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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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天国と地獄と-中世ヨーロッパの死生観


▲「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれた地獄(15世紀)

「神を、そして教会を信じ、敬虔に生きましょう。さもないと地獄へ落ちますよ」

まっとうな教育を受けておらず、文字を読むことさえできなかった中世の農民を前にして、村の司祭や説教師が盛んに持ち出した常套句が上の文章です。「悪さをすれば地獄行き」というのは至極わかりやすい話であり、当時の宗教人は、説教の際に天国という言葉よりも頻繁に地獄という言葉を利用していました。地獄の恐ろしさについては、聖職者たちはいくらでも語って聞かせることが出来ましたし、教会堂の怪物の彫刻や壁画が視覚的にも地獄の恐ろしさを伝える役割を果たしていました。

では中世キリスト教世界にあって、天国と地獄はどのように位置づけられていたのでしょうか。キリスト教の根本理念を形作っている聖書には、天国という言葉が、神の国という言葉とほぼ同義語として使われています。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5:1)の一節は有名です。聖書の中ではからし種やパン種などといった比喩を用いて説明されている天国は、イエスが再来した後の完全となったキリスト教世界を意味しています。

「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入るほうがよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコによる福音書9:47-48)聖書の中でこのように描かれる地獄は、神の教えを守らない者たちの死後における苦しみの場です。しかし、天国も地獄もほとんどが比喩的に表現されているので、聖書のみから中世人にとっての天国と地獄を理解するのはなかなか困難です。

中世における天国と地獄のイメージ形成は、原始キリスト教時代の教父たちに始まり、時代の聖職者たちによって徐々に進められていきました。大教皇グレゴリウス1世(540頃~604)の『対話篇』には、臨死体験や幻視についての記述があり、これらは中世の来世観に大きな影響をもたらしました。また、ドイツの隠者、オータムのホノリウス(1080頃~1156)は『教えの手引き』の中で天国と地獄について言及しています。これによると、天国は物理的な場所ではなく、歓喜に満ちた霊的な存在であり、反対に地獄では熱さ、寒さ、肉体的・精神的苦痛・悪臭などの耐え難い責め苦が待っている場とされています。

さらに『教えの手引き』には新たな来世の可能性として、天国へ行くために現世での罪を清める、天国と地獄の中間とでもいうべき場が登場します。後に煉獄と呼ばれるようになるこの世界では、人は罪の重さに応じて、短い場合は数時間から数日間、長ければ何年もの間、浄罪に努めなければなりませんでした。この煉獄という考えは、6,7世紀に大陸に持ち込まれたアイルランド修道制の持つ贖罪の意識と重なり、しだいに中世の来世観の一部となっていきます。

13世紀のある説教集の中には煉獄に落ちた高利貸しが、妻の祈り・施し・断食などの敬虔な行為によって救われるという話があります。このように、煉獄は死者と生者との関係を持続させるという性質を持っていました。煉獄の意識は、お互いの死後の平安を求めて、祈りや教会への寄付を行ったギルドや兄弟団などの組織の広まりと連関しながら、中世人の心にゆっくりと染み込んでいったのです。

人は誰しも小さな罪を犯すもの。天国か地獄かの二択では、完全な聖人以外はみんな地獄行きということになってしまいます。煉獄が、まったく罪を犯したことはないとは言いきれない、多くの平信徒の心を掴んだのは想像に難くないですね。



今野國雄『ヨーロッパ中世の心』日本放送出版協会(1997)
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市壁について〈3〉-エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』より

この本は、中世ヨーロッパ都市を論じたものとしては古いものですが、多くの文献に引用されている基本的な書物のようです。この本からは、近年になって新しい役割を見いだされつつある都市の城壁について、古典的な理解を提供してくれると思います。
 
