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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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クリュニーの改革-祈る修道士

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▲クリュニー修道院復元画

910年の9月11日、マコン伯を兼ねるアキテーヌ公ギョームはとある書類に署名しました。中世盛期の修道院改革第一波の中心となる、クリュニー修道院の創立文書です。公は、ブルゴーニュのマコン伯領近くに自らが持つクリュニーの所領を、修道院創設のために寄進したのです。これはブルゴーニュ貴族出身の修道士ベルノーの要望に答えたもので、彼がクリュニー修道院の初代院長となります。

「だれも神の僕(修道士)たちの財産を犯したり、奪ったり、減じたり、交換したり、だれかに封として与えたり」してはならないと創設文書にあるように、この修道院は諸侯などの世俗権力を初めとして、聖界諸侯である司教の権力からも独立したものとして創設されました。諸侯や司教に代わって修道院を支配したのは、西方キリスト教会の総締めとなっていた教皇庁でした。クリュニーは、ただ教皇座のみに直属した機関となったのです。この両者の関係はクリュニー修道院が、教皇座に5年につき10ソリドゥスの灯明料を納めていたことにも示されています。

また、創設文書にはこの寄進は「私の祖先や母の魂のためであり、私とわが妻のため、すなわちわれわれの魂と肉体の救済」のためであると記されています。当時、聖なる教会や修道院への寄付は、自らと家族を霊的に救う贖罪行為になると考えられていました。つまり、土地や財産を寄進した貴族やその家族、先祖のために修道士たちが祈りを捧げたのです。これは代祷ないし「執り成し」と呼ばれるものでした。クリュニー修道院は、カロリング朝分裂後の不安な世界に生きる貴族たちの、精神的安定剤として働いていたのです。

さて、クリュニー修道院の最大の特徴は、上記の執り成しなどを含めた「祈祷」に活動の大部分を費やしていたことです。一日中、神への賛美を詠うのが彼らの主な仕事でした。写本作成や芸術作品の収集なども盛んに行われましたが、これも全て神を称えるための道具として重要視されたからでした。その一方で、それまで修道院が行っていた古典文学の写生や、農作業などの手労働は軽視されるようになっていきます。

クリュニー修道院は、12世紀初頭に最盛期を迎え、およそ1500もの系列修道院を抱えるに到ります。系列修道院は、クリュニー出身の修道士が新たに修道院を創設したり、既存の修道院を改革したりすることで生まれました。戒律上は、修道院長は複数の修道院を支配することはできませんでしたが、遠隔地所領経営のための、分院のような存在であるならば、複数を統制することができました。つまり、新たなクリュニー系修道院は本院の分院と位置づけられ、クリュニー修道院長はヨーロッパにまたがる巨大な組織(ある歴史家はクリュニー帝国とさえ呼ぶ!)を支配したのです。

執り成しを求める貴族の寄進により富を増大させ、ヨーロッパを横断する巨大な中央集権的組織を展開し、自らの糧の生産は修道院の隷属農民に任せるばかり。このような修道院が、清貧と孤独を旨とする初期修道制とはかなり違ったものであることは容易に理解できます。純粋な祈りの場となるべく改革された修道院は、皮肉なことに初期修道制の理想を忘れさせてしまったのです。新たな問題の持ち上がった中世修道制に、新たなる改革をもたらしたのは、「祈り、働け」をモットーとするシトー修道会でした。

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城の眼-狭間窓あるいは射眼

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▲狭間窓を内部から。外には攻め手の攻城塔が見える(Mount&Blade)

城砦建築の壁は分厚くできており、この厚さを利用した機構に狭間窓があります。これは、壁の外側に狭く内側には広がっており、真上から見たとすればちょうど漏斗型・台形をしたような形の窓です。この狭間窓を使えば、内部にいる兵士は狙いをつけるために自由に動くことができますが、攻め手はほんの一筋の切れ目にすぎない窓の中の相手を狙わなければならないのです。これにより、城の守備兵は凹凸の鋸壁に隠れながら攻撃を行うより、はるかに安全に戦闘を行うことができました。

もうひとりのベネディクトゥス-新たなる改革

7世紀後半から、ヨーロッパの社会や経済は急速に発展していきます。農業生産の拡大や商業活動の活発化は、日々の生活に余裕をもたらし、この余裕は8世紀後半に栄えた文芸復興、すなわち歴史的にカロリング・ルネサンスと呼ばれる時代を呼ぶ一因となりました。カール大帝の御世には、イングランド出身のアルクィンを初めとする多くの学僧たちが、帝の保護の下で、古典文化や聖書の研究や継承に従事することになり、修道院ではそれらにまつわる写本が数多く書かれました。

