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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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北京旅行記③

2日目・8月22日(金)

☆いざ!故宮博物院へ!

こわい顔をした警備員の脇を通り抜け、天安門をくぐり、故宮に入ります。最初に現れたのは故宮の門、午門です。ここで音声ガイドを借りたのですが…日本語がなんかへんなんですね。中国の方の声だったんですが、そもそも日本語の文法がおかしいところがいくつもありましたが、それはそれでおもしろかったです。自分で操作することはできず、GPS?かなにかで自動で流れるしくみだったのですが、一か所きちんと再生されないところがあって残念でした。故宮で紹介すべきものは多いですが、印象深かった二つのものを選んでみました。

☆やっぱり太和殿

▼太和殿


故宮と言えば、中心は太和殿ですね。有名な映画「ラストエンペラー」で、幼い溥儀が皇帝に即位するシーンの舞台です。奥さんと、娘さんを連れたお父さん一家の写真を撮り、こちらも撮ってもらいました。太和殿の東西にある「日時計」と「度量衡標準器(升)」は、皇帝が暦と量の単位を決定している、つまり時間と空間を支配しているという意味があるそうです。また、日本の「しゃちほこ」のような飾りは想像上の動物たちで、この飾りの数が多いほど、その建物の位が高いことをしめしているんだとか。太和殿が最も多くの飾りをつけています。

▼度量衡標準器と日時計

▼屋根の飾り

☆本当に小さかった!軍機処

▼軍機処の外観と内観

太和殿の先には、さらに似たような建物が続きます。小ぶりの中和殿、奥の保和殿を過ぎた西のあたりにひっそりと建っているのが軍機処です。軍機処は1729年、雍正帝がジュンガル平定の軍事作戦のために設立した軍機房を前身として、以後清の事実上の内閣となり、大きな影響力を振るった組織です。

その建物が、なんとも小さい。平屋で、質素。東に遂になっている建物は土産物屋さんにされてしまっているような建物なんです。この建物が、故宮における皇帝のプライベートゾーン「内廷」と、パブリックゾーン「外廷」の丁度間にあるのは、なんとも具合がいいように感じました。こんな小さな部屋で、清朝の重臣たちは、広大な中国の支配を進めていたわけですね。
☆故宮も街中と変わらない?

故宮内は、天安門広場同様、欧米の団体観光客や、中国のお上りさんであふれていましたが、街中と変わらぬ情景も多かったです。例えば…犬がリードなしで駆け抜けたかと思えば、会談で座ってお喋りに興じている人もたくさんいます。興味深かったのが、フルーツをナイフで皮をむきながら、器用に食べている人が多かったです。しっかり、皮を捨てる用のビニール袋も用意してあります。日本では、あまり外でフルーツをそのまま食べる人は少ないかなあと思います。

一番びっくりしたのは故宮に入ってすぐです。大きなゴミ箱の上で3歳くらいのこどもをぶんぶん縦に振っているお母さんがいました。なにをしているのかとみてみると、こどもは下半身裸で、どうやらトイレのようです。じろじろ見ると悪いので、すぐ目をはなしましたが、なかなか印象深い光景でした。
☆故宮総括

▼故宮の区画を分ける赤い壁
 

故宮の印象は…広いこと!あるけどもあるけども、赤い壁が続いています。正直、最後の方は同じような(といっては失礼ですが)建物が並んでいて飽きてしまう場面も。でも、この大きさと同じ様式の美学が、広大な中国には相応しい気もしました。

あとは、歩いてばかりになるので休みをとりながら、ゆっくりまわるのがいいかと思います。ランチをとっている方もけっこういました。あと、博物院という名だけあって、歴代王朝の遺産が数多く展示されています。これでもかという量の翡翠の器に圧倒されました。ドアの代わりにやわらかいプラスチック製の垂れ幕で、飲食、撮影、お喋りありの博物院は、かなり新鮮です。

おまけ★故宮の緑

▼御花園


故宮の最北に、御花園があります。中国各地から集められた、珍しい形の石や、奇妙な形に曲がった樹木が植えられている庭園ゾーンです。赤い壁の人工的な故宮とは、一味違った風景を楽しむことができます。