まず本書は都市の城壁(この本では周壁の用語が用いられている)のことを、「死にもの狂いになって平和を求めながらもそれが得られないでいる時代の、切実な必要物」であると述べています。中世ヨーロッパにおいてはフェーデといわれる私闘が自分の権利を守るための行為として法律で認められていました。この私闘は、ゲルマン人による部族間の復習に起源を持っており、集団や個人の間での紛争解決の手段のひとつでした。絶対的な権力を持つ強力な中央政府がないために、自分の権利は自分で戦って獲得するのが当たり前とされていたのです。このようなフェーデ、あるいは国家間の大規模な戦争など、中世ヨーロッパでは戦いがいわば常態としてあり、そのことが城壁を生んでいく最も大きな要因だったのです。
 
このような状況の中で、10世紀から12世紀にかけて盛んに建設された城壁は、都市に対して大きくふたつの影響をもたらします。ひとつめは、都市の持つ集落としての二元構造を解消したことです。それまで都市は、領主の城塞や集落の起点となったローマ時代の城壁という守られた区画と、壁外にまで展開する商人の集落という、守られていない区画に二分されていたが、集落全体を囲む城壁が建設された結果、この二区画がひとつの城壁に囲まれ、ひとつの都市というかたちをつくりあげたのです。
 
もうひとつの影響としては、城壁が近隣の農村と都市とを峻別し、雑多な人間の集まりである都市住民に「われわれ意識」を形成させたことがあります。まず城壁は、住宅の密集と教会堂といった高層建築で農村地域から分けられる集落を、線で鋭く区別する働きを持っていました。また、城壁の建築は都市住民による最大の公共事業のひとつであったため、法的身分や出身地を異にした人々を「自己意識のある市民層」へと変化させていくことになったのです。
 
また、君主たちは城壁を持った都市を城塞とみなして、その建設を奨励しました。彼らは都市への減税、間接税などの都市による徴収の認可を与えることで、財政的に都市の城壁建設を援助しました。君主にとって城壁を持つ都市は、自分の懐をそこまで傷めずに防衛拠点を増加させられることを意味していたので、このように都市城壁の建設を支援したのです。

エーディト・エネン、佐々木克己訳『ヨーロッパの中世都市』岩波書店(1987)

市壁について〈2〉-James D. Tracy "To wall or not to wall"より

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▲アンティオキアの市壁、攻城戦

市壁はヨーロッパの中世都市のシンボルというべき存在です。しかしながら、全ての中世都市が市壁を備えていたわけではありませんでした。市壁はなぜ建てられたのか、というのがこの論文のテーマです。今回は、この中で紹介されているデータを見ていくことで、中世ドイツにおける市壁建築の有り様について考えていきます。
 
Heinz StoobによるMitteleuropaにおける都市分布図から、市壁のある都市の分布に地域差があることがわかります。Mitteleuropaとは中央ヨーロッパに似ていますが、少し違っていて西はカレーから東はポーランドのヴィスワ川まで、北はスカンディナヴィア南部から南はアルプス裾野のイタリア、ダルマティアまでを含むヨーロッパのかなり大きな領域のことを指しています。このMitteleuropaの都市を経度20度で東西に分けると、東側の都市そのものの少なさと同時に、市壁を持つ都市の割合も低い(西は4855都市のうち45.1%、東は768都市のうち15.5%)ことがわかります。特に西側の都市化が進んでいる地域(フランドル、ラインラント、ヘッセン、ザクセン)や争奪の的になった辺境(低地地方)で強固に要塞化された都市の集中があるようです。このデータにおいては、塁壁(rampart)や柵(palisade)しか持たない都市は市壁を持たない(Unfortified)とみなされています。
 
Deutsches Stadtebuchのシリーズ(DSB)は、都市特許状や市長などの都市行政の存在を指標としたドイツ北部、中部の1083の都市について調査している。これによると、1800年までの間で、1083の都市のうち576の都市(53%)は少なくとも一度は市壁に囲まれましたが、そのうち建設時期がわかっている428の都市のうち390の都市(91%)は1500年まで市壁を持ち、中でも13,14世紀における建設が最も多い(2世紀で71%)ことがわかります。また、都市の人口も市壁の建築と関係があったと考えられます。1500年までのおおよその都市人口がわかっている185の都市のうち、人口が3000人以上の都市は全て市壁を持っていましたが、1000人未満の都市では43%した市壁を持っていませんでした。
 
