれ難いという利点がありました。フレイルは普通、攻撃部が柄より短くなるように作られました。そうしなければ、訓練不足の兵士が自分の頭を潰してしまいかねなかったためです。

クロスボウ-中世の石弓

クロスボウはヨーロッパでは10世紀頃から使われ始めた武器で、引金を持つ台座に弓を水平に取り付けた武器です。長さ0.6~1mの大きさで、日本では石弓ないし弩と呼ばれます。クロスボウは一度弓を引いて固定することができたので、安定した状態で矢を放つことができ、そのためにたいした訓練なしに扱えました。射程としてはロングボウと大差ありませんでしたが、戦術としてはロングボウのように斜めに射ることで弾幕を張ることはせず、直線の弾道を利用した狙い撃ちが主だったようです。

クロスボウはかなりの破壊力があり、また兵士の養成も楽な優れた武器でしたが、ひとつ大きな欠点がありました。装填時間の長さです。長弓のように弓を引く筋力を求めない代わり、クロスボウは様々な器具を使うことによって弓を引きました。台座の先端の鐙は脚を引っ掛けて弓を引くためのもので、梃子の原理や歯車を利用したクロスボウもありました。しかし、どの方法をもってしても装填時間が飛躍的に速くなることは無く、大体1分間に1本くらいの矢しか撃てませんでした。

クロスボウ部隊は百年戦争前半のハイライト、クレシーの戦いで長弓兵部隊に惨敗します。フランス軍はイングランドの長弓兵に対抗する形でジェノヴァのクロスボウ兵を雇っていたのですが、この戦いではクロスボウとロングボウの射撃速度の違いが戦いの流れを左右したのです。しかし、訓練要らずのクロスボウ兵はこの後もヨーロッパで活躍し続け、例えば15世紀中ごろのスイス傭兵、チューリヒ市の分遣隊には20%のクロスボウ兵が含まれていました。クロスボウはパイクと並んで中世後期から近世初期にかけて使用されましたが、小銃の普及、改良とともに衰退していきました。

ショートボウ、ロングボウ-中世の弓

ショートボウ、すなわち短弓は弓の長さが1mを越えない大きさの弓です。射程は100mほどです。古代から弓は身分の低いものが扱うものでした。理由は、最前線で敵とぶつかり合うわけではないので防具がほとんどいらなかったからです。中世の戦場にいた弓兵たちの鎧は身軽さを追求したために、革製や布製のものがほとんどでした。

ロングボウは百年戦争中、イングランド軍が使った武器として有名ですが、もともとはウェールズで使用されていたものでした。イングランドは13~14世紀にかけて、ウェールズとの戦争から少しずつ長弓戦術を吸収していき、さらにスコットランドとの戦いにおいて多くの長弓兵の動員を行い、この戦術を完全なものへと変化させていったのです。そしてイングランド長弓兵の大舞台、百年戦争の中ではこの完成した戦術をもって、フランス軍騎士軍を徹底的に打ち破ったのです。

長弓の特徴は1.6~2メートルにも及ぶ弓の長さと、この長さによって生じる200m(最長は300~350mとも)にも及ぶ射程と、ただの大きな弓であるという単純さから連射が可能なことでした。熟練者であれば1分間に10本以上もの矢を放つことができたようです。この射程と連射によって矢の弾幕を張り、敵を自陣に近づける前に消耗させるというのが長弓による基本戦術です。弱点としては、防御に適した戦術であるため攻撃にはあまり向かない点。弓を引くのにかなりの力が必要で、そのためには日々の訓練が欠かせないので、兵を養成するのに時間がかかる点です。

スピア、パイク、ランス-中世の槍

槍という武器は古代から近世初期にかけてもっとも普及した武器でした。その理由としては製作・修理が簡単なこと、剣を扱うような訓練がいらないこと、そして安価だということが挙げられます。この槍という武器は、他の様々な形の武器と同じく時代や地域によってその特徴を変化させていきました。中世ヨーロッパで主に使われたのはスピア、パイク、そしてランスです。



スピアはこの中で最も一般的なもので、長さ2~3m、重さ1.5~3.5㎏ほどのものを指しますが、この値は細かく定めてあるわけではなく、後述するパイクより短い槍は基本的に全てスピアです。スピアの穂先は用途によって様々なものがあります。深く返しがついているものは刺さった槍を抜けにくくするために、木の葉型の穂先は傷を広げるために、反対に穂先が細く鋭いものはプレート・アーマーなどの頑丈な鎧も貫けるようにするために用いられました。