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北京旅行記②

2日目・8月22日(金)

☆はじめてのバス

この日は6:00に起床。早起きの理由は裏手にある景山から、故宮をながめるため。景山は故宮の北にあるので、お昼の間は逆行になってしまうそうです。ホテルから歩くこともできますが、せっかくなのでバスに乗ることに。ホテルの近くで景山にもいくバスを発見!しかし…時刻表がない!始発と終バスの時刻しか載っていません。

▼バス停


いつ来るのかとやきもきしていましたが、10分ほどで到着。この後何度かバスに乗って気付いたことですが、どうやら北京市内ではどこでも10分待てばバスに乗れるようです。だから時刻表が必要ないんですね。

▼バスの窓から、ケンタッキー


☆景山公園


景山公園は、小高い丘を中心とした小さな公園です。丘の上には寺社が建っています。頂上からの景色は…まさにポストカードですね。自分が入った写真もやさしそうな女子大生に撮ってもらいました。

▼景山の登り道

▼景山から故宮を眺める


ここで、特筆すべきは朝の景山に響き渡る、おっさん達の「イー!アル!サン!スー!(1,2,3,4)」。みなさん大きな掛け声を出しながら丘を登ったり、体操したり…。どうやら中高年の朝の運動スペースになっているようです。ちなみに、この景山は明朝(
1368~1644)最後の皇帝
崇禎帝が、李自成によって都を追われた後に首を吊った場所です。

▼景山公園頂上で体操をする人々


景山を下りて故宮に向かおうとしたところ、なぞの緑色の植物が売られているのを発見。蓮の実です。中華料理の材料ですが、どうやらこのまま買って皮をとっても食べられるようです。

▼蓮の実、葉は何に使うのだろう


☆天安門

故宮の裏手からバスに乗り、入口である天安門へ。天安門の入り口は非常に混雑。2つしかないボディチェックのゲートに人が押し寄せるんですから当たり前ですね。待っている間、すごい人混みなのに堂々と煙草を吸うおっさん達。分煙になれきった自分には久しぶりの感覚です。そういえば、北京は喫煙者が多かったように思います。

▼ボディチェックゲート
  

ボディチェックを終えると広々とした空間が広がります。右手には天安門。左手には、中国国家博物館、毛主席紀念堂、人民大会堂など国の主要施設が並びます。人民大会堂は、いわゆる中国の国会に相当する「全人代」の議事堂です。「武警」と書かれた軍服のような姿の警備員も多いです。ここから、故宮までは欧米の団体観光客や中国のお上りさんで賑わっていました。

▼天安門広場



故宮からの行程は、次回につづく。

おまけ★北京の衛生事情

北京市内を歩いていると、大通りの歩道から細い路地にいたるまで、清掃スタッフが働いているのに出会います。揃いの制服を来ているので、北京市に雇われているんでしょうか。

街にはかなりゴミが落ちています。喫煙者も多いので煙草のポイ捨ても多いです。でもゴミが山になっているようなところはなく、しっかり掃除もされています。清掃スタッフは、北京の街の汚いようで、汚くないという微妙な状況を作り出しているのです。

▼市内の清掃スタッフ


ちなみに街のゴミ箱の分類は2種類の実。「資源ゴミ(主にペットボトル)」か「資源ゴミでないもの」です。ペットボトルはかさばりますが、ゴミ箱は小さいのですぐに一杯になってしまいそうですが、そうならない理由があります。

自分がゴミを捨てようとした時、前の人がいきなり手を「資源ゴミ」の箱に入れて、ペットボトルを抜き取ると、また次のゴミ箱目指して歩き始めました。おそらく資源ゴミを有料で引き取ってくれるところがあるのだと思います。空のペットボトルを捨てようとゴミ箱を探していたら、大量のペットボトルを持ったおばさんと目が合います。おばさんが無言で手を出してきたので、ペットボトルを回収してもらいました。

中国の格差の一端を見せられたような気がします。


北京旅行記①

2014年夏。北京にいってきました。

Expediaで日本航空の旅券と、現地のホテルを予約して、いざ出発!

