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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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中世都市のふたつのモデル-北欧都市と南欧都市

中世盛期の時代、ヨーロッパ各地には新しい形の集落が無数に勃興し始めました。これらの集落は、それまで支配的だった農業生産のための集落とは異なり、商業・手工業の中心地、すなわち都市でした。これらの都市は、ローマの伝統を受け継ぐ古代の都市から、あるいは地域の中心地となるべき性格を備えた施設を核として誕生、発展していきました。ところで、都市の成立はヨーロッパ全域で起こった現象でしたが、その中でも特にイタリア半島北部とフランドルを中心とする南ネーデルラント周辺では、他の地域より大規模な都市が数多く築かれており、私たちの中世都市観にひとつのモデルを提供しています。今回は、中世都市の代表といえる、この両地域周辺の二つの都市圏について比較していきます。

ひとつめの都市圏は北イタリア・南フランスを含む南欧都市圏です。なかんずく北イタリアは、肥沃なロンバルディアの平原を含み、中世農業革命によって鉄製の農具を先進的に取り入れていた地域でした。また、ローマ帝国の中枢部であったために、古代からの伝統を色濃く残すキヴィタスが帝国の滅亡とその後の混乱を生き抜いて残っていました。さらに、古代末期の騒乱によって縮小されてはいましたが、奢侈品を扱う地中海遠隔地商業も、ヴェネツィア-オリエント間の通商が開かれてから活発になっていました。この地域では、都市の形成にかかせない農業生産増大による非農業人口の増加や、商業の発達が進んでいたのです。

これらの地域では、司教の支配するキヴィタスないしは、封建領主の城塞の内側に商人たちが定住することで都市が形成されていきました(ミラノやパヴィアなど)。都市の拡大に伴って周辺の中小貴族の所領を都市内に吸収していく際には、強制的に、あるいは自発的に、貴族たちは都市内に住居を構えて生活するようになっていきます。彼ら都市内の封建貴族は、遠隔地商業で成功を収め都市で指導的役割を果たしていた豪商の家門と結びつくことで、都市貴族(パトリチアート)と呼ばれる階層を形成していきました。貴族というと、戦う人を想像しますが、南欧都市の貴族は商売をすることにさほどの抵抗はなかったようです。こうして、南欧都市は封建制ヒエラルキーが都市内部に持ち込んでおり、農村との境が曖昧であった南欧都市は領主対市民という構図が生まれにくかったために、よく言われるような「外界の封建制社会とのコントラストを示す市民的平等社会を実現した都市」を形作るにはほど遠かったのです。

ふたつめの都市圏は南ネーデルラントを中心とする北欧都市圏です。この場合、北欧というのはいわゆるスウェーデンやノルウェーといったスカンディナヴィアのことではなく、ロワール川、エルベ川、アルプス山脈に囲まれた北フランス、ドイツ、低地地方を含む地域のことです。

これらの地域の都市は、地誌的二元構造と呼ばれる特徴を備えています。キヴィタスないし領主の城館に商人が集まって都市が形成された南欧と異なり、北欧都市は領主の城館に隣接した商業集落(ヴィク、ポルトゥス)として生まれました。ケルンやヴェルダンは司教座(キヴィタス)の周壁に隣接して、ブルッヘとヘントはフランドル伯の居城の外部に、それぞれ商業集落が出来たことで都市が形成されていきました。この中でヘントやヴェルダンは、都市の核と新市外が川で隔てられています。この地域で、なぜ城塞と集落が分けられていたのかという明確な理由は明らかになってはいませんが、領主が商人の関税収入くらいしか興味がなかったこと、商人からしてみれば領主の干渉を出来るだけ避けたかったこと、集落が城塞の立地地点よりさらに河川に近く、水上貿易に有利な場所を求めたことなどが理由として挙げられています。

これらの商業集落は後に荘園や村抱えだった手工業者を吸収し、住民による誓約団体(コムーネ)を結成して都市領主(司教、伯)に対し平和と自治を求めるていくようになります。領主側の妥協や王権の介入により自治権を得た北欧都市は、都市内でのある程度の法律上の市民的平等を実現しました。「都市の空気は自由にする」ということわざは、商業集落が半ば独立していたために領主対市民という図式を形成し易かった北欧都市ならではのものであったのです。