このカロリング・ルネサンスは修道院の学術的な側面を強化する役割を果たした半面で、王権を手にして間もないカロリング家が、修道院を王の支配の体系に組み込むことを助長する結果を生み出しました。カロリング家は、自分の意に沿う人物を修道院長に斡旋しましたが、そのような人物は別段精力的に修道士たちを率いるわけではなく、修道院の持つ財産にもっぱらの関心があったのです。こんなことでは、修道制全体として衰退は避けられません。

このような流れを押しとどめようと、修道院のベネディクトゥス戒律厳守を推し進めた人物として、アニアーヌのベネディクトゥス(750頃~821)がいます。戒律を著したヌルシアのベネディクトゥスと同名のこの男は、ルイ敬虔帝により建てられたインデ修道院に招かれます。彼は、アーヒエンの教会会議でベネディクト戒律を唯一の修道戒律とし、816年にはこの戒律の厳守を、勅令の形をとって各地の修道院に告知しました。ここで注目されるのが、アニアーヌのベネディクトゥスが修道生活の中で、祈祷をなによりも重要視したことです。そのために、以後の修道院においては農業などの手労働もちろん、古典文献の研究などは軽視されていくことになります。

しかし、アニアーヌのベネディクトゥスの改革は完全ではありませんでした。理由は、彼の改革は修道院長の選出に関して、俗権の介入を完全に排除することはしなかったからです。ルイ敬虔帝の時代には、帝国の相続をめぐって親兄弟が互いに争い合い、帝の死後は兄弟間で血みどろの戦いまで繰り広げられることになります。結局、分裂を余儀なくされたルイの息子たちの王国は、以前にも増して、支配の体系として求める修道院への干渉を強めていくのです。この俗権の干渉を完全に断ち切るたる修道院を創設したのは、ブルゴーニュ貴族出身の修道しベルノン、後のクリュニー修道院長でした。


ウィリブロードとボニファティウス-アングロ・サクソン修道士の活躍

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▲これまで記事で紹介した修道院

聖コロンバヌスがフランク王国で修道制改革を行っていたのと同じ頃、ローマではセナトール貴族出身で修道院に学んだ一人の人物が司教に任ぜられていました。後の教皇グレゴリウス1世(540頃~604)です。就任後、彼はアウグスティヌスを長とする一団をイングランドに送り込みます。アウグスティヌスはケントのカンタベリー近くに修道院を開き、自ら最初のカンタベリー大司教として、イングランドでローマ系キリスト教の布教を進めて行きました。

なぜ、教皇座ローマがわざわざ聖職者を送り出さねばならなかったのか、と今の私たちは考えてしまいますが、当時のローマ教会は、周囲を異端の宗派(アリウス派)のランゴバルド王国に囲まれ、近隣の司教への影響力さえほとんどなかったという事情があったのです。ですから、その一方でアイルランド系教会もブリテン島へ進出しており、アイルランド系教会とローマ系教会の修道士たちは互いに競ってイングランドでの地歩を固めようとしていたのです。

両教会のバランスが一方的になったのは664年のウィトビー教会会議でのことでした。この会議では復活祭の日取りを決定するための復活祭論争が行われ、この論争の結果、ローマ系方式が正式に認められたのです。以後、イングランドでのアイルランド系教会の勢力は弱体化していきます。7,8世紀になるとローマ系教会のイングランド人修道士たちが、フランク王国やその外側の地域へ進出し、キリスト教の布教に努めていくことになります。

イングランド人修道士の一人でリポン修道院出身のウィリブロード(658~739)は7世紀末にフリジア(フリーセン)の地へと足を踏み入れました。フリジアは彼が布教を開始する少し前にフランク王国に併合されたばかりでした。ルクセンブルクにエヒテルナッハ修道院を建ててフリジア人の教化を進めたウィリブロードは、布教が大成功に終わったとは言えなかったものの、教皇からフリジア大司教に任ぜられました。

また、こちらもイングランド出身のボニファティウス(680~754)は8世紀初頭にフリジアに赴き、その後はライン以東の地、すなわちゲルマニアでの布教を進めました。フルダ修道院を創設した彼は、後にマインツの大司教となりました。ボニファティスはベネディクト戒律の厳守を訴え、さらに747年の教会会議でローマ司教(教皇)を頂点とする西方教会のモデルを提示するということも成し遂げました。この後、ローマ教会が751年のカロリング家の王位奪取公認、754年のピピンの寄進、そして800年のカールの戴冠を経てフランク王国を自らの後見とし、西ヨーロッパのキリスト教会を支配することになるのご承知の通りです。