1日目・8月21日(木)

☆入国

入国審査、荷物受け取りの後に、まず向かったのは4階の国際線出発場所。ここには中国銀行があり、レートがいいらしいんですね。専門の両替所よりも時間はかかりましたが、無事完了。

よかったこと:角や分などの小額貨幣が手に入りました!あんまり流通していないみたいで、旅行の中ではほとんどお目にかかりませんでした。

☆ホテルへ

空港からは鉄道で地下鉄へ向かいます。北京の車窓からは、霧がかった街並みが。中国版スイカ「一卡通」を購入して、ホテル最寄りの「安定門(アンディンメン)」駅へ!
右も左もわからない、しかも信号ない道を車がびゅんびゅん通っていて、圧倒される。目指すホテルは胡同と呼ばれる細い道にあって、なかなか見つかりません。胡同を歩いていたら、隣駅の大通りまで突っ切ってしまいましたが、そのおかげで自分の位置がはっきりしました。1時間ほどてくてく歩いて、どうにか到着。

▼安定門前

▼信号のない大通り
▼胡同


ホテルスタッフは、笑顔(中国では貴重)で、英語もできたので、チェックイン等は問題なし。こうゆうふうに書くと、さも自分は英語ができるようですが、私のつたない中学生英語を向こうが頑張って理解してくれたと言った方が正しいですね。

四合院を改装してつくられたホテルは、とっても雰囲気がよかったです。安いので、質はそれなりでしたが、男の一人旅なら問題ないレベルです。宿泊客は中国の方が多かったかな。

ホテル:北京城市庭院客棧 Beijing CityCourt Hotel

▼ホテル


☆南羅鼓巷

北京のお洒落スポットとして近年人気が高まっている地域です。ホテルから歩いて10分くらいのところでした。行ったのは夜ですが…大混雑でした。その道だけ、人が溢れている感じです。初北京の自分にとっては、店から流れるライブ音楽や、痰を吐く音、なんでこんな道を通るのかわかりませんが無理やり通る三輪自動車の クラクション、そして人々の話声がまざった喧騒は、面白い体験でした。

おまけ★北京の飲料水事情

中国では水道水が飲めないので、ミネラルウォーターを買うことになります。このミネラルウォーター、値段に随分差があります。例えば、旅行中お世話になった「农夫山泉」というミネラルウォーター。500mlのもので、値段は安い順に、スーパー1元台、コンビニ2元、ホテル3元、自販機や個人商店4元といったところ(1元=約17円)。コンビニのは冷えていて安いので一番よく使いました。これが一番安いもので、エビアンなど外国産の水が10元以上しました。

後日ネットで調べたらいろいろやらかしてる水みたいですが…特に問題は感じませんでした。

▼农夫山泉

また、街中には家庭用の大きい水タンクへの給水機もありました。水道水が飲めるのは、幸せだなと感じました。外国を通して、日本のことを考えさせられるのは、いい経験ですね。


▼給水機

『アポカリプト』(2006、アメリカ)



『アポカリプト』(2006、アメリカ)
原  題:Apocalypto
監  督:メル・ギブソン
上映時間:139分
おすすめ:★☆☆

舞台は16世紀初頭のアメリカ、ユカタン半島。マヤ文明の後期に当たります。主人公たちは村で狩りをして平和に暮らしていました。ところが、あるとき、同じくマヤ文明でも大きな国家を形成していた部族からの襲撃を受けてしまいます。襲撃の目的は、奴隷と生贄の確保でした。主人公は、妻子が待つ故郷へ走る、走る、走る。本編の大部分がジャングルを走り回る半裸の男たちという絵です。歴史物というよりはアクション映画ですね。中南米の文明のエネルギーを感じます。

世界史の観点から見ても面白いシーンはたくさんあります。まずは、生贄を捧げるシーン。主人公たちは「捧げられる」立場なのですが。インカ帝国、アステカ王国など同じ中南米のアメリカ先住民も行っていたであろう、ピラミッドの上で生贄の心臓を生きたまま取り出す儀式です。生贄として祭壇の露と消えていった人々の思いは、想像するしかないですが、戦争捕虜として連れてこられた生贄であればそりゃあ怖かったことでしょう。

