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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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傭兵隊長ジョン・ホークウッド



1363年、トスカーナの平原に大軍団が姿を現しました。後に百年戦争として知られることになる英仏戦争の前半戦を締めくくったブレティニーの和を受けて失業した傭兵たちが結成した「白の軍団」コンパニア・ビアンカが戦争を求めてイタリアへやってきたのです。後にフィレンツェから国葬をもって遇されることになるジョン・ホークウッドは、当時は軍団内の一隊長に過ぎませんでした。

軍団は最初、フィレンツェの仇敵であるピサと契約を結びましたが、ピサ当局が満足する成果を上げられないでいました。ホークウッドが一隊長からコンパニア・ビアンカ全軍を率いる立場になったのはこの時のことです。彼は、対フィレンツェ戦で決定的な敗北を喫するも、その後のピサの政変に深く関わり、新たに生まれたピサ領主との間に緊密な関係を結びました。

彼はその後、ピサ領主と同盟関係にあったミラノの領主、ヴィスコンティ家と結んだ後、教皇庁に雇われます。教皇庁との契約中、ホークウッドは枢機卿の名の下、チェゼナの町での大虐殺に参加して悪名を轟かせます。チェゼナの虐殺は、教皇との契約による最後の仕事となり、次に彼を雇ったのはフィレンツェとヴィスコンティ家でした。しかし、ヴィスコンティ家の頭がすげ変わったことを受けて、今度はパドヴァの依頼でヴィスコンティ家と戦ったりもしています。

彼が、どの陣営に属している際でも標的にされた都市がシエナでした。シエナは、ホークウッドの軍が都市近郊を通過する度に、彼の軍団をおとなしくさせておくための代金を支払わなければなりませんでした。支払いを拒めば、ホークウッドの軍はシエナ領内で掠奪をはたらき、たとえ支払いを認めたとしてもホークウッドたちの暴走を止める手立てはありませんでした。アレッツォもピストイアも、トスカーナの雄フィレンツェも、この手の支払いを免れることはできませんでした。

ホークウッドの行動を追っていくと、中世イタリアの傭兵隊長たちの姿が浮かび上がってきます。金を払っても言うことを聞かない傭兵隊長は、都市にとって時に偉大な守護者であり、またある時はやっかいな掠奪者でもありました。彼らは、半分盗賊のような荒々しい兵士たちを束ねる親分であり、稼ぎを一銭でも多くしようと狙っている冷徹な企業家でもあり、婚姻や契約を通じて群小の都市と領主との間を渡り歩く政治家でもあったのです。

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▲ジョン・ホークウッド
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イングランドにおける中世都市の成立―ノルマン・コンクエスト以前

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▲ノルマン・コンクエスト(バイユーのタペストリー)

中世都市の成立と題された本の多くは、中世ヨーロッパの中心であったフランスとドイツを舞台としたものが多く、イングランドにおける中世都市の成立について語ってくれるものは多くありません。今回は、触れられることの比較的少ないイングランドの都市に焦点を絞って、その成立事情を簡単に紹介しようと思います。今回は特に、ノルマン・コンクエストまでに発達した、イングランドの古い都市に的を絞ります。

英語の辞書で、都市や都市行政に関わる単語を探すと、いくつかの種類があります。これらの語は、中世都市やその前身の都市を指すのに使われていていた言葉を由来としています。例えば、英語の都市や市当局をそれぞれ意味する「city」や「municipality」といった語は、ローマ支配下のブリテン島に建設された都市であるキウィタス(civitas)やムニキピウム(municipium)を語源としています。これらのローマ都市は、ローマ人によって新たに建設、植民されたものもあれば、既存の部族集落を都市化しただけのものもあり、与えられていた権利の大きさも異なっていました。イングランドには、ランカスタ、マンチレスタ、グロスタなど「チェスタ」「カスタ」「(セ)スタ」などを語尾に持つものが多いですが、これらはラテン語で砦、兵営を意味する「カストルム」(castrum)に由来しており、これらの都市が元々はローマ軍団の駐屯地であったことを示しています。