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「ニーベルンゲンの歌」




古い世の物語には数々のいみじきことが伝えられている。
ほまれ高い英雄や、容易ならぬ戦いの苦労が、
よろこび、饗宴、哀泣、悲嘆、また猛き勇士らのあらそいなど、
あまたのいみじき物語を、これからおん身たちに伝えよう。


相良守峯訳『ニーベルンゲンの歌』前編、第一歌章、一

ニーベルンゲンの歌は13世紀初頭ドイツで生まれた一大英雄叙事詩です。中高ドイツ語で書かれたこの物語は著者がはっきりしておらず、そもそもこれが一人の著者によったものなのか、それとも複数の著者によって作られたかすらはっきりしていませんが、記述の正確さなどから著者は南ドイツからオーストリアにかけての地域に住んでいたと考えられています。全39歌章の韻文で、1節4行の詩節で構成されており、節数は写本によって変動がありますが2379節というのが一般的です。

この物語のモデルとなったのは、北欧神話や6、7世紀発祥の英雄歌謡、さらに中世初期の歴史などでした。ニーベルンゲンの歌は、ゲルマン由来の伝承にキリスト教のエッセンスを加えて再構成したものであり、司教や聖堂などのキリスト教的な事物が登場する一方で、平和よりも武勇や名誉を重んじるゲルマン気風を残した作品でもあります。当時の物語の多くが、聖書にまつわるものや聖人譚で説教・布教の役割を持っていたのに対し、ニーベルンゲンの歌は英雄精神や武力賛美、悲劇的な最後などをが異彩を放っています。そのため、成立から800年以上を経たいまでもその文学作品としての価値を認められており18世紀のある歴史家に「ドイツのイリアス」とまで賞賛されています。

ニーベルンゲンの歌は慣習的に2部構成とされており、前編が英雄ジーフリト(現代ドイツ語読みはジークフリート)の誕生から、クリエムヒルトとの結婚を経て彼の殺害までを描いており、後編では夫を殺されたクリエムヒルトがの復讐劇が中心となります。物語の舞台は、アイスランドからハンガリーまでに及びますが、中心となるのはクリエムヒルトの母国ブルゴント(現ドイツ中西部)と、フン族の国(現ハンガリー)です。前編では、ニーデルラント(現オランダ)の王子ジーフリトが、クリエムヒルトと結婚するためにクリエムヒルトの兄であり国王のグンテルに協力して戦争に参加したり、王の花嫁獲得の手助けをする活躍が見られます。こうしてクリエムヒルトと結婚したジークフリトでしたが、クリエムヒルトと王の新妻プリュンヒルトとのいさかいをきっかけに、王の重臣ハゲネによって殺されてしまいます。

後編では、復讐を決意したクリエムヒルトがエッツェル(モデルはフン族の王アッティラ)と再婚し、ハンガリーのエッツェルの宮廷に故郷ブルゴントの親類を呼び寄せます。彼女はそこで王弟や家臣にブルゴント勢を皆殺しにするように命令しますが、ブルゴントの勇士の強さは尋常ではなく、熾烈な戦闘の中で多くのフン族兵士やエッツェルの家臣たちが命を失います。最終的はグンテルもハゲネもクリエムヒルトによって殺されますが、彼女自身もエッツェルの家臣の一人によって首を刎ねられ、かくして悲劇の物語は幕を閉じるのです。

古典としての雰囲気を出すために古い言葉を使っており、多少の読みにくさはありますが、展開が速く、登場人物たちの心理も台詞を通してわかりやすいので、叙事詩だと力んで読まなくても楽しめる物語でした。また、単純な勧善懲悪というわけでもなく、英雄ジーフリトを殺した一見悪者のハゲネにも考えや立場がありましたし、クリエムヒルトがただの悲劇のヒロインというのも間違いで、彼女の執念が物語の悲劇を招いたとも言えるのです。また、最後の戦いで王への忠義とブルゴンド人への友情との間で苦しむエッツェルの家臣リュエデゲールなどは、現代の目から見ても葛藤の様子がよく伝わってきて共感できました。文学から当時の歴史について想いを馳せることができて、しかも面白い物語なので、とてもおすすめです。

