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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

菊池良正「神聖ローマ帝国」講談社(2003)




<目次>

序章―神聖ローマ帝国とは何か
第一章―西ローマ帝国の復活
第二章―オットー大帝の即位
第三章―カノッサの屈辱
第四章―バルバロッサ‐真の世界帝国を夢見て
第五章―フリードリヒ二世‐「諸侯の利益のための協定」
第六章―大空位時代
第七章―金印勅書
大八章―カール五世と幻のハプスブルク帝国
第九章―神聖ローマ帝国の死亡診断書
終章―埋葬許可証が出されるまでの百五十年間

あとがき
聖ローマ帝国関連略年表
参考文献



「神聖ローマ帝国ってなんだ?」世界史を学ぶ高校生が、中世の歴史地図をみて最初に抱く、そして結局教科書では解明されない謎がこれなのではないかと思います。空間的には現在のドイツを中心として、イタリア北部やオーストリア、チェコ、スイス、ベネルクス三国などの一部を含むこの国家は、果たしてどんな存在なのか。何が「神聖」で、どこが「ローマ」なのか。本書は、古代の系譜を継ぐ中世初期からの歴史を概観していくことで、この素朴な疑問に答えてくれます。

今回は、本書から「神聖ローマ帝国」の名前の由来に関わる意外な事実について紹介していきたいと思います。高校世界史の教科書ではよく、962年、オットー大帝(912-973)が神聖ローマ帝国の皇帝に即位、と書かれていますが、厳密にいうと、これは正しくありません。戴冠したとき、オットーはただ「皇帝アウグストゥス」を名乗っただけでした。そこには神聖の字も、ローマの影もありません。当時、ドイツと北イタリアを支配していたオットー大帝とその子孫は、カール大帝の復活させた帝国と帝位を継承したという理念を持っていましたが、大帝所縁のフランスを手中にしていない状態では「ローマ帝国」と名乗るのがはばかられたのでしょか。「ローマ帝国」という文字が公式文書に現れるのは、オットー大帝の属すザクセン朝が断絶したのちに開かれた、ザリエリ朝のコンラート2世(990年? - 1039)の時代をまたなければなりませんでした。ブルグンド王国を継承した彼は、カール大帝の帝国には及ばないものの、ローマ帝国を名乗れるくらいの版図は獲得したのです。

さて、時代は進み1155年、シュタウフェン朝のフリードリヒ1世が皇帝に即位します。彼の時代、カノッサの屈辱以降続いていた教皇と皇帝のパワーバランスが変化します。イタリア遠征を繰り返し、ドイツ国内でも諸侯を抑えつけることに成功した彼は、「帝国は教皇の封土」とまでうそぶくローマ教皇ハドリアヌス4世の高慢な態度を許しませんでした。フリードリヒ1世は、新約聖書のルカ伝にある「二振りの剣」を、神から発した教剣と政剣のふたつであるという解釈を用い、前者を持つ教皇と後者を委ねられた皇帝との地位の同等性を主張しました。帝国は、教皇により聖別される必要はない、「帝国は神に直接、聖別されているのである!」(本書p96)。このことを示すべく、1157年のイタリア遠征のための諸侯への召集状には「神聖帝国」という国号が記されました。しかし、世界帝国を目指したフリードリヒ1世の時代には、この「神聖帝国」と「ローマ帝国」が「神聖ローマ帝国」となるにはいたりませんでした。

皮肉なことに「神聖ローマ帝国」という文字は、その名前を求めて奮闘した皇帝たちを輩出した、中世前期ドイツの華であるザクセン、ザリエリ、シュタウフェンの三王朝期には登場せず、大空位時代に初めて使われ始めます。大空位時代の間は戴冠を受ける皇帝が存在せず、多くの者が分裂する諸侯に擁立され、対立王として名をあげていたために、正当な王位なるものが継承されていませんでした。対立王の一人ホラント伯は王の権威もなにもあったものではない現実に不満を覚え、帝国の理念だけでもつくりあげようとしました。「外見が壮大になればやがて実態もついてくるものだ!」(同p131)。そして、彼は1254年の公式文書に史上初めての「神聖ローマ帝国」という国号を用いたのです。対立王もこれを使用するようになり、定着化したこの国号はkなき帝国の正式名称となっていったのです。

本書は、「神聖ローマ帝国」の名前の由来以外にも、理念と現実の間で奮闘した歴代皇帝たちを概観し、さらに帝国が30年戦争後のウェストファリア条約によって事実上解体し、最終的にナポレオンに敗北して名実ともに消滅するまでを簡潔に描いています。中世ドイツの全体像を、軽くではありますが、理解するのに最適な本だと思います。

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