このようにグレゴリウスが蒔いた種は、イングランドで芽を出し、フランク王国で花開くことになるのです。西ヨーロッパの修道制は、ローマ教会、フランク王国宮廷と密接な関わりを持ちながら発展していくのです。


アイルランドからの風-コロンバヌスの改革

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▲聖コロンバヌス

591年、後の修道制に大きな影響を与えることになる人物が、12人の仲間とともにガリアに入りました。その男の名はコロンバヌス(540頃~615)。彼は、睡眠時間が無きに等しいような苦行を実践していた、北アイルランドはバンゴール修道院の出身でした。彼はガリアの修道制が、退廃しきっていて、今にも崩壊してしまいそうな状態にあることに衝撃を受け、また修道院に対して大きな指導力を持つ司教が、贅沢な暮らしの中で安穏としていることに反発を持ちました。

このような悪徳を排除するために、彼は修道院の建設場所を、それまで多かった都市に隣接する場所から、農村地帯に移そうとしました。そもそも、5,6世紀の修道院は聖人が埋葬された地に建てられるのが普通だったのですが、この埋葬地、すなわち墓地はローマ時代からの習慣として城壁外の街道沿いに置かれていたのです。そのため、初期の修道院の多くは都市に隣接するように建てられていたのですが、コロンバヌスはこれを変えようとしたのです。こうして、司教権力から、静かな祈りの場である修道院は遠ざけられました。この結果、7世紀に創設された300を超える修道院の内、6割以上が田園地帯に建てられることとなります。

コロンバヌスはまた、物理的に修道院と司教座を切り離すだけではなく、制度的にも両者を分けようとしました。この計画を後押ししたのは、アイルランド修道制に帰依したフランク国王クローヴィス2世(637~658)の妃、バルティルド(630頃~680)でした。王室は司教に圧力をかけて、司教に修道院の自立を認めさせたのです。このような修道院分布の地方化や司教権力からの独立は、田園地帯での荘園領主としての修道院が発達する下地にもなっていきました。

コロンバヌスは、ブルゴーニュにリュクスーユ修道院を、晩年には北イタリアにボッビオ修道院を創設して、アイルランド修道制の思想と実践の発信源としました。彼は自分の建てた修道院のためにふたつの戒律を著しました。「修道士戒律」ではバンゴール修道院の活動を基に修道士での生活について、「共住戒律」では罪を犯した後の告白と贖罪について記してあります。後者の、信者が自分の心の中に罪の意識があれば告白し贖罪するという習慣は、アイルランド修道制が持ち込んだものです。

しかし、彼の持ち込んだアイルランド修道制の戒律は、いささか行き過ぎているところもありました。そこで、コロンバヌスの死後、弟子たちは彼がローマから持ち帰ってきたベネディクトゥス戒律とアイルランド修道制をミックスして「混合戒律」をつくりだしました。これにより、アイルランド修道制の持つ徳の高さや厳格さと、ベネディクトゥス戒律の持つ弱者への配慮がひとつになり、西ヨーロッパの修道制はさらに発展していくことになります。


ヌルシアのベネディクトゥス-修道制の父

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▲ヌルシアのベネディクトゥス (フラ・アンジェリコ)

ヨーロッパ修道制における最重要人物に聖ベネディクトゥス(480~550頃)がいます。彼はイタリア中部のヌルシアの名門に生まれました。彼は学業のためにローマへ赴きましたが、そこで多くの学生たちが悪徳に染まっていくさまに反感を持ち、その後はローマを離れ、隠修士として山中で修道生活を始めました。ベネディクトゥスの周りには、彼を慕う弟子たちが集うようになります。529年、ベネディクトゥスは弟子たちのためにカシノ山に修道院を創設しました。世に名高い、モンテ・カッシノ修道院の誕生です。

もちろん、彼の偉大な業績はイタリアに一修道院を創設することだけでは終わりません。聖ベネディクトゥスの名を、ヨーロッパ中に知らしめているのは、彼がモンテ・カッシノ修道院を建てた翌年に著した「ベネディクトゥス戒律」です。この戒律は序文と73の章から成り、修道士に求められる清貧、服従、謙遜について、修道院での典礼から食事までに渡る日常生活について、さらに修道院への受入などについて規定したものです。