中世都市の起源はローマ都市だけではありません。英語で行政区や市を意味する「borough」は、アングロ・サクソン語の城塞、すなわちブルフ(burh)に由来しています。5世紀初頭のローマ撤退後のブリテン島は、土着のブリトン人と来航してきたアングロ・サクソン人との支配権争いを経て、アングロ・サクソン人の支配する小王国が割拠しました。その後、新たなる侵入者デーン人との戦いの際、アングロ・サクソンの一王国ウェセックスの君主たちは、いまやデーン人の支配領域となったブリテン島東部に接する前線に城塞を築いていきます。これがブルフで、これらのうちのいくつかは、中世にバラ(borough)と呼ばれる都市として発展していきます。

しかし、全てのローマ都市やブルフが都市に成長したわけではなく、今では場所も定かでないものや、中世盛期に至っても商業的な発展がなされなかったものもありました。つまり、都市が発展するかは、その土地が交易に適している、商工業の焦点と成り得るかどうかで決まったのです。ローマ都市やブルフは戦略上の要地に建てられましたが、そこが幸運にも交易に最適な場所であれば、防壁が提供する防衛力の魅力も手伝って、そこに多くの商人や職人が集まり、都市を形成したのです。都市は、一般的に市場と造幣所を持ち、地域商業の結び目となりました。さらに、ブルフなどの核を持たなくとも、交通の要所である街道の交差点や、渡河可能な橋などに市場が形成されることで、多くの都市が誕生しました。ロンドンの前身はロンディニウムと呼ばれるローマ都市でしたが、さらにそのまた前身はテムズ川に架かる橋を中心としたブリトン人の集落でした。

注意しておくべきことは、これらの都市成立の要素は、きれいに分類できるものというよりは、重複することのある曖昧なものだったという点です。ローマ都市にいくつかはブリトン人集落を由来とするものがあり、複数のブルフが鉄器時代の集落跡や、ローマ都市などを拠点にして建設されることもあったのです。核が、ブルフと橋、修道院とブルフなど複数あるものも存在するため、都市成立の要素は柔軟に考える必要がありそうです。


池上俊一「動物裁判」講談社(1990)

 

 <目次>

プロローグ
 
第一部 動物裁判とは何か
1 被告席の動物たち
2 処刑される家畜たち
3 破門される昆虫と小動物
4 なぜ動物を裁くのか
 
第二部 動物裁判の風景―ヨーロッパ中世の自然と文化
1 自然の征服
2 異教とキリスト教の葛藤
3 自然に対する感受性の変容
4 自然の観念とイメージ
5 合理主義の中世
6 日本に動物裁判はありえたか
 
エピローグ
 



13世紀から17,18世紀にかけて、ヨーロッパでは動物裁判という奇妙な慣行が存在していました。そこでは、弁護人や裁判官も登場するような厳密な裁判が行われた上で、子殺しの雌豚が吊るされ、獣姦の相手となった牛や驢馬が火炙りの刑に処されました。また、農作物を荒らしたり、収穫を台無しにしたりするバッタや毛虫、ネズミたちは、農民の嘆願を受けた聖職者によって聖水を振りかけられ、それでもだめなときには破門されたのです。動物や虫を人のように扱うこのような行いは、現代人からみると、呪術的要素に満ちた中世の蒙昧のなせる技のように思われてしまいます。しかし著者は、この行いは、人間と自然との関係の、革命的な転換を母胎として始まったと考え、キリスト教的人間中心主義と自然との闘い、人々の自然観の変質と合理主義が、このような動物裁判を引き起こしたのだと主張しています。
 
第一部では動物裁判と昆虫や小動物への破門の史料を紹介し、それらの裁判の実態がいかに人間のそれと同じように運用されたかが示されています。動物裁判の主役は、当時まだ野生の猪と大差なかった豚で、猛り狂った豚が人間を食い殺してしまう事件は日常茶飯事だったようです。また、動物たちはただ人間に断罪されるだけではなく、例えば召喚に応じないネズミの弁護人は猫の脅威のために仕方がないのだ、と主張しています。また、動物裁判は、蒙昧な民衆による動物への勝手な私刑ではなく、公権力(領主裁判所や司教代理判事)の介在する正式な裁判であり、当時のエリートたちはこの動物裁判を黙認ないし是認していました。では、いったい動物裁判はどのような視点から捉えられるべきものなのか。それは続く第二部で明らかにされます。
 