都市の法的な地位とも市壁は関係していました。特許状を持つ862の都市のうち市壁を持つのは57%に上るのに対し、特許状のない都市では41%に留まっていました。13世紀に特許状を与えられた都市に至っては77%の都市が市壁を持っていました。これは、特許状を与えた領主が都市に経済的機能に加えて軍事的役割を期待していたことを示しています。13世紀のラインラントの伯や司教、14世紀西プロイセンのチュートン騎士団などは、辺境防衛のために都市を建設しています。城を築き守備隊を置くよりも、都市に市壁を築いて市民の自衛の力を利用する方が安価だったのです。
 
また都市の社会的・経済的性質も市壁建築に関わっていました。商人による支配が行われた交易の中心地としての都市では、市民によって市壁が建設されましたが、鉱山を主産業とする都市ではあまり市壁がつくられませんでした。なぜなら、発展も衰退も急激な鉱山業の町は拡大も縮小も速く、都市域を囲い込むことや市壁建築のための富を維持するのが困難だったためです。また、港湾都市は一般に海という自然の要害が利用できたことにより市壁は少なかったようです。また、城や教会を書くとせず、領主によって建設されたわけでもない自然発生的な都市で市壁が少なかったことは、領主の設置した都市の方が市壁を持つことが多かったことを示しています。市壁建築に対する領主や国王の影響力の大きさにも地域差があり、イングランドなど王権の強かった地域では国王の認可した都市のみが市壁を持つことができ、市壁建築権が国王大権のひとつとみなされていたドイツでは、都市は市壁建設の許可を国王や領邦君主に求めました。
 
このように都市の市壁建築は、自然の要害の有無、特許状の有無、人口、都市の性質、君主による防衛や権利譲渡の思惑など様々な因子によって建設されました。この中で、市壁を持たないとされた多くの都市にも何らかの防衛設備はあったということは注目すべきであると思います。市壁(wall)と塁壁(rampart)や柵(palisade)との明確な違いはどこにあるのかを、今一度考える必要もあると思います。
 
これらのことを総合し、中世の景観を考えると、そこには確実に堅固な城壁をめぐらす数少ない大都市と、市壁のあるものもないものもある多くの小都市、そして市壁のない小都市と見た目ではほとんど変わらないと思われる防備を施した大きな農村や、それ以外の無数の小さな農村の広がりといったものを想像できるかと思います。もはや、そこには都市と農村が明瞭に分けられる景色はなく、むしろ大都市と小村とのグラデーションを思わせます。都市域とそれ以外を分断し、都市のシンボルとして、都市を農村と区別するような機能を持つ市壁のことを考えると、逆に都市と農村の曖昧な境界に行きあたるというのはなかなか面白いことだと思います。

James D. Tracy, To wall or not to wall: Evidence from medieval Germany, In James D. Tracy(ed.),City walls: the urban enceinte in global perspective, Cambridge University Press,2000,pp. 71-87
 