この戒律は、最終章に「最小にまとめたこの入門用の戒律」とあるように、東方の修道制が、時に厳し過ぎるくらいの苦行を課していたのに対し、普通の人でも受容できるような配慮がなされているのが大きな特徴でした。この特徴は、ベネディクトゥス戒律がその後、西ヨーロッパ全域の修道院に採用されていく要因になりました。

しかし、聖ベネディクトゥスが修道院を創設し、独自の戒律を定めた6世紀は、修道院制度の緩みが加速していった時代でもありました。貴族出身者が多くを占める修道院は労働を厭う気風を醸し出し、またフランク王国では王族の子女が修道院に入ることが多くなり、このことは修道院自体の退廃をもたらし、修道院と俗権との関係を深めていきました。このように修道院が東方の厳格な禁欲修行と隔たっていく中で、西ヨーロッパの修道制に改革をもたらしたのは、アイルランドからの風でした。


レランス亡命修道院-ガリア司教の苗床

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▲レランス修道院

東方を起源にした修道制は、南フランスを経由して西ヨーロッパ世界に伝わってきました。西ヨーロッパにおける初期の修道院として有名なものに聖マルムティエ修道院と、レランス修道院があります。前者の聖マルムティエ修道院は372年、聖マルティヌスによってトゥール近郊の地に創設されました。この修道院は共住修道制と隠修士制をミックスしたようなもので、修道士たちは食事と礼拝の時間を除いて、独居して修行をしていました。聖マルムティエ修道院は西フランス地域の修道制の中心として一定の役割を果たしましたが、戒律と呼べるようなものがあったのかが微妙であり、その後の修道制への影響はあまり大きなものではありませんでした。

後者のレランス修道院は400年頃、エルサレム巡礼から帰還した北東ガリア貴族の聖ホノラトゥスによって、南仏沖合いのレランス島に創設されました。聖ホノラトゥスにはエルサレムを訪れたことで、直接東方の修道制に触れ、それをヨーロッパに持ち帰ってきたのです。レランス修道院では東方由来の戒律が採用されたと考えられていますが、聖ホノラトゥス自身が執筆した戒律が使われていたとする説もあるそうです。その戒律には禁欲や悪徳を免れるための実践的な規則が記されています。

また、レランス修道院の修道士の多くは、ゲルマン民族の侵攻を逃れてきた北部ガリアの貴族層でした。そのためこの修道院は避難所的な修道院として、聖職への転進を図りつつあったセナトール貴族を取り込み、彼らを身分にふさわしい司教として南フランスを中心とした司教座に送り込んでいきました。5世紀頃に活発であったこのような動きは、ある歴史家にレランス修道院を「ガリア司教の苗床」と言わしめるほどでした。その後、レランス修道院は貴族勢力の支援や、司教座との関わりの中で、フランク王国の修道制に大きな影響を与えていくことになります。


アントニウスとパコミオス-禁欲の潮流と実践

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▲「聖アントニウスの誘惑」 (ヒエロニムス・ボッス

修道院の活動は煩悩渦巻く俗世から抜け出し、肉欲、食欲その他の欲求を退けて、使徒的な生活を送ることで、神との一体感を得ることを目的としています。この禁欲思想はキリスト教の広まりを受けて大きな潮流となりましたが、キリスト教が伝来する以前にも禁欲を尊ぶ思想は地中海世界に存在していました。

古代ギリシアやローマにおいて、性行為は人間の体からプネウマ(生命活動の源泉)や熱を奪ってしまうと考えられていたので、過度の行為は肉体の疲労、ひいては精神の自由を害してしまうと考えられていたのです。このような古代から受け継がれてきた思想に、救世主の清貧な生き方を模倣するキリスト教の思想が覆いかぶさる形で、初期修道院創設に不可欠な禁欲思想の下地が作られていったのです。

3、4世紀に萌芽した初期の修道制には大きく二種類のものがありました。ひとつは独居生活の中で禁欲に勤しむ隠修士制と、私たちがよく知る共同体内において一定の戒律の下で共に生活する共住修道制です。後者が一般的な修道制として西ヨーロッパ世界に伝わりました。これらの修道制はいずれも、エジプト、シリア、パレスティナ、アナトリアなどの東地中海世界で生まれました。