第二部では、動物裁判を民衆の迷信や、動物を擬人化する考え方とは区別して、人間の自然観の転換にその要因をみています。11,12世紀、中世の自然を代表する森は、大開墾運動の中で切り開かれ、水車や風車の普及は自然を人間の利用するエネルギーとしてみる目を養いました。さらに、自然への崇拝や畏怖は、三位一体の神を唯一の崇拝対象とするキリスト教によって、一部の聖性をキリスト教的なものへと代替させた他は、破壊され、悪魔への変性を押しつけられました。また、このような動きは、自然をただ畏れるだけの対象から、観察し、愛玩し、感情移入する存在へと変えていきました。絵画や彫刻、文学作品の中での自然の描き方をみていくことでそのことは理解できます。

また、中世に目覚ましく発展した合理主義の観念は、人間の服すべき神の自然法と、宇宙の秩序を維持する普遍法を一体化する結果を生み、そのことは、万物の霊長たる人間が、神の法の下にある人間の法をもって、動物(自然)を裁くことを正当化しました。古来、自然の秩序を傷つけた人間が人身御供にされたのと正反対に、人間による秩序を傷つけた動物が人によって裁かれることになったのが、動物裁判でした。18世紀以降に発達した自然科学は、自然を人間とは独立した固有の論理をもって営まれていることを認識させ、そのことは人間中心主義的な自然支配に疑問をもたらし、動物裁判は終わりを告げます。近代世界を生み出した、人間中心主義の自然観の下に、合理主義の流れが交わって誕生したのが動物裁判だったのです。

ウンベルト・エーコ「バウドリーノ」岩波書店(2010)





ウンベルト・エーコという名前はどこかで聞いたことのある人も多いと思います。エーコは北イタリア出身の記号論学者であり、日本では中世の修道院を舞台にした話題作「薔薇の名前」の著者として特に有名です。今回は、エーコの最新作「バウドリーノ」についてご紹介したいと思います。さて、この本は年老いたバウドリーノが、第四回十字軍により陥落したコンスタンティノープルの高官ニケタスに、自分の生涯を語るという形で進められていきます。バウドリーノは北イタリア出身の農民の子でしたが、自らの才能を使って神聖ローマ皇帝フリードリヒ、通称バルバロッサ(赤髭)の養子となります。そこから、彼の奇想天外な大冒険が始まるのです。
 
半世紀に及ぶバウドリーノとその仲間たちの活躍を、実際の歴史的事実と織り交ぜながら、かつその時代の習慣を踏襲しつつ描いている本書は、読んでいて飽きることがありません。例えば、上巻の中心の舞台となる北イタリア諸都市の軍事同盟であるロンバルディア都市同盟と皇帝バルバロッサとの対立は、度重なる包囲攻撃や平野での開戦などによって直接主人公たちに影響を与えます。また、ビザンティン帝国の住民が、西欧人からはギリシア人と呼ばれるのに対し、自らはローマ人であると述べているなど、当時の人々の認識の違いが鮮明になっています。
 
さらに、バウドリーノを面白い作品に仕上げているのは、下巻を中心に展開する未知の東方世界への旅です。ここでは、前半のリアルさとは対照的に、幻想的で神秘に満ちた東方世界の様子が描かれています。しかし、この空間は単なる著者の空想の産物ではありません。中世に流布した偽造された「司祭ヨハネの手紙」の世界をモデルとしているのです。司祭ヨハネとは、中東のイスラム教国のさらに東にあるとされた伝説的なキリスト教国司祭ヨハネの王国の支配者とされていました。この国の住人はいずれも普通の人間とは異なった特徴を持つ「怪物」ばかりですが、それぞれが生き生きと描かれています。つまり、中世の人々の考えていた理想の、あるいは理念上の東方世界に、エーコは命を吹き込んだのです。
 
神聖ローマ皇帝のイタリア政策と、ロンバルディア都市同盟、マルコ・ポーロも探したプレスター・ジョンの王国など、世界史の教科書にも載っているような有名な歴史や事件、伝説を、ここまで膨らませて書いてあるのは驚きです。フィクションではありますが、皇帝とイタリア関係について知りたいと思っている人への楽しい入門書にもなるのではないかと思います。

ジャック・ル=ゴフ「中世の身体」藤原書店 (2006)