市壁について〈1〉-ベネーヴォロ「都市の世界史」より

ローマ帝国の滅亡から10世紀以降に都市が新たに誕生してくるまでの期間、ヨーロッパの都市世界において顕著だったのは縮小、消滅の動きでした。人口は外敵の攻撃を受けやすく、不安定な都市から大地から生計を得られる農村へと移ってゆき、社会システムもまたその流れにそう形で、農地=荘園を基盤にした貴族たちによる封建制が発達しました。そのような流れの中でも、ローマ時代に建設された都市の全てが放棄されたわけではありませんでした。都市に残ることを決めた人々は、コンパクトになった都市空間の中で生活していくことになります。円形劇場や競技場などの古代の公共建築は城塞化され、教会などの最重要施設を囲む形で市壁が縮小されました。例えばアルルでは円形闘技場をそのまま城壁代わりにして、その中に住居が建ち並びました。ちなみに、当時は墓地を壁外につくることが多かったために、墓地や聖人の廟に隣接して建てられた教会が市壁の外にあることも一般的でした。後の時代にも言えることですが、この時代の都市はまさしく規則性と不規則性のはざまにあったといえます。古代の規則正しい道路をそのまま使う場合もあれば、自然のかたちに合わせて変えていくこともあったからです。この自然と幾何学の垣根をとりはらった都市のかたちこそ中世都市の特徴と言えるのです。
 
10世紀以降、農業上の発達や、異民族の侵入がほとんどなくなったことからヨーロッパは新たな時代を迎えます。都市の再生です。縮こまったローマ都市の周囲には、教会や修道院などの拠点を中心に新しい都市=ブールが建設され、さらにブールに入りきらなくなった人口は城外市=フォーブールに流れ込みました。都市に不動産を持つ市民たちは、自分たちの活動を支えるために、徴税、行政や立法の権利を領主たちから獲得していきました。税金は、彼らの安全のための都市防衛や市壁建築のための原資となりました。
 
前述の通り、中世の都市は「あらゆる可能な形体を持っており…歴史的、地理的なあらゆる状況に自由に適応して」(p60)いました。そのために、中世都市を一般的にひとつのモデルとしてまとめることは難しいのですが、それでもいくつかの共通項はあります。様々な用途を持つ大小の街路、宗教・経済・政治の中心としての広場などですが、ここでは市壁について詳しくみてみます。市壁は都市防衛の要でしたが、そのコストは莫大なものであったので、市壁は一定の領域をできるだけ短い線で囲めるように不規則な円形をしていることが多かったようです。都市住民の増加に対しては、まず都市を横に広げるよりも縦に長くする方が優先されました。つまり、複数階建の建物を建設し、それでも市域が足りなくなって始めて市壁が建てられたのです。しかし、14世紀に市壁を拡大したいくつかの都市では、その後の人口減少によって市壁内に緑地が残されてしまうような場合もあったようです。

レオナルド・ベネーヴォロ、佐野敬彦・林寛治訳『図説・都市の世界史-2[中世]』相模書房(1983)

斎藤勇「カンタベリ物語 中世人の滑稽・卑俗・懺悔」中央公論社(1984)

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カンタベリ物語―中世人の滑稽・卑俗・悔悛 (中公新書 (749))
(amazon)
 
目次
第一章『カンタベリ物語とはどんな作品か』
第二章『カンタベリ物語』「序の歌」をめぐる巡礼たち
第三章『カンタベリ物語』における笑い
第四章『カンタベリ物語』における真面目と冗談
あとがき


 
高校世界史において、中世ヨーロッパの三大文学として、フランスの「ローランの歌」、ドイツの「ニーベルンゲンの歌」に並び立つのは、イギリスの「カンタベリ物語」です。この物語は、偉大な英雄が活躍する叙情詩である前二者と異なって、イングランドの著名な巡礼地であるカンタベリへ向かう巡礼者たちが、旅の慰めに各々自分の知っている話をするというものです。巡礼ですから、上は騎士や高位聖職者、下は農夫や一介の修道士など様々な身分の人々が集まっています。ちなみに、このような形の物語をフレーム・ストーリーといい、古くからの文学作法のひとつです。「千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)やボッカチオの「デカメロン」などはその代表と言っていいでしょう。
 
本書は、カンタベリ物語の著者であるジェフリー・チョーサー(1340頃-1400)その人について、物語に登場する様々な人々の中世における地位や関係、さらに物語全体を覆っている笑いや冗談の意識や、それらの意識と共にあるある種の真面目さ、さらに巡礼や物語における聖と俗の葛藤についてなどがコンパクトにまとめられています。まだ岩波から完訳の「カンタベリ物語」が出版されていない時代に書かれたものですが、完訳版の注を引くだけではわからない物語の全体像が浮き彫りになってくる本です。
 
