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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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テンプル騎士団-コマンドリーの経営

テンプル騎士団は、聖地エルサレムへの巡礼者を保護することを目的に発足しましたが、民衆や貴族からの寄付を集めて規模を拡大するにつれて、パレスチナ以外にも多数の領地を持つようになっていきます。このようにして得られた騎士団の領地の最小単位はコマンドリーと呼ばれます。

コマンドリーはより大きなくくりの管区に分けられていました。東方ではエルサレム、アンティオキア、トリポリの三管区があり、ヨーロッパではアラゴン、カスティリャ、(北)フランス、ポワトゥー、プロヴァンス、イギリス、ハンガリーなどの諸管区がありました。ちなみに、フランスは当時の大国で人口も農業生産も多く、また南北で言葉や文化が違ったために、一国で複数の管区があります。聖ヨハネ騎士団の管区も同様にフランスをいくつかの管区に分けています。

13世紀末、騎士団のコマンドリーの数は9000にも及びました。そして、そのうちの3分の1がフランスに存在していました。これらのコマンドリーはヨーロッパでは城館ないし修道院としての意味を持つメゾンという建物を中心とした農園というのが基本的な形で、コマンドール(支部長)によって統率されていました。コマンドリーは、地域の司教権に属さない教会堂や墓地を備えている騎士たちの修道生活の場であり、一方で多くの使用人・農民と耕地を抱えた、農業生産の場でもありました。ヨーロッパの大部分ではこのような城館と農場で構成されたコマンドリーが一般的でしたが、イスラム教徒の侵入を受けていた聖地やイベリア半島では、ひとつの城砦でコマンドリーが構成されているような軍事色の強いものが大半でした。

フランス、トロワ司教管区内にあるパイヤン(騎士団創設者、ユーグ・ド・パイヤンの出身地)というコマンドリーには、当時の詳細なデータが残っています。それによると、パイヤンには召使、牛飼、羊飼、馬丁、運搬人夫、パン焼職人、倉庫番など50人を超える人々を雇っていました。また、これ以外にも木を切り出したり、荷車や馬具を修繕する人に手間賃を出していました。コマンドリーの支出としてはこれらの人件費のほかに、倉庫や門など各種建物の修繕費、明かりをとるためのロウソク代、穀物用袋を作るための布代があり、さらに騎士や使用人のための食費も含まれています。

コマンドリーの収入源は当時貨幣に置き換わられつつあった地代収入、余剰農産物や家畜の販売により得られました。パイヤンのコマンドリーは、747.5ボワソー(約9717リットル)の小麦を集め、そのうち8割弱の576ボワソー(約7488リットル)を販売しています。この小麦の販売によって得られた39リーヴル16スーの他にも、パイヤンにはチーズや家畜などの販売、地代収入によって全体で250リーヴルの収入がありました。同年の支出の合計は189リーヴルですので、このコマンドリーは61 リーヴルの黒字経営だったことがわかります。荘園経営で得られた貨幣や販売されなかった余剰産物は聖地へと運ばれ、騎士団が聖地で生活し、武器甲冑を調達し、城砦を建設するために使われたのです。

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シュミーズとローブ-中世の庶民の衣装




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中世の衣服、なかでも一般庶民の衣服については現在でも不明な部分が多く、その実態はなかなか掴めません。中世の文書や図像資料は上流階級についての情報を残すことに主眼を置いていました。それらの文書や絵画は貴族などの上流階級の発注によって、彼らのために作られたものであるからです。また、どうにか資料が見つかったとしても、それらには地域、時代によって様々な名称や用途があるので、中世ヨーロッパの服装を体系化して解明するのは至難の業のようです。