肉は週に三食-テンプル騎士団の衣食住

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▲騎士団最後の総長ジャック・ド・モレー

被服長官が騎士団幹部に含まれていたことは、この騎士団内における衣服の重要性を物語っています。中世において、衣服は実用的な意味の他にも、それを着る人々の所属する集団や身分、階級などを表す記号として大きな意味を持っていたのです。騎士の服装は、会則によって厳密に定められており、白い長衣とマントからなっていました。12世紀中旬以降、長衣の胸の前とマントの左肩に赤い十字が施されるようになります。衣服の白は、白衣の修道士と呼ばれたシトー会からの影響を受けており、穢れの無い純潔を意味していました。また、赤い十字は信仰のための戦いで流される血、騎士団の犠牲的精神を表しています。

奢侈虚飾は疎まれ、騎士は騎士団から貸与されたこれらの服以外の衣服を着たり、服を飾り付けたりすることが禁じられ、さらに中世に流行したとんがり靴や長髪も許されませんでした。しかし、派手好きな王侯や貴族出身の騎士たちにこの規定を守らせるのは容易ではなかったらしく、この規則は時代が下るにつれてなおざりにされていったようです。また、従者は茶色や黒の衣服を支給され、上位の騎士たちと区別されました。

騎士団の規制は食事にも及んでいます。彼らは修道士として大食を戒められるのと像同時に、異教徒との戦闘を任務としていた騎士でもあるという特異性のために、一般の修道士であれば奨励されはするものの非難されることはない、個人的な断食をすることも禁じられました。彼らは、決められた分量を、決められた時間に食べることが求められていたのです。そのために、4人がひとつのテーブルを使用して、おたがいに食べすぎないし勝手な断食が行われていないか監視しました。

一日の食事は中世の人々の平均と同じく2回で、今で言う朝食を抜いた、昼食と夕食のみのものでした。食事中は騎士団所属の司祭が聖書を朗読するのを静かに聴きながら、沈黙を保たなければなりませんでした。沈黙は徳目とされたため、一日の締めくくりの祈りである終課後の会話は禁じられ、さらに飲食も総長の特別な許しが無い限りは出来ませんでした。週に14回ある食事のうち肉が供されるのは3回で、日曜には肉が二皿出されました。ただし、二皿の肉料理を食べられるのは騎士だけで、従者には通常通り一皿のみであり、食事においても騎士と従者は区別されています。

衣服と同じく、寝具も被服長官から支給されました。団員の騎士は藁のマットレス、シーツ、毛織の掛け布団をそれぞれあてがわれ、下着姿で寝ました。就寝時間は早く9時ないし10時頃でした。幹部級の団員には個室が割り当てられていましたが、平の修道騎士は複数のベッドがある部屋で一緒になって寝ました。


騎士の家-荘園の領主館

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▲マナーハウスの基本要素

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▲マナーハウスにおける身分秩序(断面図)

中世騎士の住居といえば、城が思い浮かべられるかもしれません。しかし、騎士であれば誰でも石造りの城に住んでいたわけではありません。建設に莫大な費用のかかる城は、広大な領地を持つ公や伯などの諸侯や、彼らから複数の村落や荘園を含む支配域を封土としてを受けた城主層たちのものでした。封建制ヒエラルキーでより下位に位置する騎士―ひとつ、ふたつの村や荘園を預けられた平騎士―たちはもっと簡単な造りの領主館(荘館)に住んでいました。英語圏ではマナーハウスと呼ばれる建物がそれです。

マナーハウスは騎士とその家族の住居であると同時に、その騎士が統括する荘園の中心でした。ここは荘園で収穫された作物の集積場であり、また荘園内での揉め事を解決するための裁判所であり、中世の重要建築の御多分にもれず防御施設でもあったのです。しかし、領民の避難や篭城を考慮に入れた、本格的な防衛施設としての城に比べ、簡単な堀や柵などしかもたないマナーハウスは営農的性格が強いものでした。以下は特に中世イギリスにおけるマナーハウスについて書いています。

最初期のマナーハウスはただひとつのホールに過ぎませんでしたが、12世紀頃に別棟で立てられていた領主の私室(ソーラー)が結合してからは、ホールとソーラーの二部屋構造となります。ソーラーはホールより一階分上に作られることもあり、その際にはソーラーの下は倉庫や礼拝堂として使われました。この二部屋は防衛上の理由から二階に設けられることが多く、その場合一階は倉庫・納屋として使われました。一階と二階にはそれぞれ出入口が設けられていましたが、一階と二階は完全に分離されており、内部からは昇降できないようになっていました。これは、物資搬入のために大勢が出入する一階出入口からの、ホールやソーラーへの侵入者を警戒したためです。

