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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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城の眼-狭間窓あるいは射眼

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▲狭間窓を内部から。外には攻め手の攻城塔が見える(Mount&Blade)

城砦建築の壁は分厚くできており、この厚さを利用した機構に狭間窓があります。これは、壁の外側に狭く内側には広がっており、真上から見たとすればちょうど漏斗型・台形をしたような形の窓です。この狭間窓を使えば、内部にいる兵士は狙いをつけるために自由に動くことができますが、攻め手はほんの一筋の切れ目にすぎない窓の中の相手を狙わなければならないのです。これにより、城の守備兵は凹凸の鋸壁に隠れながら攻撃を行うより、はるかに安全に戦闘を行うことができました。
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もうひとりのベネディクトゥス-新たなる改革

7世紀後半から、ヨーロッパの社会や経済は急速に発展していきます。農業生産の拡大や商業活動の活発化は、日々の生活に余裕をもたらし、この余裕は8世紀後半に栄えた文芸復興、すなわち歴史的にカロリング・ルネサンスと呼ばれる時代を呼ぶ一因となりました。カール大帝の御世には、イングランド出身のアルクィンを初めとする多くの学僧たちが、帝の保護の下で、古典文化や聖書の研究や継承に従事することになり、修道院ではそれらにまつわる写本が数多く書かれました。

このカロリング・ルネサンスは修道院の学術的な側面を強化する役割を果たした半面で、王権を手にして間もないカロリング家が、修道院を王の支配の体系に組み込むことを助長する結果を生み出しました。カロリング家は、自分の意に沿う人物を修道院長に斡旋しましたが、そのような人物は別段精力的に修道士たちを率いるわけではなく、修道院の持つ財産にもっぱらの関心があったのです。こんなことでは、修道制全体として衰退は避けられません。

このような流れを押しとどめようと、修道院のベネディクトゥス戒律厳守を推し進めた人物として、アニアーヌのベネディクトゥス(750頃~821)がいます。戒律を著したヌルシアのベネディクトゥスと同名のこの男は、ルイ敬虔帝により建てられたインデ修道院に招かれます。彼は、アーヒエンの教会会議でベネディクト戒律を唯一の修道戒律とし、816年にはこの戒律の厳守を、勅令の形をとって各地の修道院に告知しました。ここで注目されるのが、アニアーヌのベネディクトゥスが修道生活の中で、祈祷をなによりも重要視したことです。そのために、以後の修道院においては農業などの手労働もちろん、古典文献の研究などは軽視されていくことになります。

しかし、アニアーヌのベネディクトゥスの改革は完全ではありませんでした。理由は、彼の改革は修道院長の選出に関して、俗権の介入を完全に排除することはしなかったからです。ルイ敬虔帝の時代には、帝国の相続をめぐって親兄弟が互いに争い合い、帝の死後は兄弟間で血みどろの戦いまで繰り広げられることになります。結局、分裂を余儀なくされたルイの息子たちの王国は、以前にも増して、支配の体系として求める修道院への干渉を強めていくのです。この俗権の干渉を完全に断ち切るたる修道院を創設したのは、ブルゴーニュ貴族出身の修道しベルノン、後のクリュニー修道院長でした。