というわけで今回は、中世フランスの庶民が着ていた服装について、概観したいと思います。中世の人々の衣装は、14世紀に男性服における変化が起こるまでは、ローブ(長衣)が基本でした。ローブは上衣とスカートが一緒となり繋がった形状のもの、つまり今で言うワンピースのような形をしていました。女性はシュミーズ(ワンピース型下着)の上にローブを着るのが典型的な服装で、男性はシュミーズの他にブレー(長ズボン型下着)をつけ、その上にローブを着用していました。

シュミーズやブレーは普通リンネル製(麻ないし亜麻製)でした。一口にリンネル製といっても、リンネルの語源となった亜麻と、それより下級の繊維と見なされていた麻では価値が大きくことなり、亜麻布は麻布のおよそ4倍から6倍の価値がありました。毛織物製の上着から肌を守るため、貧しい人はごわごわする麻のシュミーズで我慢しなければなりませんでしたが、裕福な人は全ての下着を亜麻製で揃えることができました。その麻布でさえ当時の感覚からして安価なものであったわけではなく、貧しい農民は換えのシュミーズを持つ余裕がないこともあったようです。

ワンピース型のローブは主にウール製(羊毛製)で、女性用のほうが男性用より丈が長くつくられていました。ローブは、色や形などが時代によって変化していきましたが、基本的な形に変化はありませんでした。男性用のワンピース型の服としては、ブリオー、コット、ウープランドなど時代や地域によって様々なものがあります。例えば、コットは現代のコートの語源で、男物の長さがふくらはぎからくるぶしまで、女物は裾を引く長さで、数世紀に渡って着られましたが、13世紀には衣装の主流だったようです。これらの衣服は、腰のところで帯をまわして体に固定されていました。

14世紀中ごろから、男性用の衣服に変化が起こります。男性は下着の上に、プールポワン(上着)とタイツ状のショート(脚衣)を着るようになったのです。この変化は、上流階級に始まり、それから都市部へ、そして農村へと広がって行きました。プールポワンとショートの組み合わせは、中世後期、庶民階級の男性の一般服となっていきましたが、ワンピース型の衣服は完全に廃れたわけではなく、ローブは中世を通じて人々に着られ続けました。

テンプル騎士団-国際銀行にして王室金庫

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▲清貧を象徴する、二人のテンプル騎士が一頭の馬に乗っている図。

テンプル騎士修道会は創立当初、数人の騎士が聖地の港からエルサレムまでの巡礼路を守っているだけのものでしたが、数十年で何百もの騎士を抱える大軍事組織に発展しました。この騎士たちは、修道士にして騎士という身分上、清貧の精神を尊重し、食事や衣服も、世俗の騎士に比べると質素なものでした。しかし、その一方でテンプル騎士団は組織全体としては莫大な富を蓄えていました。この富をテンプル騎士団にもたらしていたのは、ヨーロッパの各地のコマンドリー(騎士団の持つ支部、主に農場として経営)からの上納金や、聖地で異教徒と戦うという崇高な目的に惹かれた人々からの財貨や領地の寄進でした。

この巨大な財力とヨーロッパから聖地にまたがる活動網は、騎士団には金融業を行う機関を与えました。イギリスやフランスに住む巡礼者や十字軍士は、ロンドンやパリに置かれている支部に金銭を預け、聖地で手形と交換に金銭を受け取ることができたのです。これによって、巡礼者は重い貨幣を聖地まで運んでいく手間や危険を避けることが出来るようになりました。また、巡礼者が一定の財産を騎士団に預けておいて、もし戻らなかったならば、その巡礼者の相続人に財産が渡されるように取り計らうこともできました。13世紀に入っても、ヨーロッパで集めらた貨幣を載せた騎士団所属の船舶が地中海を行き来していました。