中世ヨーロッパの歴史と題された書物の多くは、古代ローマ帝国の滅亡からゲルマン民族の侵入に示される中世初期、現代に連なる国家の成立と封建制の確立、農業の躍進と都市の勃興をみた中世盛期、戦災、疫病、飢饉に見舞われた衰退の後期中世を経てルネサンス、大航海時代を迎えるというようなスタイルをとっています。もちろん、そのような政治史、制度史も重要な歴史の一面ですが、そこには生きた人間は存在していません。あるのは連なる事件と年号、連綿と続くエリートの系譜だけです。
 
そのような中で、中世の生きた人間を発見しようとした身体史の総合として、本書は非常に興味深い内容となっています。中世の身体のカテゴリとして、性を中心とする身体の抑圧からはじまり、中世人の死と生、医療と病気、食、入浴、スポーツなどの生活の諸相を描き、さらには身体を国家や政治機構の象徴としてとらえるなど、中世人の身体観にまで話は広がっており、身体史の重要性が実感させられます。結びの言葉「身体には歴史がある。身体とは、我々の歴史なのだ」が端的に表している通り、本書の第一の主張は身体には歴史があるということなのです。
 
人間の体への認識や体を動かすという行為は、あまりにも当たり前のことであるが故に歴史家たちに顧みられてきませんでした。「序」の中で引用されているマルセス・モースは、体の動き方や身のこなしは人類に生得の普遍的なものでは有り得ないと述べています。これは、ダンスなどの民族独特の体の動かし方についての話ではなく、歩き方、就寝の方法、座る、しゃがむといった休息の方法など人間の生活に欠かせない動きの話なのです。モースはこれらの人間の体の動きは「とりわけ社会、教育、作法、流行、威光などとともに変化する」と述べ、身体は自然な、歴史とは別の次元に存在するものではなく、その時代や地域の影響を如実に受けて変化していく、文化的なもの、すなわち歴史ある存在なのだと主張しています。
 
本書の意義は、生活諸相への考察が単に中世の物質社会の説明に終わっていないところにあります。つまり、食や入浴などの事象を単なる生活の一局面として捉え、何を食べ、どんな家に住んだかなどを物質的に考察するだけでなく、中世のイデオロギーを支配したエリートのキリスト教会と、それに反抗する民衆の身体という全体の中に、それらの事象が埋め込まれているということです。これにより、本書は中世人の生活に対する素朴な好奇心を超えた、生活、文化を規定していたものの領域にまで踏み込んでいる内容となっています。
 
中世における身体の最大の特徴は、それが一方で称えられ、またもう一方では抑圧されるという緊張関係の中にあったということでした。その中で、キリスト教会は当初身体を完全に抑圧しようとしましたが、身体の強い反抗はそれを許しませんでした。そこで、教会はただ欲求を禁止して身体を抑圧することを止め、身体をキリスト教の教義体系の中に組み込み、管理、監視していくことで人々を根幹から支配していったのです。教会による規制や、身体の反抗は、双方とも近代から現代に連なるヨーロッパ人の身体史に影響を与えています。中世の身体、中世の人々は、ふたつの価値の中で揺れ動きながら近代を模索していたのです。

石壁と円塔-城の発展

中世ヨーロッパの城主たちにとって、もっとも大きな関心のひとつは自分の城の安全性を高めることでした。城の防衛力向上のためには様々な工夫がなされましたが、もっとも効果があったのは木造の城を石造に建て替えるというものでした。石造の城は強度の面でも耐火性の面でも優れていたため、財力のある城主たちはこぞって石造の城を建てようとしました。最も早い時代の石造の城は、10世紀中旬以降のフランスで確認されています。950年に建てられたドゥエ・ラ・フォンテーヌ城と、995年に建てられたランジェ城は最初期の石造の城として有名です。モット・アンド・ベイリーのような木造の城が全盛だった時期に建造されたこれらの城は、貴族の中でも有力な伯などの諸侯によって建てられました。

11世紀を通じて石造の城は増加してゆき、12~13世紀になると城は石造のものが一般的となります。石造の城は新たに建造される事もあれば、元々あった木造の城を改築して石造にすることもありました。フランスのロッシュ城は11世紀に石造の城として新設され、イングランドのヨーク城は11世紀の建設当時は木造でしたが、13世紀に石造に立て替えられました。12世紀に一般化した石造の城は、石造の矩形塔(キープ)を外壁で囲む形を基本にしており、イングランドでは「シェル・キープ」様式と呼ばれました。

