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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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伯と公-中世の爵位

ご存知の通り明治時代以降使われていた日本の爵位は公候伯子男の5つです。この爵位はそれ以前に男爵やら伯爵がいなかったことからもわかるようにヨーロッパから輸入したものです。ではそのヨーロッパ、中世の爵位はどのようなものだったのかというと基本的には伯爵と公爵しかありませんでした。もちろん言語も違えば歴史も違うヨーロッパ各国で個別に使われた爵位もありますが、基本的な爵位はこの2つでした。さて、それぞれの出自を簡単に見ていきましょう。

中世の時代の爵位は階級制度のようなものではなく、あくまで持っている領地に付随している名前に過ぎない(譲渡・継承が可能な資産のようなもの)ので「爵」を付けないようにしたほうが良いという話もあるようですが、どうせ訳語だ!ということで付けて書きました。そのほうが書きやすかったからなんですが…。



伯爵というのはフランク時代、そもそも貴族身分の生成期であった時代に生まれました。伯爵は王による地方支配を代わって行う代官であり、ローマ時代より受け継がれてきた都市管区(周辺地域を含む主要都市キウィタスを中心にした行政区)を統治しました。伯爵には都市管区内での司法・行政・軍事における権力が与えられました。また、イングランドにおいても各地方の太守として伯が生まれました。

ちなみに辺境伯はフランク時代、王国の周辺部に置かれ、外的に対する防衛の責務から、通常の伯爵より強力な権力を持っていたようです。辺境伯は公と伯の中間の権力を持つものとして、訳語には侯爵などが当てられることもあります。

大公とも表記される公爵ですが、これらの伯爵たちへの上級命令権を持っており、複数の管区を支配し中心的な都市で伯爵を兼任しました。公爵にはゲルマン的部族的な特徴を持ち、フランク王国の拡大政策によって取り込まれた旧ゲルマン部族を束ねる存在として強力な力を持っていました。

こうして最初は行政区の長官として生まれた伯爵や公爵はしだいにその役人的な性格を失っていきます。名目上は王の代官であっても、実質的には管区内に勢力を持つ豪族が伯爵となったことからもわかるように、伯爵や公爵は隙あらば爵位の世襲や管区の自立を狙っていました。そして、その隙は実際に訪れます。ヴェルダン、メルセンの両条約によってフランク王国が解体し分裂した王権が弱まると、各地の伯爵、公爵、そして各地の中小領主までもが王権からの自立を強め、勝手な分離融合を繰り返します。

その結果、フランス王国初代国王のユーグ・カペーの支配は実質、パリを中心としたイル・ド・フランスに限られることとなってしまいました。ドイツでも情況は同じで東フランクの王となったコンラート1世は、ザクセン公の分離独立を防ぐために止むを得ずザクセン公ハインリヒ1世に王位を譲るという遺言を残したのです。中世の諸侯たちは、王と並ぶ権力を持ち合わせていたのです。

諸侯による割拠はイングランドやフランスなど比較的王権が安定した国では中世末に終わりを迎えますが、ドイツの場合は王朝の度重なる移動の結果、その後の分裂を抑えることが出来ず、統一が果たされるのは近世に入ってからのことでした。



ちなみに侯爵ですが公の変わりに候を訳語として使うこともあります(堀越孝一さんの著作など)。また子爵ですが、これはヨーロッパの副伯に相当するもので、副伯は伯の補佐として置かれた役人でした。また男爵は、以上のような官職を持たない小領主一般のことを指すようです。

修道士カドフェル…いまだに読破せず。何をやっているのだか。「ジハード」というライトノベル(?)と「黒十字の騎士」を読んでいます。黒十字の方はやたらグロいです。ちょっと「大聖堂」に似ているような感じもしました。

08.1.1加筆修正
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