また、騎士団は巡礼者のための現金移送以外にも寄託(預金)業務や両替、貸付業を行っていました。当時の人々は盗難や火災での被害を恐れて、金銭や貴金属などを修道院や教会に寄託することがありました。修道院に貴重品を預けることで理念的には教会に保障されていた保護と安全の恩恵に与ろうとしたのです。通常の修道院の機能に加えて武装能力を持ったテンプル騎士団にも、このような流れの中で寄託が行われました。寄託の場合は金銭の所有権は騎士団に移らないものの、現金を騎士団に集積される結果を生みました。また、当時の人々にとって、預金は利子が付く投資としては捉えられておらず、むしろ貸し金庫を使わせてもらっているのだと考えられていたため、預託には保管料が付く場合もありました。

現在とは比べ物にならないほどに貨幣の種類や質が雑多であり、一国内でさえ同額の貨幣が何種類と造られていた中世において、両替業務は重要な役割を持っていました。また、騎士団は一個人から王侯まで幅広い身分の人々に貸付も行っていました。騎士団の金貸しについては別記事で後述します。

テンプル騎士団は、しだいに王侯の金庫としての役割も担うようになっていきます。この時代、王の個人資産と国家財政は完全に分離していなかったので、王が騎士団との間で金銭の取引を行うということは、テンプル騎士団金庫の国庫化を意味していました。フランス王フィリップ2世は第三回十字軍(1189‐1192)への参加の際、遺言の執行人をテンプル騎士団の財務長官に指名し、王の不在中の地方からの収入はタンプル塔(在パリ騎士団支部)に集められるように指示しました。また、フィリップ2世の孫、ルイ9世は第七回十字軍(1248‐1254)で捕虜にとられた際、テンプル騎士団の預託金を身代金の一部に使っています。

1295年、フィリップ4世はフィレンツェ人を責任者とする王室財務官庁を新設し、国庫の管理に乗り出しました。しかし、完全にテンプル騎士団による国庫管理がなくなったわけではなく、また王室財務官庁自体もフランドルとの戦争や財政危機のためにリーダーシップを発揮するには到らず、王室金庫がやっと統一されたのは騎士団解散と王崩御の後のことでした。


アルビジョワ十字軍-第二次十字軍と王権の拡張

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▲カルカソンヌの城塞都市

1225年、ブールジュ教会会議にてレイモン7世の破門と、新たなアルビジョワ十字軍の結成が決議されました。一連の動向は教皇特使ロマン・ド・サンタンジュがルイ8世との協力の方向に進めるべく暗躍していたようです。ともあれ、ルイ8世は陣羽織に十字を縫いこんだ数万の軍勢を率い、南フランスへと侵攻しました。そして年内に、プロヴァンス地方の主要都市のひとつアヴィニョンを陥落させます。その後、トランカヴェル家領など南フランスの諸都市は次々と十字軍に下っていきます。トゥールーズ伯の命運は風前の灯火に見えました。しかし、ルイ8世が病に倒れたために十字軍は最終目標トゥールーズを手に入れることなく退却。1226年、ルイ8世はパリへの帰還を果たさずに崩御します。

南フランスではルイ8世の置き土産にしたカルカソンヌのセネシャル(代官)、アンベール・ド・ボージューがトゥールーズ伯との戦闘を続行していました。ルイ8世撤退後の一連の戦いは3年ほど続き、1229年モーの和平条約で終結します。いまだ幼少のルイ9世に代わって摂政となったルイ8世王妃ブランシェ・ド・カスティーユ、ロマン・ド・サンタンジュによって計画されたと思われるこの和平は非常に奇妙なものでした。というのも、敗北したわけでもないトゥールーズ伯があまりにも厳しい内容の条約を飲んでいるからです。

モーで行われた和平会議で提示された条件は、異端撲滅の義務付け、多額の賠償金といった適当なものに始まりますが、後半ではトゥールーズ伯の娘をルイ9世の弟アルフォンス・ド・ポワティエに嫁がせること、トゥールーズを始めとする主要都市の武装解除、さらには防備が残される城砦の大方をフランス国王管轄にするなど、常識を超えたものでした。レイモン7世には息子がいなかったため、娘の嫁入りは彼の死後トゥールーズ伯領が王領に併合されることを意味していました。レイモン7世はこの条件を飲みました。その理由はわかっていませんが、ブランシェ・ド・カスティーユとロマン・ド・サンタンジュの策略が疑われています。