城の石造化の背景にはヨーロッパ世界全体での経済発展がありました。農業の躍進は人口の増加を招き、人口が増加したことによって開墾や農地の拡大が活発化するという相乗効果は、余剰作物と非農業人口の増大を可能にし、各地には余剰産物を売買するための市場を中心として都市が勃興します。農民の収穫や、商人たちの支払う通行税によって生計を立てていた領主たちは、この経済発展の恩恵を存分に受け、石造の城建築という莫大な費用のかかる事業にも着手できるようになったのです。

11世紀末以降の城の発展には、十字軍を媒介にしたイスラム文化の流入の影響もありました。第一回十字軍へ参加した農民や騎士たちは、エルサレム奪還後にそのほとんどが故国に帰ってしまったため、残された聖地の防衛はエルサレム王国などの十字軍国家と少数の騎士修道会に託されました。僅かな騎士だけで広大な聖地を防衛する必要があったヨーロッパ人は、城を用いることで兵数の少なさを補ったのです。騎士たちは現地のギリシア人やアラブ人、トルコ人などの築城技術を学び取り、自分たちの戦闘経験も活かして城を改築・建造していきました。その築城技術の一部は十字軍帰還者らによって輸入され、多角形や円形の塔やキープがヨーロッパの城塞に導入されていくようになったのです。角の部分が脆い矩形の塔に対し、多角形や円形の塔には死角がなく、丈夫であるという利点がありました。1215年にジョン王に包囲されたロチェスター城は、陥落後にキープが円形に再建されました。

キープを囲む防護壁が木製の柵から石造の城壁に代わり、城壁自体の防衛力が増していくに連れて、城内には城主の居館をキープとは別に建てることも可能になっていきました。城壁内にある程度の空間を備えた城には、城主一家の住処である居館や炊事場、厩、武器庫など数種の建造物がキープとは独立して建てられました。居館が独立したことにより、城主の住環境は飛躍的に改善しました。もう、キープ独特の狭い窓や冷たい石壁に悩まされることなく、広い食堂でゆったりと食事できるようになったのです。

11世紀以降、フランスではシャテルニーと呼ばれる、城を中心として一円的に広がる領地が形成されるようになります。この時代に、城はそれまでの辺境の防衛、民衆の避難所としての性格を薄め、一定の領域を統治するための支配の道具としての意味を強めていったのです。


中世の「住」

 日本の木の文化に対比する形で、ヨーロッパが石の文化と形容されることがよくありますが、少なくとも中世に関する限り、ヨーロッパの建物の大部分は木造でした。確かに、中世を代表する城砦や大聖堂の多くは石造ですが、これらは例外的な建物であり、一般の人々の住居はほとんどが木でできていました。都市においても状況は変わらず、市庁舎やギルド会館などの施設に並んで、裕福な市民の邸宅が石造となるのは中世の後期からのことです。都市の住居は、市壁内領域の狭小さのために、縦に空間を有効活用すいる必要があり、2階建てや3階建てが一般的だったようです。最も簡単なつくりの住居は貧農の家でした。踏み固めた床に、壁と柱を建て、藁ぶきの屋根を載せただけの農家は脆く、世代ごとに建て替えや大きな修繕を要しました。貴族の住居であった城も、住居棟が別につくられるまでは、防衛上の要請から住人に広い生活スペースを提供することはできませんでした。
 
プライバシーの概念が薄かった中世では、多くの人々が一つの部屋で生活していました。食べるのも、働くのも、寝るのも、同じ部屋というのが普通だったのです。部屋は壁や柱によって区画に分けられることもありました。区画の数は住民の資力に応じて変化し、たとえば13世紀イギリスのある村では、区画を5つも持つ豪農がいる一方で、区画を1つしか持たない貧農も存在しました。裕福な住民は部屋を複数持つことができ、フランスの聖王ルイ9世は個室で食事をとったり、客人に面会したことが知られています。しかし、彼も個室で一人きりで過ごしたわけではなく、寝るときには近習の騎士たちが王の傍らで一緒に休みました。
 
