忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


フランク王国の分裂

フランク王国、西方世界の覇者にも終焉の時が近づいてきました。



<フランク王国の分裂>

814年、西ローマ帝国皇帝にして西方世界の覇者であったカール大帝が死ぬと、広大な国家の帝位は息子ルートヴィヒ(独語読み、仏語ではルイ)に委ねられました。彼にはロタール、ルートヴィヒ、ピピンという三人の息子がいました。817年、彼は長子ロタールに帝位を継がせ、後の二子は領土を与えられるもののロタールの宗主権に入ると定めた「帝国計画令」を出しました。

しかしこの6年後、ルートヴィヒは新たに生まれたシャルルへの土地相続のために「帝国計画令」を自ら反故にしてしまいました。これにより、兄弟間、父子間の不和を招いてしまいます。840年に王ルートヴィヒが死去した後も争いは収まらず、843年のヴェルダン条約においてようやく兄弟間の戦争は終わりました。これによりロタールはフリースラントからイタリアまでのフランク王国中部(中部王国)を治め、ルートヴィヒはその東の王国領(東フランク王国)を、シャルルは西側(西フランク王国)を、というように王国は分割されました。

ロタールの死後、彼の息子3人に領土は分けられましたが、結局870年のメルセン条約により、イタリアを除く地域は東西フランク王国に吸収されました。カロリングの血筋はこの後もしばらくは西方世界を支配しましたが1000年までに王家は断絶しました。



いったん、ここまでで通史で紹介するヨーロッパ史をストップします。次回からは、今まで途中になっていたカテゴリの続き、もしくわこれまで紹介してきた中世初期の政治、社会、経済について記していこうと思います。
PR