1229年中、ロマン・ド・サンタンジュはトゥールーズで教会会議を開きました。この会議はモーの協約の特に異端に関する部分を実現するためのものでした。この会議で、異端審問の手続きにまつわる45ヶ条の決議がなされます。当時の教皇グレゴリウス9世が、異端審問制度の創設に大きく関わっていたことは示唆的です。この会議から数年後、それまで在地の聖職者に委ねられていた異端審問はドミニコ会士などの専門の異端審問官によって担われていくことになります。悪名高い異端審問制度の始まりです。

1240年、このような王権・教皇権の伸張に対しレイモン・トランカヴェルが二度目の反乱を起こします。彼の軍勢は、旧カルカソンヌとベジエの副伯領の落人たちにアラゴン王国の歩兵隊という加勢まで参加した大軍でした。彼はカルカソンヌ奪還を図りますが、包囲をかけるまでに時間を浪費してしまったためカルカソンヌ代官ギョーム・デ・ゾルムに防衛強化と救援要請の暇を与えてしまいました。カルカソンヌは包囲に耐え抜き、反乱軍は結局、フランス王の家臣ジュアン・ド・ベルモン率いる北の軍勢に降伏します。ジュアンはこの機会に残っていた多くの敵方の拠点を落として行きました。トゥールーズ伯はこの反乱の際、レイモン・トランカヴェルの救援要請を断っていました。レイモン7世には、別の計画があったのです。


ロングソード、ショートソード-中世の剣

剣は、槍と並ぶ代表的な武器であり、中世の戦場の華である騎士たちの主要武器でした。ランス(騎槍)で突撃した後の混戦では、騎士は剣を抜いて戦ったのです。槍や他の長柄武器に比べ、剣を扱うのには長い訓練が必要であり、剣で戦うということ自体が騎士のステータスであったといってもいいでしょう。騎士物語に登場するデュランダルやエクスカリヴァーなどの名剣は今でも多くの人が知っています。

ロングソードとショートソードは、訳してしまえば長い剣と小さい剣であり、両者の区分けは決して明確なものではありませんが、おおよそで分けると次のようになります。すなわち、前者は馬上から扱いやすいように70~80cm、長いものでは90cmほどの剣身をもっていたのに対し、後者は徒歩での戦闘に向く60~70cmほどの長さでした。

ロングソードはその構造が、14世紀の中ごろを境にして大きく変わっています。14世紀中期以前のロングソードは、身幅が3~5cmと幅広で、しかも肉厚でした。当時の剣は、焼入れという技法で強化されていました。焼き入れとは、熱した鉄を水につけて急激な温度変化を与えることで、鉄を強化するものです。しかし、この技法では鉄の表面しか強化されず、使用を繰り返すうちに剣の強化された部分がはがれたり、剣が曲がってしまう恐れがありました。また、この時代の剣の特徴として、幅広に肉厚の剣の重量を少しでも軽くするために、剣身に沿って血溝が設けられていました。

14世紀中ごろ以降の剣が、身幅が2~3cmと細くなり、肉厚も薄くなって軽量化が図られました。また剣の先端部分も鋭く尖らせるようになったために、突く攻撃も頻繁に行われるようになったのです。これらは、鉄の加工技術が発達して、鉄より強度の高い鋼が作られるようになったために可能になった改良でした。この頃の剣にはもはや軽量化のための血溝はなく、剣身の断面図は二辺の長い6角形やひし形になっていきました。

ショートソードは、14世紀以降に下馬した騎士たちの編成する重装歩兵(メン・アット・アームズ)に好んで使われました。鉄加工技術の発展は剣の発達のみならず、鎧の強化にも寄与しており、板金鎧を(いまだ部分的にではありましたが)装備していた兵士に対抗するために、刺突に重点が置かれました。