住環境において窓ガラスはほとんど普及しておらず、中世の後期になるまで教会がガラス窓(ステンドグラス)を独占していました。その代わりに、窓には鎧戸が付けられており風雨から屋内を守りました。天候の悪い日には、少ない光量で生活するしかなかったわけです。光を取り入れるために、木で孔子がつくられたり、油や蝋をひいた紙や布が張られることもありました。窓については、平民よりもむしろ城に住む貴族たちが劣悪な状況にありました。進入口をできるだけ狭く、少なくしてつくられた城の窓は小さく、光を取り入れるにはあまりに貧弱でした。室内照明として、ランプや蝋燭はありましたが、効果が薄く値段も張ったため充分なものではありませんでした。また、家の中心には寒冷なヨーロッパで生活するのに欠かせない暖房具として、家の中心には囲炉裏が置かれました。ここから出た煙は、当初は天井に開けられた孔から出ていくのにまかせていましたが、時代がすすむにつれ煙突と暖炉にとって代わられていきました。しかし、ひとつの暖房で住居全体を温めることは到底不可能だったので、領主の邸宅には暖房をよく利かせることのできる小部屋が領主の一家用につくられることもあるほどでした。したがって、中世の家は、暗くて寒いというイメージはそこまで的外れなものではないのです。
 
家の大きさや構造と同じく、家具の種類や量も住人の身分に依っていた中世において、最も基本的な家具はベッドと長持ちでした。中世のベッドは2人から6人が一緒に寝ることができるような大きなものでした。一部のエリートを除いて、中世の家族はみんながひとつのベッドに寝たのです。ベッドのつくりは簡単で、干草を箱に詰めてそれにシーツをかければ、もう立派なベッドでした。しかしながら、最貧の人々や一部の修道士はシーツを用いず、直接干草の上で横になりました。長持ちは、衣装や書類、金銭などをしまっておく場所であり、また腰掛けとしても利用されました。長持ちは、地階では床がただ踏み固められていることが多かったために脚がついていることが多く、さらに貴重品を守るために錠が取り付けられることもありました。庶民の間では長持ち以外の腰掛けは一般的ではなく、シーツで包んだ藁束や、そのままの藁束を椅子ないし座布団の代わりに用いました。座るためだけに椅子を作るのは贅沢だったわけです。裕福な家庭では壁掛け(タペストリー)によって、住居に装飾を施したり隙間風を防ぐこともできました。
 
中世の「住」は、現存する遺跡の大部分が石造であり、木造建築が少ないことから、なかなか捉えにくいところがあります。しかし、森を開拓することで生活圏を大幅に拡大していった中世人の見た景観を思い浮かべれば、おのずと木の文化に支えられた中世の建築事情を感じることができるのではないでしょうか。中世人の「住」の歴史の中には、ものや技術の不足からくる多くの問題がありましたがが、その一方で近世の住生活に連なる様々な発展の萌芽もみられるのです。

中世の「食」

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▲貴族の食卓(フランス)

中世の食事については、肉や野菜、パンなどと項目を細かく設けて紹介してきましたが、中世の食事全体について概説的な記事を書いていなかったので、今回はそれを書いてみようと思います。中世の食卓には、現代のヨーロッパ人や彼らから影響を受けた我々日本人が日ごろ口にする、重要な食品のいくつかが欠けていました。トマトやジャガイモ、コーヒーや紅茶、チョコレートなどがそうです。これらの食品は、中世末期から近世にかけてアジアやアメリカなどの「新世界」からもたらされました。イタリア人が料理にトマトを多用するようになったのも、ドイツやアイルランドでジャガイモが人々を養ったもの、近世に入ってからのことだったのです。コーヒーがトルコから伝わったことや、紅茶貿易を背景にイギリスがアヘン戦争を起こしたのは有名な話ですね。
 
過酷な自然と直接向き合って生きていた中世の人々にとって、食事とはまず生きるための栄養を得るためのものでした。社会の中の一握りのエリートたちだけが、宮廷風のマナーを備え、美食を求めることができたのです。中世ヨーロッパ人の主食は小麦、大麦、ライ麦などの穀類でした。栽培される穀物は、その土地の状態や気候によって左右されました。穀物からパンをつくって食べることは、ローマから受け継いだパンとワインの食文化と、イエスの肉としてのパンという聖書の言説から、採算性を度外視して食の基本理念として存在していました。つくるのに手間がかかり、ふすまなどを取り除く必要から目方が減るパンは贅沢な食べ物といってもよく、そのため貧者は牛乳やスープで煮込んだ粥として穀物を消費するほうが多かったようです。
 