最初の修道士とも呼ばれる、隠修士の代表格が聖アントニウス(251~356)です。彼はエジプトのとある村の裕福な家の子でしたが、20代のあるとき、全ての財産を投げ捨て、親兄弟との絆を断ち切って、禁欲生活を実践し始めました。彼の活動は、たんに一人の男が隠修士になったという事実を生じさせただけに留まらず、彼についての伝記「聖アントニウス伝」によって隠修士としての生活のモデルを提供し、多くの人々を修道生活へ誘う役割を果たしました。

これに対し、共住修道制を始めた修道士の代表格はパコミオス(290頃~346)です。彼はキリスト教への改宗後、隠修士として数年を過ごした後に修行を行う同志たちを集めて、厳格な戒律に基づいた生活を送る共同体を創設しました。彼は、それまでの隠修士が究極には自己の救済のみを求めていたのに対し、禁欲の辛さに耐えられないような修道士たちを助けるために、友愛的な共同体として修道院をつくりました。パコミオスの共住修道制は、後に西ヨーロッパの修道制のモデルとなり、さまざまな改革を通して中世の社会構造の中に組み込まれていったのです。


「アラブが見た十字軍」 アミン・マアルーフ



11世紀初頭、中東のアラブ人にとって十字軍は、聖戦でもなんでもない、フランク(中東からのヨーロッパ人の名称)の侵略に他なりませんでした。アラブにとって彼らは、不信心者であり、野蛮人であり、時には人食い人種でした。

この本は、アラブ人ジャーナリストが中東の年代記作家の記述を基にして、今まで西洋視点で考えられることの多かった十字軍を、アラブ視点で捉えようとした本です。初めは、アラブの語感に慣れないせいで、登場する長ったらしい名前に困惑しましたが、史料の引用や、ジャーナリストならではの読みやすい文体のおかげで、すぐに本に引き込まれました。

当時の中東世界は、大きくセルジューク朝トルコとファーティマ朝エジプトに分かれていましたが、これは名目上のことであり実際には中小の領主たちが跋扈する地方分権的社会でした。また、支配者層にはトルコ人やクルド人などの非アラブ人が多数を占めていました。そして、なんといっても、古代文化を吸収していたアラブは、ヨーロッパより格段に文明が発展していました。このような状況を知らずして、十字軍について語ることは出来ません。

訳者あとがきによると、日本での類書はみられないようですので、十字軍について学ぶ際にはおすすめの一冊です。


Mount&Blade





今回は初めてPCソフトの紹介です。名前の通りの、騎乗を主体としたアクションと、傭兵隊を率いて戦うというシミュレーションが混ざったようなゲームです。邦題にするとしたら、「サッカーチームをつくろう」ならぬ「傭兵隊をつくろう」で、略して「ようつく」といったところでしょうか。プレイヤーは傭兵隊長として、中世ヨーロッパをモデルに組まれた世界の中で冒険をするのです。

古代帝国が世界を支配していたり、沿岸部にはヴァイキングが建てた国があったり、ステップには汗国があるなどヨーロッパをそのまま縮小したような大陸がゲームの舞台となります。大盾と石弓を装備した兵が主体の北イタリアのような国もあれば、射手の強いイングランドのような国、さらには騎士主体のドイツ・フランスのような国などプレイヤーが仕官し、また戦うことにもなる国は様々です。

都市や村で買い物をするシステムは多くありますが、このゲームでは物資・家畜の略奪、焼き討ち、包囲攻撃までしかけられるのが特徴です。CPUプレイヤーも独自の軍隊を持っていて、数十から数百の兵士の衝突というのは、まさに中世らしい規模です。CPUプレイヤーの中には、王国に仕える領主もいれば山賊や追い剥ぎもいます。

また、ゲームバランスのためか史実に即したのかはわかりませんが、貨幣システムがなかなかリアルかなとも思いました。例えば、ひとりの騎士の給金で、村で徴兵したばかりの新兵を40人養えたり、頑丈なメイル・アーマーの価格が牛数十頭分だったりするようなところです。

また、国に仕官した後には遠征の度に最低数騎かを率いての従軍が求められます。戦いでは敵の武器防具、馬、荷物などを奪取できますし、捕虜をとることもできます。普通の捕虜は身代金仲介人(中世に実際にいた!)に引き渡して金を稼ぐこともできますし、幸運にも貴族を捕虜にすればひと財産が身代金として手に入ります。

中世の騎士たちの戦いを、身近に愉しむことのできるゲームとして紹介しました。

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騎士の国:スワディア王国(下記wikiより)

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雪原の国:ベージャー王国(同上)

海外のソフトウェアなので販売方法など詳しいことwikiを参照して下さい。
http://www5.atwiki.jp/mountandblade/pages/1.html