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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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両シチリア王国は11世紀、ノルマン人冒険者のひとりタンクレードの息子、ルッジェーロが南イタリアの一部とシチリア島を平定して築き上げた強力な伯領が起源です。今回は、ノルマン人が進入してくる以前の南イタリアの情勢について紹介したいと思います。
ローマ帝国滅亡後の5世紀末、東ゴート族がイタリア半島を支配した後、東の帝国はユスティニアヌス帝のもと国土の再征服(6世紀初期)に乗り出しました。しかし、イタリアを回復したのも束の間、今度はランゴバルド族の侵攻に遭い、東帝国は長靴型の半島のわずか爪先と踵の部分、すなわちアプーリア地方とカラブリア地方にのみ影響力を持ち、半島中部カンパニア地方に点在するナポリ、アマルフィ、ガエータの都市とそれらに付随する若干の周辺領域に対しては名目上の宗主権を持つのみになってしまいました。その他の南イタリアは、568年にランゴバルド王国が成立したのと同時期に興ったスポレート、ベネヴェントのランゴバルド系両候国が占めていましたが、その後スポレート候国が王国に吸収され、ベネヴェント候国が分裂した結果、ベネヴェント、カープア、サレルノの町を中心にした三つの候国いずれかの支配下に組み込まれていきます。
また、シチリア島はイスラム教の発生以来西進を続けていたムスリムの将軍たちが支配していました。このように、当時の南イタリアにはラテン・カトリック文化、ギリシャ(ビザンツ)・オーソドックス(東方教会)文化、アラブ・イスラム文化という地中海を取り巻く三つの大きな文化圏が互いにせめぎあっていました。そして、諸侯国や帝国領、各都市はこの地の覇権争いに勝てるような強力な軍隊を必要としていたのです。南イタリアのこのような情勢が傭兵としてのノルマン人を呼び寄せたのです。
▼南イタリアの主要都市と地方名