我々日本人と比較してヨーロッパ人は肉食というイメージがありますが、これは中世をかたちづくった文化のひとつ、ゲルマン文化から大きな影響を受けています。パンとワインのローマ人に対し、ゲルマン人は肉とビールの民といってもいいかもしれません。もっとも、ゲルマン人も肉ばかり食べていたわけではなく、牛乳、チーズ、バターなどの乳製品や卵などの肉以外の畜産品からも多くのカロリーを摂取していました。中世の食肉の代表は、なんといっても豚です。鶏は卵のため、羊は羊毛のため、山羊や牛、馬は乳や労役のためにも必要とされましたが、豚は純粋に食肉用に飼育されていました。

現代の感覚だと肉は穀物より高級で、パンにも困るような貧しい中世人が肉を食べていたというイメージがしっくりこないかもしれませんが、これは中世の豚が森に放牧されていたということで説明できます。つまり、現代の家畜は栽培された穀物を飼料としているためにコストが高くつきます。一方、中世の豚は母なる森が提供してくれるドングリを食べて勝手に肥えていったので、越冬しない限りはコストはほとんどかからなかったのです。そして、冬に入る前に家畜の多くは捕殺されて貯蔵食として加工されました。つまり、穀物栽培は畜産と競合せず、むしろ牛馬の畜力や糞の利用により改善されていったのです。また、肉食が禁じられる斎日の多かった中世では、斎日中はサケ、タラ、サバ、ニシンなどの魚が食卓にのぼりました。
 
四旬節を代表とする教会による節制と、謝肉祭に見られるような節制への反動との間を揺れ動いていた中世社会には、一方に厳格な修道院や農村での質素な食卓があり、他方に宮廷や豪商の邸宅での香辛料をふんだんに使った御馳走がありました。もっとも一般的な調味料は塩であり、塩は味付け以外にも四旬節で食べる魚(ニシンなど)や豚肉を保存するための塩漬けにも使われました。よく使われた香辛料としては、ニンニク、コショウ、ショウガ、ナツメグ、サフラン、シナモンなどがあり、香辛料の使用量は身分や経済力が上がるにつれて多くなった。甘味料としては蜂蜜と砂糖があったが、森に囲まれた中世ヨーロッパでは前者のほうがはるかに一般的だった。砂糖はキプロスやシチリアなどの温暖な地中海地域で栽培される高級品であり、砂糖が大衆化されるにはヨーロッパがカリブ海に巨大な砂糖プランテーションを築くのを待たねばなりません。
 
中世の「食」は、食材だけでなく、料理法やマナーについても現代と様々な点で異なっています。写本に残る彩色画から、中世の食卓を覗いてみると、そこにはフォークやナプキンがなく、代わりに長いテーブルクロスや皿として使われた固くなったパンが目を引きます。中世人は、ナイフで肉を切り、手づかみで食べ、汚れた手をテーブルクロスの残り布で拭きながら食事をしたのです。ナプキンは中世後期には存在しましたが、フォークが使われだすのは16世紀以降のことです。

カイト・シールド-騎士の凧型盾

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▲金メッキされたブロンズ製小箱(1140年)
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/MEDkite.htm
 
10世紀初頭、ヴァイキングとしてヨーロッパを荒らしまわったデーン人の一指導者フラルフは、西フランク王シャルル3世との協定の結果、それまでに実質的にヴァイキングの支配下にあったフランス北部地方を獲得しました。912年、洗礼を受けたフラルフはロロとして知られるようになります。ロロと彼に従ってきたデーン人は、世代を経るうちに現地の言語・宗教・慣習・法制度などを受け入れフランク人と同化していきました。このノールマンニ(北方人)の国、すなわちノルマンディーが、ノルマン人たちの故郷となるのです。カイト・シールドは、このノルマン人を発祥とする新しいタイプの盾でした。
 