パイクは15世紀以降、中世後期から使われ始めました。この槍の特徴はとにかく長いことです。5~7m、重いものでは5㎏にも及ぶこの長大な槍は、集団行動をとる密集陣形の中で始めて効果を発揮しました。防御用のパイク兵の陣形では一人目が膝をついて、二人目が腰を落としながら槍を構え、さらに三人目と四人目はそれぞれ腰、肩の高さで槍を構え、戦場に槍衾を作り出しました。スイス傭兵やランツクネヒト(南ドイツ傭兵)の密集陣形の戦術は、すでに時代遅れと成っていた騎兵による突撃戦術の終わりを告げます。パイクは近世初期の戦争では主役を務めていましたが、小銃の改良や、銃剣の登場によって活躍の機会が減っていき、17世紀頃から徐々に見られなくなっていきました。

ランスは中世ヨーロッパを代表する槍です。騎槍と訳されるこの槍は、重装騎兵が突撃を行う際に用いられました。4~5mもの長さを持つこの槍は、刀剣とは比べ物にならないほど重かったため、不安定な馬上で扱うのには相当の訓練が必要でした。敵に向かって突撃している騎馬から突き下ろされるランスの威力は、その貫通力もさることながら敵兵にかなりの威圧感を与えたことでしょう。ランスは混戦に入るとその長さゆえに邪魔になったので、騎兵は普通、剣やメイスなどの武器も併せて装備していました。

北フランスの市民兵

成立後間もないフランス王権は、弱体化した王権の前で跋扈する諸侯勢力を抑え、国王の支配を拡大しようと努めました。11世紀頃から始まった都市の自由・自治などを求めるコミューン運動への政策はその一環です。すなわち、王領内のコミューン運動は抑圧し、王権の及ばない諸侯の支配圏内のコミューン運動は援助したのです。地方の都市と結ぶことで、諸侯の領地に楔を打ち込んだわけです。カペー朝5代目のルイ6世、続くルイ7世はすでに出来上がっていたコミューンに特許状を与えることで、コミューンを公的制度へと変化させていきました。

1180年に即位したカペー朝7代目のフィリップ2世尊厳王は、さらに都市との関係を強めていきます。フィリップ2世は既存のコミューンの権利を再確認するとともに、新たに多くの都市にコミューン特許状を与える政策を採りました。王権が都市に自由・自治の諸権利を与え、さらに都市を王の保護下に置くことと引き換えに引き出したのは、兵士供出の義務でした。

つまり、フィリップ2世は都市を封建制のピラミッドに組み込んでいったわけです。都市に与えられた特許状には軍役に求められる兵数や荷馬車の数、期間や場所が明記されていました。兵士の供出は金銭の支払いに置き換えられていく傾向にありましたが、それでも多くの市民が民兵としてフランス王の下に動員されました。この結果、フィリップ2世は総勢7695人もの市民兵、138台の荷馬車、さらに兵役免除金として11,693パリ・リーブルを手に入れたのです。

少数の裕福な市民からなる騎兵の他、大多数の市民兵は歩兵として戦いました。市民歩兵部隊は、騎士部隊による突撃を支援するための盾として効果を発揮し、さらにコルトレイクの戦いに代表されるように対騎兵戦で勝利を収めることもありました。わずかな訓練をしただけの市民兵は、傭兵などの職業戦士に比べ技能は低かったものの、農村地域から召集される民兵たちよりは装備面で充実していました。中世盛期における都市の発達は市民兵の武装を強化していきましたが、大部分の兵士は布製の胴着を着ており、金属製の鎧を装備することはありませんでした。

中世末期のフランス軍-勅令隊と国民弓兵隊

1453年、シャルル7世勝利王の御世、英仏戦争は100年に渡る戦争を終結します。それ以前に、シャルル7世は王国軍の改革に当たりました。終戦前の1435年、フランスはそれまで対立していたブルゴーニュ公を和平を結びました。アラスの和として知られるこの講和とそれにつづくトゥール休戦協定は、無職に陥った傭兵たちの野党化を引き起こしました。

盗賊に成り果てた傭兵たちの問題を解決するために、シャルルはロレーヌ公の要請を受けロレーヌへ遠征します。シャルルはこの地で無用になった傭兵を切り捨てると同時に、その中の一部を常備軍として再編成しました。勅令隊の誕生、1445年のことでした。この勅令隊は100個の槍組「ランス」で成る部隊15個で編成されました。装甲騎兵、剣持ち、騎士習い、小姓、弓兵2名の合計6人でひとつの槍組が構成されていたので、勅令隊全体では9000人がいたことになります。

また、1448年の勅令によってもうひとつ部隊-国民弓兵隊が編成されました。これは国民軍のようなもので、各教区につき1人の平民が徴用されたもので、規模は8000人未満であったようです。彼らには一定の訓練と検査が義務付けられましたが、平時は自宅にとどまっていました。軍務についている間は人頭税を免除され、なおかつ給金も出されました。装備は自前のものを使いましたが、あまりにも装備が貧弱な場合は教区教会から支給されることもありました。