剣の柄や鍔(つば)には、剣の持ち主の財力にふさわしい装飾がなされ、時には剣身にも格言などが刻まれているものもありました。安全と、剣の常体維持のため剣は鞘に収められました。木製のものが一般的でしたが、もちろんこちらにも金や宝石などで豪華な装飾が施されているものがありましたが、これはどちらかといえば儀礼用であり、実践的なものとしては木製の鞘に革を巻いた程度であったようです。


ドゥームズデイ・ブック-なんのために書かれたのか

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▲ドゥームズデイ・ブック

1085年、グロスターで開かれたクリスマス会議の席。征服王ウィリアム1世は全国の土地とその保有者についての台帳を編纂するように指示しました。王国は七つの巡回区に分けられ、各巡回区が土地保有の情報を収集し、翌年 1086年の8月1日までには調査は終了しました。同日、ソールズベリでウィリアム1世はイングランド全土の領主からの臣従礼を受けます。遅くとも 1087年の王の死までには、二巻からなるドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)が書物の形で完成したと言われています。

ドゥームズデイ・ブック編纂のための情報は、土地保有者と州の下位単位である郡(ハンドレッド)からの報告によって集められました。しかし、これらの情報は、用語や単位の面で一貫性のないものでした。農地の大きさはエーカーで書かれたり、犂隊の数で示されたり。森林の広さは飼育できる豚で表したり、実際の長さで測ったり。ハイドという租税徴収の単位となる面積も、土地によって広さがまちまち、といった状況です。

ドゥームズデイ・ブックは課税のための土地台帳(租税台帳)というのが通説ですが、これはどうやら間違いのようです。理由は三つあります。ひとつは、形式が租税査定に不向きな書き方をされていること。上述したように、地域ごとにバラバラな方法で記述されており、租税負担の総額を出しやすいような書き方になっていません。

ふたつめは、ドゥームズデイ・ブックの情報収集期間中、並行して別の租税調査を行っていたことです。ドゥームズデイ・ブックが基本的に州の範囲内で、土地保有者ごとの表記になっているのに対し、租税調査は郡ごとに記述されていたというように両者はまったくの別物です。そのため、ドゥームズデイ・ブックが租税台帳だとすると、これは二度手間ということになってしまいます。

最後の理由は、編纂のための調査に土地保有者の協力があったことです。編纂のための調査は1055年の12月から1056年の8月までの7ヶ月間という短期間で行われました。この限られた期間内で調査を完了するには、土地保有者の自発的な情報提供が不可欠です。土地保有者が普通は徴税に協力的でないのは現代でも変わりませんね。

ちなみに、全国調査に7ヶ月を要するというのは、現在の感覚からすると遅いようにも思われますが、交通・交信手段が未熟であった当時は会議の召集のみにさえ2ヶ月間の猶予を設けるのが普通であり、また調査の時期は北国イングランドの冬に当たっていたことを踏まえると、この期間は相当に短いものです。

租税台帳という説の他には、封建的奉仕のための台帳であったとする説もあります。つまり、国王がどれだけの奉仕を土地保有者に義務付けるかを把握するためのものであったという説です。これは保有者ごとの記述を行ったために正しいように思われますが、ドゥームズデイ・ブックにはこの目的を達するための情報よりはるかに多くのことが記載されており、どちらかというと土地の経済的資産(水車、粉挽き所、牧草地など)を総括したものでした。また、租税台帳でないとする第三の理由も、この説に反します。奉公とはいいつつも、好んで封主のために尽くす領主は例外的です。