マナーハウスは時代の経過と共に居住性を高めていきました。二部屋構造の次にはホールを挟んでソーラーの反対側に台所や食料庫が置かれるようになり、さらに13世紀にはホールのソーラーよりに一段高いスペース(ダイス)が置かれるようになります。台所が近くなったことで、それまで別棟の台所で造っていた料理を二階まで持っていく手間がはぶけ、熱いままの晩餐を食べることが出来るようになりました。またダイスの形成は、古ゲルマン時代からの戦士集団としての団結精神を養っていた主人と家臣が共にとる食事の形式から、封建制の上下関係を明確に表す形式への変化を促しました。領主は、家族やときには賓客と共にダイスの上で上等な椅子に腰掛けながら食事をしたのです。こうして、マナーハウスは領主一家の居住性を追及していく中で、封建制的身分秩序を一本の軸として持つ建物へと進化していったといえます。

14、15世紀に暖炉が普及するまでは、マナーハウスの暖房具は平炉だけでした。しかし、天井の高いホールを完全に暖めることは不可能でしたので、炉はダイスに近くに置かれせめて領主一家が寒さに辟易しないようにされただけでした。また、15世紀以降ガラス窓が多く使われるようになる以前は、騎士の家の窓であろうと農家のそれと変わらずに木製の扉で風雨をしのぎました。しかし、通常の窓とは別に設けられた小窓に油を染み込ませた麻布を張るなど、ガラス窓を使えるようになる前にも採光する努力はなされていました。ガラス窓は教会のステンドグラスなどには見られるものの、中世には高級品で、そのために人々はステイタスシンボルとしてこぞってガラスを求めました。初期のガラス窓は、まだ私たちの知っているような一枚のガラスでできているものではなく、ガラスの小さな破片や、丸型や菱形のガラスを鉛の枠で囲ったものでした。


寝間も広間も煤だらけ-農村の家

居間と寝室は中世におけるもっとも重要な家の要素と言えます。領主館にはこれに防衛施設や家臣用の部屋が、市民の家には店舗ないし仕事場が、そして農家には畜舎が加わりましたが、居間・寝室の二部屋は常にこれらの中心にありました。居間は、家族の普段の生活の場であり、食堂としても台所としても使われ、ここで家族が一緒に食事をとりました。寝室は個室に分けられておらず、これまた家族が一緒になって眠りました。簡素な造りの農家は、この二部屋構造最もよく表していると言えます。

建物は木造の簡単な造りで、壁は漆喰塗りがされていました。窓はありましたが、領主館にもめったにない硝子窓があるはずもなく、風雨の際には木製の雨戸を閉じました。裕福な農家の床は板張りでしたが、多くの農家の床は踏み鳴らされた土間で、藁が敷かれることもありました。地域や時代によって差はありますが、一般的な農家の広さは30平方メートル未満で、大きいものでも40平方メートルは越えなかったようです。家の周囲には穀物倉、家畜小屋、納屋などの農業に関連した施設が置かれていました。

居間の中央には石を積み上げてつくった簡単な炉が置かれました。かまど税が家屋税(今で言う固定資産税)の呼び名として使われていたことは、居間の中心の炉の重要性を物語っています。この炉は、部屋を温めると同時に人々に粥やスープを提供しました。この時代には、まだ暖房用の火と、料理用の火が分化していなかったのです。炉から出る煙を外に出すために屋根には穴が設けられましたが、たいした効果は上がらず炉のせいで「寝間も広間も煤だらけ」(『カンタベリー物語』)でした。暖炉がある農家は中世には稀で、煙突が農村でも普及したのは16世紀以降のことでした。

寝具は質素で、貧しい家では藁の山がそのまま寝台となりました。農家では藁のマットレス、リネンのシーツ、毛織の掛け布団があればもう立派なベッドができました。シーツはただ藁にかけられていることもありましたが、袋状になっていてそこに藁が詰められることもありました。掛け布団には羊毛が使われ、野ウサギやキツネの皮などで裏打ちされていました。中世人口の9割を占める農民は、このような大変質素な家で暮らしていたのです。