また、英語を使わずに全編でマヤ語を使うというこだわりも見せています。マヤ文明は紀元4世紀から14世紀頃にかけて栄えていた中南米の文明です。アステカやインカのように広大な統一国家を築くことはなく、都市国家同士で戦争や同盟を続けていたようです。派手なボディ・ペインティングやじゃらじゃらした服装をした貴族や戦士、ほとんど裸の庶民や奴隷などの対比がよくわかります。服装が派手であればあるほど高い位にいることが示されたのでしょう。

最後に、主人公はスペイン人の来航を目にします。一隻のボートで乗り上げる数人の宣教師と兵士です。このシーンをみると、これまで映画で見てきたほとんどの人が、この後数十年の間に殺戮や伝染病、労役による酷使で死んでいくのだという未来を予感せずにはいられません。タイトルから察せられるように、中南米諸文明の終焉を感じられる映画です。

▼16世紀中南米の諸文明


小説フランス革命〈5〉議会の迷走



シリーズ第四巻では、1790年5月、開明派貴族や国民議会の重鎮が結成した1789年クラブの結成から、7月14日のバスティーユ陥落一周年を挟む、4ヶ月間の議会運営を描いています。

この期間中の大きなできごとは、2つ。バスティーユ陥落、すなわち革命から一周年を記念する連盟際の開催と、聖職者を公務員化する聖職者民事基本(聖職者市民法)の成立です。

連盟際は、パリ市長となったバイイの提案で国民議会が開催を決定した一大セレモニーでした。パリの練兵場シャン・ド・マルスに、フランス全土から馳せ参じた国民衛兵1万4000人を中心に、議員や市民ら10万人が列席したといわれています。国民衛兵とは、革命後の騒乱を納めるためにブルジョワが各地で結成した民兵を、連盟兵として、全国組織にしたものでした。舞台装置は市民のボランティアにより用意され、バスティーユ陥落時と同様の、人民の一体感が演出されました。

練兵場の中央には、大理石に見えるように骨組みと紙でつくられた「祖国の祭壇」が鎮座します。ここで、国民衛兵総司令官となったラ・ファイエットが、立憲王政、自由、平等、友愛を高らかに宣誓したのが連盟際のハイライト。続けて、国王ルイ16世が憲法の順守を宣言したことで、フランス革命は達成されたかに見えました。しかし、ここで革命を終わらせようとする保守派と、さらなる平等を目指して革命を続けようとする革新派の争いは、今後も続いていくことになります。

2つめの重大事、聖職者民事基本法の成立により、司教の数は県の数と同じ83になり、聖職者は公務員化しました。これで、聖職者の特権は廃止されたかに見えましたが、実際にこの法律を適用するに当たっては、聖職者たちの大きな反発を抑え込まねばなりませんでした。

小説フランス革命〈4〉聖者の戦い



佐藤賢一『小説フランス革命〈4〉聖者の戦い』集英社(2011)

シリーズ第四巻では、1789年10月、議会がパリへ移ってから、翌年1790年4月にいたるまでの約半年を描いています。この間、議会では着々と改革が進められていきます。

封建的特権の廃止により、貴族に引導を渡した議会が、次に目をつけたのは聖職者たち第一身分でした。10分の1税は封建的特権の廃止と共になくなっていましたが、さらに踏み込んで教会財産の国有化が可決、聖職者の「公務員化」が進められていきました。聖職者は、信徒のお布施や教会の不動産収入で暮らすのではなく、国家からの俸給で暮らすよう求められたのです。もちろん、聖職者である第一身分代表議員からは大きな反発が起きましたが、多くの貴族が亡命した今、第三身分が大部分を占める議会によって議事は進行していきます。

この国民議会の主力である第三身分代表議員とは、一言で言うならばブルジョワということになります。貴族よりも稼ぎの多い大ブルジョワから、銀行家、弁護士、職人の親方、商店主などの小ブルジョワまで様々ですが、共通しているのは生活には困らないだけの収入がある身分という点です。彼らが最も重視したのは、「自分たち」が議会での発言権を得ることと、国が安定し事業を円滑に進められるという2点でした。