ではドゥームズデイ・ブックはいったい何のために書かれたのでしょうか。まずドゥームズデイ・ブックは、誰がどれほどの土地・財産を持っているかを明らかにしているので、土地所有に関する訴訟が起きた際に参照することで、紛争を解決する手助けとなりました。また、ノルマン・コンクエストの後、イングランドで土地を獲得したノルマン貴族は、この新たに加わった土地の所有権が王権によって保障されることを望んでいました。このことは、調査の完了の際、ソールズベリで国王が臣従礼を受けたことに関わってきます。このように、土地保有者にはドゥームズデイ・ブック編纂による利益があり、このことが彼らの協力を引き出したのです。つまり、ドゥームズデイ・ブックは①土地にまつわる紛争の解決手段であり、かつ②土地所有者への土地授与(安堵)の証明書であったと考えられるのです。


豚の脂身と乳製品-中世のカロリー源

現代は飽食の時代と言われます。人々にとっては、どれだけ多くの量の食事を口にするかということは普通問題ではなく、逆にどれだけカロリーを抑えた食事ができるかということが重要視されているように感じます。しかし、中世の人々、特に恵まれた上流階級からはみ出た多くの一般庶民にとっては多くの食事で必要カロリーを得ることは死活問題でした。個々の食品の栄養価が低く、現代人よりはるかに体を動かす生活スタイルがとられていた中世においてはカロリーの高い食事が求められていたのです。

さて、自明のことですがカロリーを多く摂取するために、一番手っ取り早いのは脂質を摂ることです。南ヨーロッパ、地中海沿岸地帯では、古代ローマの時代よりオリーヴ油が人々に脂質を提供していました。オリーヴの栽培限界以北、アルプス彼方の北ヨーロッパでは、豚の脂身や牛や羊の乳製品が脂質を摂るための中心的な存在でした。ミルクはそのままでも蛋白質や脂質の貴重な栄養源でしたが、塩を加えたり乾燥させたりして、チーズやバターに加工することで保存性が高められました。これら乳製品の生産が特に盛んだったのは、ブルターニュ、フランドル、イギリスなどの地域でした。

このように、中世の人はカロリーを求めていたのです。栄養の問題でも、味の問題でも、中世のチーズは脂肪分が多くねっとりしたものが好まれたようです。最上級のチーズは乳の出がもっとも良くなる夏至の時期につくられたこってりしたもので、逆にあっさりした脂肪分少な目のチーズは安物とされたようです。

アルビジョワ十字軍-ミュレの戦いと南フランス諸侯の反乱

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▲南フランス地図(都市の並びはおおよその位置です)

シモン・ド・モンフォールは、ミネルヴ、テルムに続きいくつもの要塞を落としていきましたが、その戦いの中でトゥールーズ伯やフォワ伯などの強力な南フランス諸侯とも争うようになっていきました。1213年にミュレを占拠したばかりの彼の軍勢は損害が多く、南フランス諸侯がシモン・ド・モンフォールと彼の十字軍を潰すための絶好の機会が巡ってきました。

折しも、南フランスに国境を接するアラゴン王ペラ2世がトゥールーズ伯、フォワ伯及びコマンジェ伯の臣従礼を受け、南フランスへの介入を始めていました。臣従礼を受けて、彼らの封建制上の主人になるということは、同時に封臣保護の名目で南フランスに軍事侵攻できるようになったことを意味します。南フランス諸侯とアラゴン国王の連合軍は、ミュレのシモン・ド・モンフォールを圧倒的兵力差で包囲します。同年9月12日、包囲に耐えかねた十字軍はついに一か八かの賭けに出ました。城から打って出たのです。そして、大逆転劇が起こります。北国の騎士の突撃によりペラ2世は戦死、シモン・ド・モンフォール率いる別働隊が大きく迂回して敵側面を突いたことにより連合軍は総崩れになったのです。この奇跡的勝利に勢い付けられた十字軍は、1215年、無血でトゥールーズを占領しました。レイモン6世とその子、レイモン7世はイングランドへの亡命を余儀なくされました。