間口は狭く、背は高く-都市の住宅

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▲都市住宅の基本形

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▲住宅部分の拡大と中庭採光の減少

中世都市が抱える問題のひとつに、市域が狭隘であることが上げられます。ローマ帝国末期は人口の減少や田園への流出などもあり、市域は縮小する傾向にありましたが、11世紀以降の経済活動の活発化や農業生産の増加により都市集落の発展が見られるようになると、都市に人口が集中するようになっていったのです。市壁の建造は莫大な費用と時間がかかるため、市壁拡大は住民にとって大きな負担でした。そのため、そう何度も増築して市域を拡大することはできません。中世都市の人々にとって限られた空間をいかに広く使うのかというのは大きな問題だったのです。

限られた都市空間をできるだけ有用に使うためには、街路の数や幅を制限する必要があります。この少ない道に面して多くの住宅を建てるために、間口が狭く、奥行きの深い長方形が都市住宅の基本形となります。この長方形は、古代からの伝統を持つ都市の場合にはローマ時代のインスラ(集合住宅)に影響を受けて形成されましたが、ライン川以東のローマの支配が及ばなかった地域にある都市では、街路に面した小さな住宅が人口増により奥に増築された結果として造られるようになりました。後者の場合、元々あった空間が建物によって埋められていくと、採光の面で問題が出てくるために、すぐに長方形になったわけではなく、その過程でL字型やコの字型、ロの字型の住宅を生み出しました。

ローマのインスラの伝統は狭い間口と深い奥行きだけではありません。インスラは中世の住宅とは異なり複数世帯が同じ屋根の下に住むものだったため、通常の出入口の他に二階へ通じる階段に直接繋がっている出入り口がありました。この一宅二口の伝統は、上階に別の家族が住まなくなった中世になっても継承され、一つで事足りる出入口が二つある様式を残しました。また、地階を店舗にしていたインスラの正面玄関には陳列棚が壁に接する形で設けられていましたが、これも中世に鉤型の開口部を残すことになります。

床面積を確保するために住宅は上にも伸びていきます。都市建築では2階建て以上は普通で、5階建てやそれ以上のものもありました。また、屋根を急傾斜にすることで屋根裏まで余さず利用しました。さらに、少しでも利用空間を増すために、2階以上の部分が下の階よりも道側に迫り出す構造も多く見られます。多くの場合、1階は作業所・店舗・倉庫・畜舎(都市でも自宅で家畜が飼われていた)などとして使われました。商人や職人の多く住む都市では1階は仕事の場とされたのです。続く2階は家主一家のための空間でしたが、個人の部屋というものはなく、もっぱら居間と寝室の二部屋構造でした。3階以上や屋根裏部屋は倉庫や使用人の部屋が配されました。

初期の都市住宅は木造が一般的でしたが、都市住民の財力が向上するに従って、石造・煉瓦造りのものへと変化していきます。こうして、柱、梁などの木造骨組をそのまま外部に露出せ、骨組みの間を石や煉瓦で埋めて壁を造るハーフティンバー造りが中世住宅の基本形として定着するようになります。完全に石造にする余裕がない場合は上階を支える地階のみを石造にしました。また、防火のために屋根も藁葺、木製のものからスレート(粘板岩の薄板)葺きのものへと変わっていきます。しかしながら、プライバシーの意識は相変わらず弱いままで、ベッドにカーテンを備えるなどの工夫はなされるものの、農村の住宅と基本的には変わらない居間・寝室の二部屋構造は維持されました。住宅に個室が普及するのは近世以降のことです。




イエスの血、ローマの遺産-受け継がれるワイン

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▲15世紀フランス、葡萄を摘む農民

古典古代のギリシア・ローマ世界においてワインが好まれていたことはよく知られています。地中海の底から引き上げられた当時の商船の残骸からは、オリーブ油やワインを運ぶための大量の陶器が一緒に発掘されています。ところで、古代世界ではディオニュソスやバッカスといった酒を司る神がいましたが、そもそもワインは宗教とは切ってもきれないものとして生まれたようです。ワインの語源は古代インドに遡ります。古代インドでは宗教儀式の際に興奮・幻覚作用を持つ発酵飲料が使われていました。この酒はヴェーナ(vena)と呼ばれ、これが多くのヨーロッパの言語で使われるワインの単語の語源となったのです。

