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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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ロングソード、ショートソード-中世の剣

剣は、槍と並ぶ代表的な武器であり、中世の戦場の華である騎士たちの主要武器でした。ランス(騎槍)で突撃した後の混戦では、騎士は剣を抜いて戦ったのです。槍や他の長柄武器に比べ、剣を扱うのには長い訓練が必要であり、剣で戦うということ自体が騎士のステータスであったといってもいいでしょう。騎士物語に登場するデュランダルやエクスカリヴァーなどの名剣は今でも多くの人が知っています。

ロングソードとショートソードは、訳してしまえば長い剣と小さい剣であり、両者の区分けは決して明確なものではありませんが、おおよそで分けると次のようになります。すなわち、前者は馬上から扱いやすいように70~80cm、長いものでは90cmほどの剣身をもっていたのに対し、後者は徒歩での戦闘に向く60~70cmほどの長さでした。

ロングソードはその構造が、14世紀の中ごろを境にして大きく変わっています。14世紀中期以前のロングソードは、身幅が3~5cmと幅広で、しかも肉厚でした。当時の剣は、焼入れという技法で強化されていました。焼き入れとは、熱した鉄を水につけて急激な温度変化を与えることで、鉄を強化するものです。しかし、この技法では鉄の表面しか強化されず、使用を繰り返すうちに剣の強化された部分がはがれたり、剣が曲がってしまう恐れがありました。また、この時代の剣の特徴として、幅広に肉厚の剣の重量を少しでも軽くするために、剣身に沿って血溝が設けられていました。

14世紀中ごろ以降の剣が、身幅が2~3cmと細くなり、肉厚も薄くなって軽量化が図られました。また剣の先端部分も鋭く尖らせるようになったために、突く攻撃も頻繁に行われるようになったのです。これらは、鉄の加工技術が発達して、鉄より強度の高い鋼が作られるようになったために可能になった改良でした。この頃の剣にはもはや軽量化のための血溝はなく、剣身の断面図は二辺の長い6角形やひし形になっていきました。

ショートソードは、14世紀以降に下馬した騎士たちの編成する重装歩兵(メン・アット・アームズ)に好んで使われました。鉄加工技術の発展は剣の発達のみならず、鎧の強化にも寄与しており、板金鎧を(いまだ部分的にではありましたが)装備していた兵士に対抗するために、刺突に重点が置かれました。

剣の柄や鍔(つば)には、剣の持ち主の財力にふさわしい装飾がなされ、時には剣身にも格言などが刻まれているものもありました。安全と、剣の常体維持のため剣は鞘に収められました。木製のものが一般的でしたが、もちろんこちらにも金や宝石などで豪華な装飾が施されているものがありましたが、これはどちらかといえば儀礼用であり、実践的なものとしては木製の鞘に革を巻いた程度であったようです。

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ドゥームズデイ・ブック-なんのために書かれたのか

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▲ドゥームズデイ・ブック

1085年、グロスターで開かれたクリスマス会議の席。征服王ウィリアム1世は全国の土地とその保有者についての台帳を編纂するように指示しました。王国は七つの巡回区に分けられ、各巡回区が土地保有の情報を収集し、翌年 1086年の8月1日までには調査は終了しました。同日、ソールズベリでウィリアム1世はイングランド全土の領主からの臣従礼を受けます。遅くとも 1087年の王の死までには、二巻からなるドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)が書物の形で完成したと言われています。

ドゥームズデイ・ブック編纂のための情報は、土地保有者と州の下位単位である郡(ハンドレッド)からの報告によって集められました。しかし、これらの情報は、用語や単位の面で一貫性のないものでした。農地の大きさはエーカーで書かれたり、犂隊の数で示されたり。森林の広さは飼育できる豚で表したり、実際の長さで測ったり。ハイドという租税徴収の単位となる面積も、土地によって広さがまちまち、といった状況です。

ドゥームズデイ・ブックは課税のための土地台帳(租税台帳)というのが通説ですが、これはどうやら間違いのようです。理由は三つあります。ひとつは、形式が租税査定に不向きな書き方をされていること。上述したように、地域ごとにバラバラな方法で記述されており、租税負担の総額を出しやすいような書き方になっていません。

ふたつめは、ドゥームズデイ・ブックの情報収集期間中、並行して別の租税調査を行っていたことです。ドゥームズデイ・ブックが基本的に州の範囲内で、土地保有者ごとの表記になっているのに対し、租税調査は郡ごとに記述されていたというように両者はまったくの別物です。そのため、ドゥームズデイ・ブックが租税台帳だとすると、これは二度手間ということになってしまいます。

最後の理由は、編纂のための調査に土地保有者の協力があったことです。編纂のための調査は1055年の12月から1056年の8月までの7ヶ月間という短期間で行われました。この限られた期間内で調査を完了するには、土地保有者の自発的な情報提供が不可欠です。土地保有者が普通は徴税に協力的でないのは現代でも変わりませんね。

ちなみに、全国調査に7ヶ月を要するというのは、現在の感覚からすると遅いようにも思われますが、交通・交信手段が未熟であった当時は会議の召集のみにさえ2ヶ月間の猶予を設けるのが普通であり、また調査の時期は北国イングランドの冬に当たっていたことを踏まえると、この期間は相当に短いものです。

租税台帳という説の他には、封建的奉仕のための台帳であったとする説もあります。つまり、国王がどれだけの奉仕を土地保有者に義務付けるかを把握するためのものであったという説です。これは保有者ごとの記述を行ったために正しいように思われますが、ドゥームズデイ・ブックにはこの目的を達するための情報よりはるかに多くのことが記載されており、どちらかというと土地の経済的資産(水車、粉挽き所、牧草地など)を総括したものでした。また、租税台帳でないとする第三の理由も、この説に反します。奉公とはいいつつも、好んで封主のために尽くす領主は例外的です。

ではドゥームズデイ・ブックはいったい何のために書かれたのでしょうか。まずドゥームズデイ・ブックは、誰がどれほどの土地・財産を持っているかを明らかにしているので、土地所有に関する訴訟が起きた際に参照することで、紛争を解決する手助けとなりました。また、ノルマン・コンクエストの後、イングランドで土地を獲得したノルマン貴族は、この新たに加わった土地の所有権が王権によって保障されることを望んでいました。このことは、調査の完了の際、ソールズベリで国王が臣従礼を受けたことに関わってきます。このように、土地保有者にはドゥームズデイ・ブック編纂による利益があり、このことが彼らの協力を引き出したのです。つまり、ドゥームズデイ・ブックは①土地にまつわる紛争の解決手段であり、かつ②土地所有者への土地授与(安堵)の証明書であったと考えられるのです。