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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

斎藤勇「カンタベリ物語 中世人の滑稽・卑俗・懺悔」中央公論社(1984)

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カンタベリ物語―中世人の滑稽・卑俗・悔悛 (中公新書 (749))
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目次
第一章『カンタベリ物語とはどんな作品か』
第二章『カンタベリ物語』「序の歌」をめぐる巡礼たち
第三章『カンタベリ物語』における笑い
第四章『カンタベリ物語』における真面目と冗談
あとがき


 
高校世界史において、中世ヨーロッパの三大文学として、フランスの「ローランの歌」、ドイツの「ニーベルンゲンの歌」に並び立つのは、イギリスの「カンタベリ物語」です。この物語は、偉大な英雄が活躍する叙情詩である前二者と異なって、イングランドの著名な巡礼地であるカンタベリへ向かう巡礼者たちが、旅の慰めに各々自分の知っている話をするというものです。巡礼ですから、上は騎士や高位聖職者、下は農夫や一介の修道士など様々な身分の人々が集まっています。ちなみに、このような形の物語をフレーム・ストーリーといい、古くからの文学作法のひとつです。「千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)やボッカチオの「デカメロン」などはその代表と言っていいでしょう。
 
本書は、カンタベリ物語の著者であるジェフリー・チョーサー(1340頃-1400)その人について、物語に登場する様々な人々の中世における地位や関係、さらに物語全体を覆っている笑いや冗談の意識や、それらの意識と共にあるある種の真面目さ、さらに巡礼や物語における聖と俗の葛藤についてなどがコンパクトにまとめられています。まだ岩波から完訳の「カンタベリ物語」が出版されていない時代に書かれたものですが、完訳版の注を引くだけではわからない物語の全体像が浮き彫りになってくる本です。
 
今回はその中でも、物語の全体を貫いている聖と俗の葛藤について紹介していきます。「巡礼とは宗教的な意図で遠くの聖地を訪れ、そこで超人間的なものの恩恵にあずかろうとする企てである」。したがって、巡礼は元々聖の理論に基づいているわけです。教会も、巡礼を奨励し、罪を償うための行為として認めていました。しかし、巡礼が一般化・日常化すると共に、そういった巡礼の聖の意味は薄れていき、遊びとしての巡礼意識が広がっていきました。長い冬を越えて、春を迎えた人々は、いそいそと巡礼の準備を始めます。解放感に満ちた春の旅には旅の仲間との娯楽がつきものになり、「現代で言えば週末の団体旅行」のようになっていきます。それでも、巡礼は完全に聖の世界から自由になることはありませんでした。「カンタベリ物語」の最後の話は、司祭による七つの大罪と悔い改めについての長い説教でした。巡礼の一同はこの説教を真剣に拝聴するのです。ここには、巡礼における聖の論理が働いているといえます。「カンタベリ物語」を支配している遊びの雰囲気は、現実の世界を中心から支えている聖の要請から遠ざかって、自由を味わおうとする俗の論理から来たものといえます。ここに、中世社会全体における聖と俗の葛藤のひとつの形をみることができるのです。
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