さて、古代の多神教世界では宗教と結びついていたワインですが、キリスト教においてもワインは特別な意味を持ちます。ヨハネによる福音書第2章では、イエスが最初に起こす奇跡について語られています。イエス一行が出向いたガラリアのカナの婚礼において、用意されていたワインがきれてしまった際、イエスは家の使用人に瓶に水を満たすように指示し、その水をワインに変えたのです。また同福音書第6章では「わたしの肉を食べ、私の血を飲むものは、永遠の命を得、わたしは終わりの日にその人を復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである」とあります。またさらに同福音書第15章「私はまことの葡萄の樹、私の父は葡萄づくりである」とも書かれています。聖書におけるワインへの言及は400ヶ所以上に上ります。ワインは聖書にあって、イエスの血を象徴するものとされ聖体祭儀(ミサ)でワインに浸したパンを食す聖体拝領に必要不可欠でした。

さて、話をローマに戻します。ローマ世界では金持ちから奴隷まで品質にかなりの差はあれど誰もがワインを飲んでいました。「ローマはギリシアを征服したが、文化的には征服された」とよく言われますが、ワインについてはローマ人はギリシアの物まねでは終わらず、自分たちで改良を加えました。大きな変化のひとつに樽の利用があります。古代ギリシアではワインは全て陶器の壺で保管されており、当初はローマでも状況は同じでした。しかし、ガリアの征服により、ケルト人たちがセルヴォワーズ(ビールの祖先)を造る際に木製の樽を使用していることを参考に紀元前後にはワイン製造に樽が広く使われるようになりました。樽によって熟成時に呼吸が可能になったことにより、ワインの風味や香りの質が向上しました。また、葡萄汁を集めるための搾汁機を発明したのもローマ人でした。さらに、搾汁機によって集められた葡萄汁よりも、葡萄を積んだ際に、自重により自然に実が潰れて流れ出る果汁から造ったワインの方が良質なものであることを発見したのもローマ人でした。

ローマ帝国内でのキリスト教の浸透、国教化につれて、さらにローマ人独自の改良によって発達していったワインですが、ゲルマン民族の侵攻に続く帝国の滅亡とともに衰退を迎えます。しかし、ヨーロッパのワインの文化が完全に廃れてしまったわけではありませんでした。宗教的意味を持ったワインはローマの行政組織を継承した司教権力や、中世初期から中期にかけて乱立する修道院を中心に継承されていきます。領域支配を安定させ、荘園経営に乗り出した貴族たちもこれに倣います。かくして、中世盛期に商業の復活を迎えたヨーロッパではローマ・ギリシア時代からの産地であるイタリア半島や地中海の島々のみならず、フランスやドイツなどのアルプス以北の地域でも活発にワインが造られるようになっていきます。ワインは、ヨーロッパに広まったキリスト教との深い関わりや、中世の母体のひとつとなったローマ時代への回帰の想いから、中世を通じ主要な飲み物として継承されていったのです。
 


緋色の教皇顧問-枢機卿の制度と職務

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▲教皇と枢機卿

世界史にも登場する枢機卿といえばフランス国王で宰相を務めたリシュリューとマザランがいますね。また、ローマ法王(テレビではこちらの表現が多いですね、教皇と同じ意味です)の選出にコンクラーベを行うというイメージもあるかもしれまんせん。ここからは、中世に生まれた枢機卿の制度についてみていきます。

中世におけるキリスト教会の勢力は、宗教的、権威的なものに留まらず、政治的、社会的なものでもありました。教皇庁は、軍事力こそ王侯に敵わなかったものの、財政や教皇勅書による圧力を通じて世俗世界に大きく干渉していました。このような実力ある教会が形成されたのは、11世紀から12世紀に隆盛した教会改革の時代でした。この時代の教会は聖職者の妻帯、聖職売買、俗人の叙任などの風紀の乱れにより俗権の干渉を受けやすい状況にありました。教会はこの状況を打破し、教皇庁を至上の権威とするローマ教会という、キリスト教的な秩序の理念を実現し、教会の俗権からの開放を達成しようとしていました。

教会組織の幹部である枢機卿が制度として形成されたのはこの教会改革の時代のこと。元々、枢機卿とはローマの教会堂に交代制で勤務する、ローマ近郊の聖職者たちのことを指す名称でした。主聖堂であるラテラノ聖堂に週番で勤めたのは司教枢機卿であり、市内の4つの聖堂で同じく週番制で典礼を行っていたのが司祭枢機卿です。ラテラノ聖堂やローマの街区を管轄として仕事をする聖職者たちは助祭枢機卿と呼ばれました。司教枢機卿7人、司祭枢機卿28人、助祭枢機卿18人の計53人で枢機卿は始まったわけですが、定員が満たされることは少なかったようです。

