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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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アイルランドからの風-コロンバヌスの改革

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▲聖コロンバヌス

591年、後の修道制に大きな影響を与えることになる人物が、12人の仲間とともにガリアに入りました。その男の名はコロンバヌス(540頃~615)。彼は、睡眠時間が無きに等しいような苦行を実践していた、北アイルランドはバンゴール修道院の出身でした。彼はガリアの修道制が、退廃しきっていて、今にも崩壊してしまいそうな状態にあることに衝撃を受け、また修道院に対して大きな指導力を持つ司教が、贅沢な暮らしの中で安穏としていることに反発を持ちました。

このような悪徳を排除するために、彼は修道院の建設場所を、それまで多かった都市に隣接する場所から、農村地帯に移そうとしました。そもそも、5,6世紀の修道院は聖人が埋葬された地に建てられるのが普通だったのですが、この埋葬地、すなわち墓地はローマ時代からの習慣として城壁外の街道沿いに置かれていたのです。そのため、初期の修道院の多くは都市に隣接するように建てられていたのですが、コロンバヌスはこれを変えようとしたのです。こうして、司教権力から、静かな祈りの場である修道院は遠ざけられました。この結果、7世紀に創設された300を超える修道院の内、6割以上が田園地帯に建てられることとなります。

コロンバヌスはまた、物理的に修道院と司教座を切り離すだけではなく、制度的にも両者を分けようとしました。この計画を後押ししたのは、アイルランド修道制に帰依したフランク国王クローヴィス2世(637~658)の妃、バルティルド(630頃~680)でした。王室は司教に圧力をかけて、司教に修道院の自立を認めさせたのです。このような修道院分布の地方化や司教権力からの独立は、田園地帯での荘園領主としての修道院が発達する下地にもなっていきました。

コロンバヌスは、ブルゴーニュにリュクスーユ修道院を、晩年には北イタリアにボッビオ修道院を創設して、アイルランド修道制の思想と実践の発信源としました。彼は自分の建てた修道院のためにふたつの戒律を著しました。「修道士戒律」ではバンゴール修道院の活動を基に修道士での生活について、「共住戒律」では罪を犯した後の告白と贖罪について記してあります。後者の、信者が自分の心の中に罪の意識があれば告白し贖罪するという習慣は、アイルランド修道制が持ち込んだものです。

しかし、彼の持ち込んだアイルランド修道制の戒律は、いささか行き過ぎているところもありました。そこで、コロンバヌスの死後、弟子たちは彼がローマから持ち帰ってきたベネディクトゥス戒律とアイルランド修道制をミックスして「混合戒律」をつくりだしました。これにより、アイルランド修道制の持つ徳の高さや厳格さと、ベネディクトゥス戒律の持つ弱者への配慮がひとつになり、西ヨーロッパの修道制はさらに発展していくことになります。

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