忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


石壁と円塔-城の発展

中世ヨーロッパの城主たちにとって、もっとも大きな関心のひとつは自分の城の安全性を高めることでした。城の防衛力向上のためには様々な工夫がなされましたが、もっとも効果があったのは木造の城を石造に建て替えるというものでした。石造の城は強度の面でも耐火性の面でも優れていたため、財力のある城主たちはこぞって石造の城を建てようとしました。最も早い時代の石造の城は、10世紀中旬以降のフランスで確認されています。950年に建てられたドゥエ・ラ・フォンテーヌ城と、995年に建てられたランジェ城は最初期の石造の城として有名です。モット・アンド・ベイリーのような木造の城が全盛だった時期に建造されたこれらの城は、貴族の中でも有力な伯などの諸侯によって建てられました。

11世紀を通じて石造の城は増加してゆき、12~13世紀になると城は石造のものが一般的となります。石造の城は新たに建造される事もあれば、元々あった木造の城を改築して石造にすることもありました。フランスのロッシュ城は11世紀に石造の城として新設され、イングランドのヨーク城は11世紀の建設当時は木造でしたが、13世紀に石造に立て替えられました。12世紀に一般化した石造の城は、石造の矩形塔(キープ)を外壁で囲む形を基本にしており、イングランドでは「シェル・キープ」様式と呼ばれました。

城の石造化の背景にはヨーロッパ世界全体での経済発展がありました。農業の躍進は人口の増加を招き、人口が増加したことによって開墾や農地の拡大が活発化するという相乗効果は、余剰作物と非農業人口の増大を可能にし、各地には余剰産物を売買するための市場を中心として都市が勃興します。農民の収穫や、商人たちの支払う通行税によって生計を立てていた領主たちは、この経済発展の恩恵を存分に受け、石造の城建築という莫大な費用のかかる事業にも着手できるようになったのです。

11世紀末以降の城の発展には、十字軍を媒介にしたイスラム文化の流入の影響もありました。第一回十字軍へ参加した農民や騎士たちは、エルサレム奪還後にそのほとんどが故国に帰ってしまったため、残された聖地の防衛はエルサレム王国などの十字軍国家と少数の騎士修道会に託されました。僅かな騎士だけで広大な聖地を防衛する必要があったヨーロッパ人は、城を用いることで兵数の少なさを補ったのです。騎士たちは現地のギリシア人やアラブ人、トルコ人などの築城技術を学び取り、自分たちの戦闘経験も活かして城を改築・建造していきました。その築城技術の一部は十字軍帰還者らによって輸入され、多角形や円形の塔やキープがヨーロッパの城塞に導入されていくようになったのです。角の部分が脆い矩形の塔に対し、多角形や円形の塔には死角がなく、丈夫であるという利点がありました。1215年にジョン王に包囲されたロチェスター城は、陥落後にキープが円形に再建されました。

キープを囲む防護壁が木製の柵から石造の城壁に代わり、城壁自体の防衛力が増していくに連れて、城内には城主の居館をキープとは別に建てることも可能になっていきました。城壁内にある程度の空間を備えた城には、城主一家の住処である居館や炊事場、厩、武器庫など数種の建造物がキープとは独立して建てられました。居館が独立したことにより、城主の住環境は飛躍的に改善しました。もう、キープ独特の狭い窓や冷たい石壁に悩まされることなく、広い食堂でゆったりと食事できるようになったのです。

11世紀以降、フランスではシャテルニーと呼ばれる、城を中心として一円的に広がる領地が形成されるようになります。この時代に、城はそれまでの辺境の防衛、民衆の避難所としての性格を薄め、一定の領域を統治するための支配の道具としての意味を強めていったのです。

PR