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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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都市と農村のはざま

中世世界を展望するのによく試みられる方法として都市と農村を分けて考えることがあります。基本的に都市は商業的役割を強く持ち、消費地としてあるいは商品の遠方への発信地として、地域の産物の集計地となりました。これに対し農村は多分に生産的な役割を担い、都市を保持するための産物の供給地となりました。政治的にも都市にはコミューンが生まれ、自由と自治を獲得したのに対し、農村は領主に従属していたという対比があります。

しかし、実際には都市と農村との境界線はかなりアバウトなものであったようです。都市は農村的、農村は都市的性格をそれぞれ持っており、明確な分類は出来ないのです。まずは都市にみられる農村的な面について見ていきましょう。初期の都市には多く見られるように都市の市壁の内側には市民の菜園があり、また衛生上の理由で禁止されるようになるまでは豚などの家畜も放し飼いにされていました。都市でも農業生産が行われていたのです。

市壁はあたかも都市領域を確定しているかのようにも見えますが、実際にはそうではありませんでした。市壁の外側には都市領主が持つ裁判権に属す地域が広がっており、それらの地域に住む人々は都市民と同様に市壁の建設・維持費を負担し、警備や見張り役も担いました。イタリア都市国家にみられる周辺領域「コンタード」のようなものは他のヨーロッパの諸都市にもあったわけです。

それなら市壁が都市たる存在に必要なのかと言うと、必ずしもそうではありません。多くの中世都市の市壁は、ゲルマン民族やノルマン人など異民族の侵攻に際して築かれましたが、中世後期、百年戦争に至りようやく市壁を建設し始めた都市も少なくなく、また集村化と共に共同体を作り上げていった農村は周囲に壁を巡らせた防衛集落を築くこともあったのです。

ではコミューンや慣習法文書の有無ではどうか。これでも都市と農村を完全に分けることはできません。フランスではそもそもコミューンの特許状を得た都市は北フランスに集中しており、中部フランスでは多くの都市がプレヴォ都市、つまり王や伯などの代官が統治する形態を採っていました。さらに北フランスのたコミューン都市や南フランスのコンシュラ都市でも、完全に領主権力を退けていたわけではなく、程度に差はあれど領主の従属化にあったことでは農村とそう違いませんでした。封建制のヒエラルキーに取り込まれた都市で軍役が課せられたことなどはその一例です。反対に多くの農村もコミューンを結成して上級権力から自治の特許状を獲得し、また慣習法文書も都市だけのものではなく、農村地帯にも広まっていたのです。

では、当時でもあいまいだった都市と農村が、中世後期までに完全に都市的な集落となるか、あるいは農村的集落のままに終わるのかという差はどうやって生じたのでしょうか。これはその集落が市壁・法文書・商業的、農業的性格などの、都市的あるいは農村的要素をどれほど持っていたか、その程度の差でしかないようです。
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