11世紀頃から、枢機卿は単なるローマの週番聖職者から、教会を引導する幹部的な立場に変化していきます。教会改革に際し、司教枢機卿の活躍があり、彼らは教皇の助言者としての地位を固め、ついには教皇選出権を握るまでになりました。1059年には、教皇ニコラウス2世によって教皇選出規定が出され、司教枢機卿による教皇選出が一般化します。さらに、叙任権闘争により教皇と皇帝側の対立教皇が並立している裏側で、司教枢機卿を優先する教皇選出規定に反発する司祭枢機卿や助祭枢機卿を味方に取り込もうとする両陣営の動きにより、司祭枢機卿や助祭枢機卿の地位も上昇し、1100年頃までには司教も司祭もない、一元化された枢機卿団が生まれます。この枢機卿団が現代まで教皇の選出権を持つことになるのです。ちなみに13世紀には緋色の服が枢機卿の装束とされるようになります。リシュリューもマザランも肖像画では赤帽子をかぶり、赤い服を着ていますね。

枢機卿の仕事は前述した教皇選出のほかにも、教皇の補佐役として教会の重要問題に対処したり、教皇特使としてヨーロッパ各地で教皇庁の外交官として活躍しました。教皇選出については1179年、第三回ラテラノ公会議により教皇選出には枢機卿団の3分の2の賛成が必要である旨が決められ、枢機卿団内の党派争いによって教皇が選出できないという事態を防ぎました。また、12世紀以降の教皇勅書には補佐役として、枢機卿の署名が添えられるようになっていきました。枢機卿団は教皇に破門、列聖、司教選任、教義などの教会の重要事項への助言を行い、教会裁判権の最高裁としての教皇の補佐のために司法の仕事も行っていました。

枢機卿はまた、教皇庁の政策を継続させるという役割も担っていました。教皇には高齢になってから就任する者が多いために在位期間が短く、十数年から数十年に渡って君臨する世俗の君主のように政策を一貫させることが難しかったんですね。そんな中、教皇が枢機卿団というひとつの集団から選出されたことは、教皇庁の意思の連続を可能にしたのです。また、教皇位の空位期間でも教皇庁は枢機卿団を中心としてまとまることが出来ました。枢機卿団によるこの集団指導体制は、トップの存在である教皇が頻繁に変わるという特質を持つ教皇庁において、重要な意味を持っていたのです。

 ▼リシュリュー     ▼マザラン

「ヨーロッパとは何か」 増田四郎



ヨーロッパとは何か?単純でありながら難しいこの問に、ヨーロッパ世界の形成から答えを導き出そうとしたのがこの本です。主に扱っている年代は、ローマ帝国の末期から8、9世紀までのフランク王国時代までですが、ローマの帝政初期や12世紀ヨーロッパなどについても適宜触れています。

最初の二章では、現代の日本人やヨーロッパ人がヨーロッパの歴史を学ぶ意味について、またヨーロッパ人の歴史観の変遷についても記されています。続く章では、地理的に分けられるヨーロッパの特性について、さらに古代世界と中世世界という概念へと話は流れていきます。

“ギリシャやローマなどの古典古代の自由な市民社会、文化や芸術は高度なレベルに達している反面、中世では宗教的束縛や領主制の不自由がまかり通っている。我々の時代は古代の文化を復活させ、新しい人間中心の世界を創設するのだ。”これが16世紀に生きたルネサンスの人文主義者の主張でした。彼らにとって、中世とは克服すべき、野蛮な時代、まさに暗黒時代だったのです。

なぜ古典古代より時代の進んだ中世の方が未発達な世界になってしまったのか?あるいは、そもそも中世が古代に劣るというのは真実であろうか?これらの命題についての歴史家たちの論争を概観した上で、筆者は近代資本主義社会を築く土壌が中世に出来たものであるという見方を示し、中世にキリスト教、ゲルマン民族、ローマ帝国のエッセンスを取り入れて作り上げられた社会制度や心性などが、後のヨーロッパへと引き継がれていったのだとしています。