翌年の1216年、精力的に異端根絶に努めたインノケンティウス3世が崩御しました。この機会にレイモン7世は南フランスに上陸、シモン・ド・モンフォールの弟の守る城を占拠します。これに応じる形でトゥールーズの町は駐屯していた十字軍を虐殺、蜂起の狼煙を上げました。この反乱の動きに対し、シモン・ド・モンフォールはトゥールーズに包囲戦をしかけます。この時、トゥールーズの投石機が放った石が、この北の騎士を死に至らしめました。

シモン・ド・モンフォールの家督を継いだのは息子のアモーリ・ド・モンフォールでしたが、凡庸な彼にはトゥールーズ伯に対抗し、父の築いた大封土を守りきるだけの力はありませんでした。1224年、カルカソンヌは15年ぶりにトランカヴィル家の手に帰しました。1209年のカルカソンヌ陥落の後に獄死したレイモン・ロジェの息子、レイモン・トランカヴェルはトゥールーズ伯、フォワ伯の加勢を受け、父の領地に帰還を果たしたのです。

アモーリ・ド・モンフォールはといえば、父の遺骸と共に北フランスへと帰って行きました。こうして南フランスの政治地図は、アルビジョワ十字軍以前の状態に戻ります。しかし、これで万事が丸く収まったわけではありませんでした。先祖伝来の土地へ戻ったアモーリは、法律上はいまだ自分の領地である南フランスの土地を、フランス王ルイ8世に献呈します。こうして、ルイ8世には豊穣の大地、南フランス征服戦争の大儀名分が与えられたのです。


アルビジョワ十字軍-ミネルヴ、テルム陥落

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▲火刑に処されるカタリ派の信者

シモン・ド・モンフォールはカルカソンヌ陥落後も、十字軍の総大将としてカルカソンヌを拠点に戦闘を続けましたが、十字軍の主力であった諸侯の家臣団の多くは、トランカヴィル家を討ち遠征の目的は達成されたとしてさっさと引き上げていってしまいました。しかし、カタリ派を擁護する南フランス騎士の一部は、堅固な城砦に立てこもりなおも抵抗を続けていました。十字軍の総大将として、彼が始めに取りかからねばならなかった仕事は、これらの城をひとつひとつ攻略していくことでした。

1210年6月、要害の地にそびえるミネルヴの攻略にかかります。ギョーム・ド・ミネルヴの指揮する守備兵に守られたこの城への攻撃に際し、シモン・ド・モンフォールは一日の経費が20リーヴルも掛かる投石機を用いて、6週間に渡る長期の包囲を行いました。この投石により敵の水源への道が絶たれたことが勝利の要因となりました。7月22日、守備兵が自由に立ち去ることができる、異端者はカタリ派の信仰を捨てる限りにおいて除名されるという条件の下で、ミネルヴは降伏しました。しかし、この約束にも関わらず150名余りの信者は信仰を捨てるよりかは死を選び、彼らは生きたまま焼かれたのです。

同年の8月、シモン・ド・モンフォールはまたも高所に立つの難攻の城砦、テルムを包囲します。しかし、こちらの戦いでは守備隊の方でも投石機を動員しており、戦いはミネルヴのときのようには進みませんでした。結局、3ヶ月間包囲を続けても城は依然として落ちなかったのです。夏の終わりから始まった戦いも、そろそろ冬を迎えようとしていました。冬の戦いではしっかりした拠点のない攻城側が圧倒的に不利です。

11月、長期の包囲が功を奏し、水源の枯渇したテルムから和睦がなされましたが、その内容は満身創痍の十字軍への撤退勧告とも言えるものでした。すなわち、城は明け渡し、城内の者は自由に退去できる、そして翌年の復活祭に城は元の城主に戻されるというものです。しかし、友軍に続々と見捨てられていたシモン・ド・モンフォールは、この条件を飲みました。しかし、和睦締結から城の明け渡しまでの間に雨が降ったのです。当然のことながら、テルムは和睦案を破棄します。