問題となるのは「自分たち」とは、平民全てのことではなく、ブルジョワを指していたという点です。多くの第三身分代表議員の利害は、あくまでブルジョワの利害だったのです。ここに国民議会の状況が明らかになります。少数の自由主義貴族や高位聖職者などの保守派(ラ・ファイエットなど)、民衆の利益を考慮する少数の革新的第三身分代表議員(ロベスピエールなど)、そして大多数のブルジョワ寄り
第三身分代表議員という構図です。

この構図の結果を端的に表しているのは、1789年10月の新選挙法、通称マルク銀貨法です。定められた新しい選挙は、一定以上の納税者にのみ参政権を認める制限選挙でした。これ以上の革命を望まない、言いかえればブルジョワの利益を守りたい議員たちが多数派になった結果でした。そんな中、改革派議員たちはジャコバン・クラブを結成し、ロベスピエールを代表に選出していました。


シャルル・モーリス・ドゥ・タレイラン・ペリゴール
オータン司教、第一身分代表議員
(1754年2月13日 - 1838年5月17日)

小説フランス革命〈3〉バスティーユの陥落



佐藤賢一『小説フランス革命〈3〉バスティーユの陥落』集英社(2011)

シリーズ第三巻は、1789年7月14日、武器を手に入れた市民たちがバスティーユを陥落させた事件から、同年8月の「封建的特権の廃止」「人権宣言」を経て、10月のヴェルサイユ行進の結果、国王と議会がパリへ移動するまでの3カ月弱が描かれています。まさに、フランス革命前半戦のハイライトとなる事件に焦点が当てられています。

本書で印象的だったのが、ヴェルサイユ行進にいたる流れです。バスティーユ陥落後、フランス各地に広まった騒擾は、国王と革命の和解が進み、「封建的特権の廃止」が決議されるに及んで、沈静化しました。しかし、革命の大きな要因のひとつとなったパリの食糧難は、解決されていません。そんな中、ヴェルサイユの国民議会では、革命の成果を早急に明文化しようと「人権宣言」の策定、続いて王の権力制限についての議事が進行していました。

しかし、「人権宣言」で何を謳おうと、また国王が議会へ拒否権を持とうが持つまいが、人々の腹は膨れないのです。民衆は、わかりやすい欲求で動きます。食への欲求、安全への欲求です。パリの民衆は、バスティーユのときは食糧難と、パリへの軍隊駐屯により生命の危機を感じたからこそ立ち上がったのです。いまだに、食への欲求が満たされない中、人々が再度立ち上がるのは時間の問題だったのです。

もうひとつ、わかりにい「封建的特権の廃止」について。これは、「すべての領主は地主になった」と言いかえることができます。廃止されたのは、貴族の免税特権、領民への裁判権、領民へ賦役などの肉体的な労働を強制する権利でした。つまり領民を支配する権利です。残ったもの貴族が今までの領地を、地主として所有し続ける権利でした。金銭的な権利ですね。領民は、今後は地主となった貴族に小作料を納め、土地を地主から買い戻すことで自営農民になる道が開かれたのです。

今回は、パリの革命を指導した国民議会議員以外の人々の肖像画を掲載します。年齢は、1789年当時。


ジャン・ポール・マラー
46歳(1743年5月24日 - 1793年7月13日)

 
ジョルジュ・ジャック・ダントン
30歳(1759年10月26日 - 1794年4月5日)

小説フランス革命〈2〉パリの蜂起



佐藤賢一『小説フランス革命〈2〉パリの蜂起』集英社(2011)

シリーズ第二巻は、1789年6月20日、議場を締め出された国民議会の議員たちが「憲法制定までは解散しない」ことを決議した球戯場の誓いから、同年7月12日、平民財務長官ネッケルの罷免に反発したパリの民衆が蜂起を起こすまでの、約1カ月が描かれています。バスティーユ牢獄の陥落は、この2日後のことです。