カイト・シールドは、名前の通り西洋凧(カイト)の形をしている盾です。それまで一般的だった円形の盾に比べて、逆三角を伸ばしたような形のこの盾は肩から脛にかけてという広い範囲を防護することができました。馬の豊富であったノルマンディーでは、ノルマン人たちは先祖たちが船にもっていたのと同じような愛着を馬にも抱くようになり、彼らは騎兵としての技能を高めていきました。カイト・シールドは、そのようなノルマン騎兵たちにとって最適な防具だったといえます。下端は騎乗の際、邪魔にならないよう細くなっていましたが、この細さは剣によって守られていない左側の片足を守るだけなら充分でした。また、盾の裏側には短い革紐(エナーム)が二本縦につけられており、使用者は左腕をこの二本の革紐に通し、その手で手綱を握ることができました。さらに、長い革紐(グイジェ)を肩にかけることで、移動時に盾を背負うこともできました。
 
11世紀、イングランドや南イタリアに進出していったノルマン人の移動に伴って、カイト・シールドもヨーロッパ中へ広まっていきました。この盾は、前述のように騎乗した兵士が使いやすいようにつくられていたため、ヨーロッパの騎士たちの標準装備となっていきます。数世紀に渡る鎧の重装化により盾は小型化していく傾向にありましたが、基本的な形が変わることはありませんでした。その中で生まれた、下端が短くなったカイト・シールドを特にヒーター・シールドと呼ぶこともあります。しかし、15世紀以降、板金鎧(プレート・アーマー)の普及により手足の装甲が強化されると、もはや盾は不要となり、カイト・シールドが騎士を守る時代は終わりました。

中世ヨーロッパとヴィクトリア朝の身分一考


▲ヴィクトリア朝時代の男性

大学時代、サークル関係でふだん読まない時代の本を読んでいろいろ興味深かったのでご紹介します。『大英帝国‐最盛期イギリスの社会史‐』講談社新書。

本書は、主に19世紀、ヴィクトリア朝期のイギリス社会史について扱っていて、「世界の工場」として七つの海に君臨した大英帝国の光と影についてわかりやすくまとめてあります。大英帝国を知る入門書として、おすすめです。
 
社会史の概説は本書にお譲りして、ここでは中世ヨーロッパとの比較で気になった「身分」について紹介していきたいと思います。中世の身分が祈る人(聖職者)・戦う人(貴族)・働く人(農民)と大別されていたのに対し、19世紀イギリスの身分は上流階級・中流階級・労働者階級に大別されていました。

上流階級上流階級とは貴族やジェントリ、すなわち土地からの収益で生活する地主層のことを指します。彼らの起源は、中世の騎士・貴族や中近世に土地を獲得して地主化した商人たちであろうと思います。彼ら地主と中世の領主との決定的な違いは、地主はもはや小作人を人格的に支配していないということです。小作人たちの間で争いが起こったとき、地主はもはや彼らを裁く権利はないのです。中世の貴族が、小作人(農奴)に対して、流血裁判権をも含む人格的支配をしていたのとは対照的ですね。上流階級は総人口のほんの数パーセントしかいませんでしたが、彼らが政治の実権を握っていたエリートを構成していたのは、中世とそんなに変わらなかっただろうと思います。
 
中流階級とは、商業・工業・金融業などで財を成したブルジョワジーや医師・法曹・軍の士官などの専門職で構成されました。彼らの前身は、中世の成功した都市民や、名家の人々かと思われます。上流階級が、地代で食べていけるために「働かない人」であるとすれば、ブルジョワジーは「働く人」に分類されますが、彼らの労働は額に汗を流すようなものではなく、監督・経営という精神労働でした。19世紀前半に選挙権を得た上層中流階級は、国政へも参与するようになります。中流階級は、人口の2割程度を占めていたと考えられているようで、この時代にはかなり都市化が進んでいたことがわかります。
 
労働者階級は、肉体労働を日々の糧の対価として生活している人々で、工場労働者の他にも農業労働者、鉱山労働者などを含んでおり、人口のほとんどを占めていました。彼らは、劣悪な生活条件の中で必死に生きていました。中世との大きな隔たりといえば、段階的に、かつ女性は含まれていまでんでしたが、選挙権が徐々に拡大し、国政への参加が認められるようになっていったことでしょうか。また、中世の代表身分だった祈る人がなくなっていることは、宗教改革や科学の発展を経て宗教勢力が弱体化していたことを示していると思います。
 
このように、中世とヴィクトリア朝期の身分を比較してみると、いろいろ違いがあります。こんなところからも、歴史の流れが少し見えてくるような気がします。
 
参考:長島伸一『大英帝国‐最盛期イギリスの社会史‐』講談社(1989)