今回はその中でも、物語の全体を貫いている聖と俗の葛藤について紹介していきます。「巡礼とは宗教的な意図で遠くの聖地を訪れ、そこで超人間的なものの恩恵にあずかろうとする企てである」。したがって、巡礼は元々聖の理論に基づいているわけです。教会も、巡礼を奨励し、罪を償うための行為として認めていました。しかし、巡礼が一般化・日常化すると共に、そういった巡礼の聖の意味は薄れていき、遊びとしての巡礼意識が広がっていきました。長い冬を越えて、春を迎えた人々は、いそいそと巡礼の準備を始めます。解放感に満ちた春の旅には旅の仲間との娯楽がつきものになり、「現代で言えば週末の団体旅行」のようになっていきます。それでも、巡礼は完全に聖の世界から自由になることはありませんでした。「カンタベリ物語」の最後の話は、司祭による七つの大罪と悔い改めについての長い説教でした。巡礼の一同はこの説教を真剣に拝聴するのです。ここには、巡礼における聖の論理が働いているといえます。「カンタベリ物語」を支配している遊びの雰囲気は、現実の世界を中心から支えている聖の要請から遠ざかって、自由を味わおうとする俗の論理から来たものといえます。ここに、中世社会全体における聖と俗の葛藤のひとつの形をみることができるのです。

中近世インドの農村社会-ワタン体制

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▲ワタン体制の概念図。同色は同カーストを示しています。

世界史でのインド史の扱いはよいとは言えません。カースト制度こそ細かく扱いますが、それ以外はほぼ王朝の羅列で終わってしまいます。マウリヤ朝、クシャーナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝、ラージプート時代を経てムガル帝国、植民地支配と、これだけで前近代インド史が終わってしまった、なんて方も多いのではないでしょうか。

インドの社会には、ヨーロッパとはまったく異なる社会体制がありました。今回は特に、インドのマハーラーシュトラ地方における農村の社会関係を紹介します。広いインド一般にこの地域での事象を適応してもよいかはわかりませんが、インドの中近世社会のひとつのかたちとしてまとめていきたいと思います。
 
興味深いのは、この地域の史料の中には、土地所有に関する文書や土地売買文書といったものがほとんど見つかっていないことです。その代わりに、ワタン(vatan)と呼ばれる世襲的権益が、売買や紛争の対象として多く文書に登場してきます。それではワタンとはいったいなんなのでしょうか。
 
ワタンとはマハーラーシュトラ地方では村落共同体(village community)や、村落共同体が50前後集まって構成している地域共同体(local community)における、世襲的役職とそれに付随する取り分(現代でいう給料でしょうか)を意味しました。
 
村落共同体では、村長は村長ワタンを持ち、村人の大部分を占める正規の農民は農民ワタンを持っていました。また、村全体にサービスを提供する大工、鍛冶屋、陶工、占星師、不可触民などのカーストの人々がいて、彼らは大工ワタン、鍛冶屋ワタンといったそれぞれのワタンを持ち、村からバルテー(balute)と呼ばれる報酬を受け取っていたためバルテーダールと呼ばれていました。当時の理念的な村の規模を示す「60人(家族)の農民と12種類のバルテーダール」という言葉がありましたが、実際の村はこれよりも小規模だったようです。
 
村よりも大きな単位である地域共同体においては、デーシュムク(Deshmukh)と呼ばれる首長や書記がいて、それぞれのワタンを持っていました。また、村落共同体で生活する大工や鍛冶屋は、この地域共同体を単位としてカーストの集団を形成していました。このカースト集団の長はメータル(Mhetar)と呼ばれ、このメータル職もワタンでした。面白いことに、同カーストの広がりはひとつの地域共同体にとどまらず、それぞれの地域共同体のカーストは互いにネットワークを巡らせており、理念的にはインドのどこまでもこのカースト的分業社会が広がっているということです。
 