前半では議会を巡る攻防が描かれます。三部会を無視した、国民議会の独走は当初、国王によって解散を命じられるところまで至りますが、その後国王の態度は一転し、国王は特権身分への国民議会への合流を促します。かと思えば、国民議会に反発する特権身分に押されるかたちで軍隊を、議会の置かれていたヴェルサイユ、首都パリへと終結させ、武力に物を言わせた圧力を加える。

数週間のうちに起こったこれらのめまぐるしい出来事を、力を持たない議員の視点から描き出すことで、本編は国家とはすなわち暴力の独占体であることを肌で感じさせてくれます。

後半では弁護士デムーランがパリの民衆を焚きつけて蜂起に至るまでを描いています。ここでも、民衆に足りないもの、武器がいかに重要であったかがよく伝わってきます。

また、軍隊と民衆という言葉では見えてこない、両者の微妙な関係も興味深いものがあります。フランス軍の主体はほとんどが第三身分であり、かつ同じフランス人だったという当然の事実です。軍は同胞である彼らに対し、銃を向けることを嫌いました。これに対し、フランス軍の中には金で雇われた外国人兵士も多かったのですが、この状況が革命を経て「国民皆兵」というかたちに変化するというのも面白いところです。

今回も、本書では主役級ではなくとも、歴史上重要であった革命期の登場人物の肖像画を掲載します。年齢は、1789年当時。


ジャン・シルヴァン・バイイ
パリ管区選出第三身分代表議員、国民議会議長

53歳(1736年9月15日 – 1793年11月12日)


エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス
パリ管区選出第三身分代表議員、『第三身分とは何か』の名分で知られる

41歳(1748年5月3日 - 1836年6月20日)


ラ・ファイエット侯爵マリー・ジョゼフ・ポール・イヴ・ロッシュ・ジルベール・デュ・モーティエ
リヨン管区選出第一身分代表議員、アメリカ独立戦争に参戦した自由主義貴族
32歳(1757年9月6日 - 1834年5月20日)

小説フランス革命〈1〉革命のライオン




佐藤賢一『小説フランス革命〈1〉革命のライオン』集英社(2011)

『小説フランス革命』シリーズは、世界史の一大事件であるフランス革命を扱った佐藤賢一さんの長編小説です。文庫版第一巻では。1787年8月、ネッケルがフランス王国の財務長官に復職を果たしてから、1789年6月、全国三部会にて第三身分代表議員が国民議会の成立を宣言するまでのおよそ1年弱を描いています。

本書は、小説のかたちをとりつつも、随所に説明的な文章が織り込んであるため、フランス革命について詳しく知りたいと思う方への入門書になるかと思います。

印象的だった3点について紹介したいと思います。

1点目は、三部会を当時の人々はどう考えていたか、ということです。確認ですが、三部会とはそもそも、国王が貴族や聖職者などの特権身分に課税をしようとしたところ、特権身分から「三部会の承認がなければ課税に応じない」という主張を受けて開かれたものでした。そうして、聖職者、貴族、平民それぞれの代表議員を集めて、三部会が開かれることとなったのです。

民主主義国家に暮らす我々にとって、市民の中から代表者を選ぶというのは至極当然のことです。しかし、18世紀末の当時は、絶対王政の下に貴族や高位聖職者が免税特権を握り、平民は重い税を課せられるも発言権はありませんでした。そんな中、国王が三部会を開くという知らせは、多くの平民にとって「国王が我々平民の声も聞いて下さるんだ!」という期待を持って受け止められたようです。

革命直前のフランスで、小規模な一揆が頻発したのは、飢饉があった時期というものありますが、この「国王は平民の味方なんだ」という感覚に後押しされたものであったのかもしれません。

2点目は、三部会の代表議員の選出についてです。教科書や資料集からはいまいち読み取れない、こまかな制度についても本書で学ぶことができます。もちろん、この時代に普通選挙などはありません。第三身分の代表議員を選ぶ権利があったのは、選挙人と呼ばれる村や町の街区ごとに決められた名士たちでした。金持ちのブルジョワや豪農にしか選挙権はなかったわけですね。ミラボーが選出されたプロヴァンスの中心都市エクスの管区で総投票数が344票でしかないことを考えれば、当時の有権者の少なさが分かります。