1967年に書かれた本であるため、東西冷戦やEECなど記述の内容には古いものもありますが、今読んでも充分に満足できる内容になっていると思います。特に、中世の中でも注目されにくい初期中世にスポットを当てている本として、ヨーロッパ世界の形成、フランク王国について知りたい方には特におすすめの本です。

模擬戦争から儀式へ-馬上槍試合の変遷

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▲集団試合、トゥルネイ

中世ヨーロッパの騎士にとって、馬上槍試合への参加とても魅力的なことでした。戦いで力を発揮できれば名誉と賞賛を得ることができ、幸運にも貴族の目に留まれば家臣として雇ってもらえる可能性もありました。また、団体試合であるトゥルネイは中世の戦闘に欠かせない密集陣形での騎馬突撃をするための格好の訓練になり、また試合で勝つと賞金が手に入りました。もちろん、通信・交通手段の貧弱な中世においては、騎士同士の友人や知人と親睦を深める機会にもなったことでしょう。

馬上槍試合は、11世紀頃から中世全体を通して盛んに行われていました。試合は大きく団体戦のトゥルネイと、一騎打ちのジョストに分かれていました。我々がイメージする馬上槍試合はジョストということですね。ジョストは当初、大規模なトゥルネイの前座競技でしたが、後の時代にはジョストだけが独立して馬上槍試合を構成することもありました。初期の馬上槍試合は、ほとんど実践と変わらぬ状況で行われる模擬戦争で、武器も実践と同じものがつかわれていました。本当の戦争と違うのは、戦場に中立地点が設定されていることくらいでした。


▲一騎打ち、ジョスト

このような実戦さながらの競技は、当然のことながら多くの死傷者を出しました。1175年にラウジッツ辺境伯の息子は槍傷を受け、1216年にエセックス伯は馬に踏み潰され、それぞれ亡くなっています。このように高位の貴族たちですら、馬上槍試合の中で命を落としたことが年代記作者によって記録されています。もちろん、この他にも年代記に載ることがなく死んでいった、名も無き騎士たちも大勢いることでしょう。頻繁に起こる競技での死傷を少なくするために、馬上槍試合は規則を備え、競技的なものへと変わっていきました。例えば、槍の穂先を丸めて殺傷力を弱めたり、一騎打ちの際に騎士が正面衝突しないための柵を設けたりしました。

馬上槍試合は危険な競技でしたが、それでも騎士たちはこの競技が大好きだったようです。威信や尊敬を勝ち取ることができたこともその一因でしょうが、何より勝てば経済的な利益もありました。賞金を得るほかにも、競技中に捕虜にとった騎士からは、その騎士の身分に応じて定められた額の身代金を取ることができ、また戦いで倒した騎士の鎧と馬は勝者の物になりました。馬上槍試合は、ウィリアム・マーシャルのように下級騎士として生まれながらも試合の勝利によって成り上がり、イングランドの歴代王に仕えるまでの身分になるといったサクセス・ストーリーを生み出す反面、鎧も馬も失い、もっと悪ければ体の自由まで奪われる没落騎士も生み出しました。

しかし、多くの騎士に愛された馬上槍試合は、教会当局からは激しい非難を受けていました。騎士たちの派手な装飾や勝利の栄光を求める心は、キリスト教的に見れば虚栄心や傲慢の罪に当たるものです。馬上槍試合に付きものの豪華な饗宴は大食の罪を招く訳です。また、教会当局は十字軍やレコンキスタなどで異教徒に対して向けられるべき戦闘能力が、キリスト教徒相手に行使され、そこから無為に殺人が犯されることも非難しました。教会はただ非難声明を発するに留まらず、戒めのために馬上槍試合における死者をキリスト教徒として埋葬することを禁じています。また、当時のある説教師は競技のために農民の作物が踏み荒らされ、試合開催のために地域住民に重税がかけられることを理由に馬上槍試合に反対しています。

初期には戦争と大差なかった馬上槍試合は、時が経つにつれて、より儀式的、形式的なものへと変容していきました。騎士の突撃先方が密集歩兵戦法に対抗できなくなっていたという軍事的背景と、騎士道文学のように騎士たちが強さよりも雅なものに傾倒していく傾向が、この変化の背景にあったのだと思われます。もちろん、しつこく続けられた教会の圧力もあったことでしょう。中世末期から近世初期にかけて行われた馬上槍試合は、もはや軍事訓練や賞金稼ぎの意味を弱め、国家や大領主の威信を示すためのショーとなっていきました。