このように、村落共同体とその上位に位置する地域共同体における社会を構成していたのは、各種のワタン所持者(ワタンダール)たちでした。ワタン体制(Vatan System)とも言えるこの社会関係は、地域における社会的分業の体制であり、かつ上下関係を持つ階級的な関係でもあったのです。

この体制が形成され始めたのは10世紀前後で、14世紀にはおおかたのかたちができあがっていたと考えられています。また、土地ではなくワタンだ重要だった背景には、当時のインドでは人口に比べて相対的に余っており、労働力の伴わない土地にはほとんど価値がなかったためであるそうです。土地が重要な財産であった、ヨーロッパや日本の社会とはかなり違っていて、興味深いですね。

▼マハーラーシュトラ州

ゴシック式大聖堂の基本

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▲ケルン大聖堂(Wikipediaより)

今回は、中世盛期以降に広まったゴシック様式の大聖堂の建築の基本について紹介したいと思います。ちなみに、カトリック教会において一般の教会(church)と大聖堂(cathedlar)の何が違うかといいますと、施設のトップが司祭なのか司教なのかということです。大聖堂は、別に司教座聖堂とも呼ばれるように、司祭(いわゆる村に1人、街区に1人いるような聖職者)の上位者である、司教の座がある教会でした。
 
さて、前置きはこれくらいにしまして、ここからは非常に重たい石を積み上げた大聖堂が、なぜ、他のものを圧倒させるような高さで建っていられるのかということについて明らかにしていきます。結論から言うと、ゴシック式大聖堂を支えていたのは、尖頭アーチ、飛び梁、リブ・ヴォールトという三つの要素でした。
 
まず尖頭アーチ。大聖堂の壁面や天井はアーチによって支えられていますが、よくよく見るとアーチはただの半円形ではなく先端が尖っています。これが尖頭アーチです。普通の半円アーチでは、一番上の石の重力が横方向に働きやすく、幅を広げるとアーチが崩れやすくなってしまいますが、尖頭にするとその力が下に向きやすくなるために、下の石で上の石を支えることができるようになります。
 
しかしながら、尖頭アーチを使っても幅広のアーチで重い石を支えるのには十分ではありません。そこで登場するのが、飛び梁です。飛び梁は、どうしても横方向に働きがちな一番上の石の重力を、その外側から抑え込む役割を果たします。アーチの左右両側から、横方向の力に釣り合うように支えるのです。こうして、大聖堂のアーチは大きな幅を持つことができるようになります。このアーチは、壁の石ではなくアーチ自身によって支えられているので、アーチの間部分には大きなステンドガラスをはめ込むことができるようになります。

最後に、リブ・ヴォールトとはなにかといいますと、簡単に言えば直角に交差した尖頭アーチのことです。つまり、4本足の立体アーチです。これによって、天井の石の重力を柱で支えることができるようになったのです。

ゴシック式大聖堂は、それまでのローマやギリシャで使われていた半円アーチの建築術から一歩先に進んだ技術を取り入れたことにより、未曾有の高さを誇る、壮麗な建造物となることができたのです。そして、この大聖堂は、人々の神への畏怖や、宗教心をかき立て、民衆への教化にも大いに役立ったことでしょう。

佐藤彰一「中世世界とは何か」岩波書店(2008)



久しぶりに「ヨーロッパの中世」というシリーズもの一巻を読み直しました。前読んだはずなのですが、内容をすっかり忘れていまして。しかし、読んでいくうちに思い出してきて、面白い考えだなあと改めて思ったので、最初の部分の内容を紹介します。

ヨーロッパの中世とはなにか。これが難題です。もちろん教科書的にいえば、476年の西ローマ帝国の滅亡から1453年の東ローマ(ビザンティン)帝国の滅亡までの約1000年間のヨーロッパということになります。これに対して、たとえば両ローマ帝国の滅亡は象徴的な出来事にすぎないとか、別の年代を基準にするとか、議論は大きくありますが、筆者はもっと大きな視点から中世を捉えようとしています。