しかし、このシステムでも、ブルジョワの利益だけを考えたものが議員になったかと言うとそうではありません。ミラボーの例がその代表でしょう。彼は、プロヴァンスで起きた民衆の騒乱を沈めたことで民衆の英雄になったばかりではく、その被害者になるはずだったブルジョワたちにも恩を売りました。もし、名士たちがミラボーを議員に選出しなければ、また暴動が起こるかもしれない。選挙権なき民衆は選挙人に、「もし自分たちの推薦する者が議員になれなかったら、その時は暴動が起きるかもしれないぞ」という無言の圧力をかけることで、政治に参加していたと言えるかもしれません。

3点目は、三部会における差別についてです。このことについて紹介する前に、三部会が議決方法をめぐって紛糾していたことを確認したいと思います。

問題になったのは、身分別議決法と個人別議決法、どちらを選択するかです。身分別議決は、身分内でひとつの議決を出すため、特権身分への課税は当然のことながら聖職者、貴族が反対するため2対1で否決になってしまいます。個人別議決にすれば、数の多い第三身分代表と特権身分から数名の合流があれば、貴族への課税を可決することができるというわけです。

三部会が議決方法をめぐって紛糾した。それだけ聞くとさも平等な話し合いが平行線をたどったかのように感じられますが、これが大きな勘違いなのです。貴族や高位聖職者は着飾って議場入りしたのに対し、第三身分、つまり平民は「相応しい服」として黒服を指定され、議場への入り口も特権身分とは異なりました。最初から差別されていたのです。

この差別の延長線上で「身分別の」議員資格の確認作業が行われようとしたところ、第三身分がこれに反発したことが決議方法についてのごたごたのはじまりでした。第三身分は、このままではなし崩し的に身分別の投票になってしまうということを恐れたのです。結局、第一身分の聖職者の一部が合流した国民議会の成立宣言まで、貴族と平民はろくに議論を戦わせることもなかったわけです。

この本の一番の魅力である登場人物たちの生き生きとした描写については、ぜひ本書を呼んで確認していただければと思います。

最後に第一巻の主な登場人物の肖像画を掲載します。年齢は1789年当時。


ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・リケティ
エクス・アン・プロヴァンス管区選出第三身分代表議員
41歳(1749年3月9日 - 1791年4月2日)


マクシミリアン・ドゥ・ロベスピエール
アルトワ管区選出第三身分代表議員
31歳(1758年5月6日 - 1794年7月28日)


ジャック・ネッケル
フランス王国財務長官、スイス人実業家
56歳(1732年9月30日 - 1804年4月9日)

 
カミーユ・デムーラン
弁護士、第三身分代表議員に立候補するも落選
29歳(1760年3月2日 - 1794年4月5日)

善悪二元論の系譜-カタリ派

フェルナン・ニール『異端カタリ派』 白水社(1979)

今回のテーマは「カタリ派」です。

カタリ派とは、11~13世紀にヨーロッパ、特にフランス南部に広まったキリスト教の異端です。初めに注意しなければならないのは、この「異端」という言葉。これはあくまで自分たちを「正統」だと考えたローマ・カトリック教会の教えと異なる、という意味です。従って、異端者たちは自分たちこそが真実の教えを守っているのだと信じていたわけです。カタリ派の信者たちは自身のことを、キリスト教徒と称していました。

一説によれば、3世紀に創始されたマニ教が、バルカン半島、北イタリアを経て、南フランスに広まる中でキリスト教的な衣をまとっていったのが、このカタリ派であるといわれています。カタリ派は、別名アルビジョワ派とも呼ばれていました。南フランスのアルビという都市に由来するようですが、確かなことはわかっていません。最終的に、この「異端」の教えは、13世紀、フランス王国を中心に組織されたアルビジョワ十字軍によって徹底的な弾圧を受け、消滅しました。