いまや、フランス軍の華であった封建騎士部隊は予備役として登録されるようになり、軍の主力は国王に仕える常備軍と傭兵に変わりつつありました。百年戦争時代、フランス軍は封建騎士部隊、勅令隊や国民弓兵隊、都市の民兵、外国人を含む傭兵隊など様々な身分、出自の混合体になっており、ここに終わり行く「騎士の時代」の一端が窺えるような気がします。

ビザンティン軍主力兵士の装備

【スクタトス】初期から中期にわたってビザンティン帝国軍の軍の4分の3を構成

スクタトスの名前は彼らが持った楕円形の盾であるスクタ(ラテン語で盾の意)に由来します。盾の大きさは横90cm縦120cmほど。彼ら軍の主力歩兵と騎兵が共に使ったのはラメラー、スケール、メイルの三種のた胴着でした。最も普及していた防具はラメラー・アーマーです。

知っての通りラメラーとは方形の薄い金属板に穴を開けそれらを皮紐でつなぎ合わせた鎧です。金属板が上向きに重なるように設計されています。素材は普通は鉄で、他に革や角なども使われたようです。ビザンティン帝国軍でよく使われたこの胴着のことを特にクリバニオンといい、普通は袖なしか半袖で上半身から腰までを覆っています。 

スケール・アーマーは小さい薄金を鱗状に並べてつくるもので、ラメラーと違い金属板が下向きに重なっており、また下地になる布があります。胴着は上半身を覆っており袖はありませんでした。

もっとも使用されることの少なかったメイルの胴着はしばしば長袖でメイルのフードとともに用いられました。メイル・アーマーは重ね着可能なことから、上にクリバニオンを着ることもありました。 これらの防具の上から革や綿、フェルト素材などで作られたカバディオンと呼ばれる袖付きの胴着を着用しました。この他に腰や肩にはプテリゲスと呼ばれる垂れ布が付いており、これは革や金属板でできていました。腕と脚部の防護には、革、木、鉄、フェルトなどで作られた腕甲と脛当てを用いました。

兜は部品を組み合わせて作るスパンゲン・ヘルムで統一されていたようです。 武器は基本的に槍で長さは3.6mほど。剣も携帯しており、長さが約90cmの両刃剣スパティオンと同じくらいの長さで片刃のパラメリオンがありました。



東ローマ帝国の後の姿、(国号はずっとローマ帝国ですが)であるビザンティン帝国。彼らの軍装はもはやローマからの遺産をほとんど受け継いでいませんでした。しかし、中世ヨーロッパの諸国家中で最も組織化された常備軍を持っていたのです。なんだか失われた栄光を取り戻そうとする姿が泣けてきますねぇ…。

いままでほとんど西「欧」史を中心にした記事だったので、こんなものも載せてみました。いきなりな感がありありですが、そのへんは気にしないで下さい。中世で最高水準の軍隊組織と言っておきながら装備についてしか書いていないので、組織については後日載せる予定です。資料に固有名詞が多かったのでかなり割愛しました。ビザンティン帝国、またひとつテーマが増えてしまいました。さてさて、他のカテゴリの補完はいつになるのやら…。

 


フランク王国の軍組織

再編です。以前「カロリング朝の軍隊」カテゴリに2つしか記事がなかったので。ここでは王の重装騎兵と、補助軍としての徴収兵について紹介します。この時代には、まだゲルマン由来の「自由民の男子たるもの戦士」という考えが定着しており。「戦う人」=騎士という概念が普及するには、もうしばらく待たなくてはなりません。



【スカラ】

カロリング朝初期の王や貴族たちは、私兵であるスカラをかかえていました。スカラは、主に騎兵であり、王国の数少ない常備軍でした。彼らは、徴集兵 などの兵卒を率いる指揮官となったり、50~100人程で構成される密集陣形「クネイ」を組み、完全武装の重騎兵として戦闘に参加しました。また、戦闘の 絶えなかった辺境領に駐屯することもありました。

【パルタン】

罰令権「バンヌム」とよばれる一般的な徴集令、あるいは国土防衛「ラントヴェール」という緊急動員発動の際、実際に戦場で戦った徴集兵がパルタンです。彼らは、地方の聖俗領主により召集されました。彼らが出征している最中の、残された妻子や農地は「エダン」と呼ばれる後方要員が支援することになっていました。ラントヴェールに応じなかった者は、死をもって罰せられ、バンヌムに逆らった者にも、体の一部を失うというような重い刑罰が下されました。

一般民には、エダンの他にも実際には戦いに参加しない軍事的義務がありました。「ホスティレンセ」は兵站確保のため荷馬車と牡牛の提供。「カルナティクス」は食料用の家畜を差し出すものでした。


        
  • 1
  • 2