こうして、十字軍には撤退の道しかないように思われていた11月22日、シモン・ド・モンフォールの軍勢はテルムから物音ひとつしなくなったことに気が付きます。十字軍が恐る恐るテルムへ入ると、そこでは守備隊やカタリ派信者たちが死に絶えていました。和睦申し入れの日に降った雨で、確かに井戸は満たされたのですが、その井戸に死んだ鼠が入っており、城内の者は赤痢のために全滅したのです。この後も、シモン・ド・モンフォールはいくつかの山城を攻略し、南フランスにおける地盤を確固たるものにしていきました。
 


アルビジョワ十字軍-ベジエ、カルカソンヌ陥落

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▲カルカソンヌを追われるカタリ派

カタリ派への教会の態度が変化したのは、教皇特使ピエール・ド・カステルノーがトゥールーズ伯レイモン6世を破門した後、何者かに暗殺されたことがきっかけでした。下手人は不明でしたが、当然のことながらレイモン6世が犯人だとされました。1209年、教皇インノケンティウス3世はフランス全土の高位聖職者、諸侯、騎士らに向けて異端撲滅のための大号令を発します。これを受けて、ブルゴーニュ公を筆頭としてフランスの名だたる諸侯や司教らが、30万とも言われる大軍を引き連れて集結地のリヨンに続々と乗り込んで来ました。この前代未聞の大軍を前にして、レイモン6世は教会への謝罪を行い、以後異端撲滅に協力し、十字軍に参加するという約束で破門を解除されました。十字軍は攻撃目標を、南フランスのナンバー2、カルカソンヌとベジエの副伯、トランカヴィル家のレイモン・ロジェに定め直します。

十字軍は副伯領の主邑のひとつ、ベジエをたった一日で陥落させました。ここで、ひとつ問題が湧き上がります。ベジエ市民の中から、異端者と正統カトリックの信者をどうやって見分けたらよいのかという疑問です。これには、シトー修道会の総修道院長であり、この度の十字軍の総大将であるアルノ・アマルリックが答えました。「全てを殺せ、神は神のものを知りたまう」つまり、神は正統カトリックの信者だけ、あとで天国へ導いてくださるのだから、見分けのつかない異端者を逃がす危険を冒すよりかは、住民を根こそぎ血祭りにあげた方がよいのだ、と。こうしてその数2万とも3万とも言われるベジエの市民は、老若男女の如何を問わず虐殺されたのです。

血なまぐさい殺戮の後も十字軍の勢いは衰えず、次いで彼らは副伯のもうひとつの主邑カルカソンヌへと進軍します。こちらでは、副伯レイモン・ロジェ・トランカヴィル自ら指揮した篭城軍が健闘し、十字軍は2週間に渡る包囲を余儀なくされます。戦闘の決着を着けたのは夏の陽光でした。カルカソンヌの井戸が、南フランスの容赦ない日差しを受けて干上がってしまったのです。篭城軍は已む無く降伏し、副伯レイモンは捕虜となり、その3ヶ月後、赤痢を患い獄死しました。

こうして南フランスで権勢を誇ったカルカソンヌとベジエの副伯、トランカヴィル家は政治舞台から抹消されます。十字軍内では、この副伯の継承者を誰にするかを決定するために会合が持たれました。当時の南フランスは、ローマの伝統を受け継いだ裕福な大都市が多くある豊穣の土地であり、貴族たちにとっては垂涎の的であるはずでした。しかし、副伯の継承を推薦された大諸侯は、自分たちは異端を討伐しに来たのであって南フランスの土地を奪いに来たのではないからと理由を付け、現在の勢力バランスを崩さずにはいられないであろうこの大封土の受領を拒否しました。そこで、目を付けられたのが遠征に参加していた一貴族、シモン・ド・モンフォールでした。さて、一夜にして平凡な領主から、強大な副伯領の主人となったシモン・ド・モンフォールですが、彼の前途は安寧なものではありませんでした。