カタリ派の中心的な教えは、善悪二元論という言葉に要約できます。二元論とは、全てのものが神の創造物であるという一神教の考えではなく、善は神に由来し、悪は神とは別の原理に由来するという考え方です。マニ教、そしてキリスト教や仏教とともにマニ教に影響を与えたゾロアスター教も二元論を信奉していました。二元論の歴史を通して、カタリ派の信仰に迫っていきましょう。

ゾロアスター教は、前7世紀頃(諸説あり)にイランで生まれた宗教です。世界は光明神アフラ=マズダと、それに対立する暗黒、アーリマンの対決の場であると説き、最後の審判によって光明神が勝利するという教えは、教科書の通りです。この考え方はユダヤ教やキリスト教にも継承されています。

では、なぜ古代のイランで、このような宗教が生まれたのでしょうか。それは、人々が自分たちは根本的に間違った世界に住んでいるのではないかと思えるほどに、古代の世界が生きにくいものだったからと言えます。大量殺戮、奴隷制、気まぐれな君主による専制、強制労働、飢饉や天災など、古代の人々の生活には実に多くの困難が存在していました。そのため、神はなぜこんな世界をつくったのか、という疑問は自然に湧いてきます。そこで、この世界について、特に悪の存在理由について説明したゾロアスター教が受け入れられたのです。

マニ教は、ゾロアスター教の善悪二元論を引き継ぎ、世界の創造神話をつくりあげました。それによれば、世界には善と悪の二原理があり、善の神が悪を滅ぼそうとしてさまざまなものを創造したが、それら創造物が悪に取り込まれてしまったことで、人の生きる世界がつくられたというものです。

さて、やっとカタリ派に戻ってきました。カタリ派は、これまでみてきた善悪二元論を教義の中心とし、そのうち善なるものは霊的な存在であり、悪なるものは物質的な存在であると考えました。なぜなら、マニ教の世界創造からわかるように。人が物質として知覚できる世界は悪に取り込まれたことによってつくられたものだからです。

善悪二元論の教えは、必然的に現世の否定、徹底した禁欲主義を信者に義務付けることになりました。現世の否定とは、物質的なものを全て否定するということを意味します。つまり、食事、生殖などの活動を極力抑えるということです。この教えを極限までつきつめるとどうなるか、考えると少し怖いですね。

もちろん、全ての信者にこれらの教えを徹底させることは難しいため、カタリ派には大きく二種類の信者がいました。完徳者(パルフェ)は、黒衣まとったカタリ派の教えの忠実な実践者でした。完全な菜食主義者となり、あらゆる性的関係を断つことで物質を極限まで排し、信者を導く立場になったのです。その他大勢の帰依者(クロワヤン)は出来る限りで禁欲生活に努めました。カトリックに対応するような司教、司祭、助祭などの職階は完徳者が勤めました。完徳者には女性も多く含まれていたというのは、カトリック教会と大きく異なる点でしょう。

最後に、南フランスでカタリ派が拡大した要因を考えてみましょう。大きな要因がふたつあります。ひとつは、13世紀までの南フランスは、フランス王権に組み込まれていない、ひとつの政治地域、もっといえばひとつの文明として独立した立場にあったことです。フランス王権がローマ・カトリック教会と強い絆を持っていた当時においても、南フランスは貴族から平民まで、カタリ派の教えに従う生活を送ることができたのです。

もうひとつの理由は、ローマ・カトリック教会の腐敗です。これは他の異端や教会改革全般に共通することですね。11世紀以来の度重なる教会刷新の動きが示す通り、当時の教会は貴族との繋がりが強く、聖書が求める清貧生活とはかけ離れている状況が多く見られました。一般の信者にとっては、キリスト教にしろ、カタリ派にしろ、教えの細部はわからずとも、肥太った貴族出のカトリック司教や、内縁の妻を持つ田舎司祭に比べ、清貧に生きるカタリ派の完徳者がよき指導者に見えたであろうことは、容易に想像がつきます。

カタリ派を、異端と捉えるのはひとつの考え方ですが、ひとつの宗教としてみると、また違った歴史の一面が見えてくるように思います。