「中世を切り出す」という小見出の通り、筆者は先史時代と呼ばれる文献資料の存在しないはるか昔のヨーロッパから現代までの長い人類史の中で、中世の位置づけを探っていきます。その中で、西洋の歴史家によって考えだされたヨーロッパにおける世界システムなどにも言及しています。無論、ここでいう世界システムとは近代ヨーロッパの拡大による地球全体の経済関係の話ではなく、大きくてもヨーロッパから北アフリカ・中東までを含むユーラシアの西部に限っての話です。この世界システムの考え方では、中世までの世界は、富める中心と未加工品を中心に送る周辺からなるシステムの時代と、地域ごとに小さな共同体が首長を中心に集まって、相互に経済活動をしていた、全体的に見ればまとまりの弱い時代に分けられるそうです。わかりやすいのがローマ帝国の時代で、この時代の中心は地中海世界で、北ヨーロッパなどが周辺にあたります。そして、西ローマ帝国の滅亡後は地中海東部が中心となります。中世ヨーロッパは、ゲルマン民族侵入後に小さな集団に分裂したために、半周縁に置かれていくことになるのです、

また、ヨーロッパの長い歴史は民族侵入の歴史であり、先史時代にはスキタイ、ケルト史料の残る時代にはゲルマン、フン、アヴァール、マジャール、ブルガール、トルコなどの異民族の侵入が常態でした。しかし、オルマン・トルコによるヨーロッパ東部から東地中海への支配は、ヨーロッパ半島に蓋を閉め、以後異民族の大規模な侵入はなくなります。つまり、中世とは先史時代から続く長い長いヨーロッパの歴史の中で、最後の民族移動があった時代なのです。この後には、出入り口をふさがれたヨーロッパ人は西の海から世界へ進出していくことになるのです。

このように、中世を長いヨーロッパの通史の中から切り出して考えることで、新しい見方ができるのだと思います。古代と近世との比較だけにとどまらず、もっと大きな視野をもって中世について学びたいものです。


佐藤賢一「ジャンヌ・ダルクまたはロメ」

 

今回は、佐藤賢一氏による中世ヨーロッパを描いた短編「ジャンヌ・ダルクまたはロメ」を紹介します。そもそも中世史を描いた短編というものはあまり多くはなく、そもそも珍しい作品なのですが、さらにこの作品が珍しいのは、著者の佐藤氏が描くことが多いフランス以外の地域を舞台とした短編が収録されている点です。フランスのもののほかに、スペインを題材にしたものが1話、イタリアを舞台にしたものが3話収録されています。

この中で特に面白いのが、「エッセ・エス」と「技師」です。「エッセ・エス」は統一間近のカスティリャ王国とアラゴン王国の間で大冒険をしたある騎士の回想録というかたちをとっています。古い習慣を重んじる、わかりやすく堅物な騎士が、自分の使える王女イザベルのために、自由奔放な王子に悩まされながらも旅をするというのが本筋なのですが、この王子と王女が婚姻関係を結んだことにより、統一スペインが形成されていくことになるのです。文中にはマキャベリやグーテンベルク、ドンキホーテなども登場し、まさに時代が中世から近世へ移り変わる様が、小気味よく感じられます。

「技師」は、築城術を学んだ技師が、故郷の都市防衛のために大工事をするという話です。なによりも、築城家という特殊な職業を扱っているのが面白いです。「エッセ・エス」と同様に、この作品もヨーロッパの時代の転換を示しており、大砲の発達によって築城技術に大転換が訪れていたことを背景にしています。フィレンツエェやミラノのような大都市国家に比べ描かれることの少ない弱小都市国家の人々が、大国フランスへの恐怖を感じつつも戦う様は、新しい視点を提供してくれると思います。