忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

もっとも使徒的に-聖フランチェスコ②

3631fbfc.jpeg
▲小鳥に説教をする聖フランチェスコ(ジョット/聖フランチェスコ大聖堂壁画)

フランチェスコの仲間たちはは「小さき兄弟の修道会」と自称し、仮認可からホノリウス3世による正式認可までの10年足らずで、数千人にまで及んだとされるほどにまで信奉者を増やしていきました。ポルツェウンコラに専用の聖堂を得た「小さき兄弟の修道会」は、ここを拠点としてイタリアを中心にヨーロッパ各地に伝道者が派遣されました。フランチェスコ自身も、本拠に留まるのではなく盛んな伝道の先頭をゆき、なんと聖地のイスラム教徒を改宗させようと自ら聖地へ向かう船に乗り込みました。そして、嵐のために聖地へはたどり着けなかったものの、エジプトのダミエッタでスルタンとの会見するという荒業をやってのけたのです。しかし、フランチェスコが知らぬ間に、組織は彼の「小さき兄弟の修道会」は肥大化し、分裂の兆しをみせていました。

フランチェスコの言行を一語一句厳守し、完全に托鉢のみによって生きるべきとする厳格派と、巨大化した組織をまとめるために、ある程度の指揮系統や財産が必要と考える穏健派との間で対立が起きたのです。1221年、フランチェスコは修道会のために23条からなる新会則(1221年会則)を起草しますが、修道会設立時の初志に立ち返ることを目的としたこの新会則は教皇の介入により、枢機卿ウゴリーノ(後の教皇グレゴリウス9世)の手で大幅な改編を加えられ、1224年の総会で正式の会則(1224年会則)とされました。1221年会則には新約聖書からの引用がおよそ100節ありましたが、修正された1224年会則にはわずか5節しかありませんでした。福音に忠実に生きるという、フランチェスコの意思は会則に生かされきれませんでした。

そして、この年の総会以降、フランチェスコは穏健派のエリアを総長代理とし後任を任せ、自らは数名の弟子と共にアルヴェルナ山に入り、静かな祈りと瞑想の生活を送ります。このアルヴェルナ山での生活で、彼の生涯最大の奇跡が起こります。1224年9月14日、祈りの中で朝を迎えたフランチェスコのものに6人の天使と光り輝く十字架舞い降ります。この幻が消えた後、フランチェスコの両手両足とわき腹にイエスのものと同じ聖痕が刻まれたのです。また、神の全ての被造物を愛したフランチェスコは、動物の言葉を解するようになり、トリやウサギ、ロバやオオカミとも心を通わせたという伝説が残っています。さて、病の篤くなったフランチェスコは担架で生まれ故郷のアッシジに、次いでポルツェウンコラの聖堂に運び込まれ、その地で44歳の生涯を終えます。死期を感じたフランチェスコは修道会へ向けての遺言状を書き取せました。しかし、この遺言状は1230年、教皇庁によって法的権威を持たないと宣言されます。

フランチェスコは死後2年目の1228年、教皇グレゴリウス9世によって列聖されます。そして、この年から、正統カトリック信仰の新たなシンボルを探していた教皇庁と修道会によってアッシジの町に聖フランチェスコの名を冠した大聖堂の建設が始まりました。絶対的な清貧を旨としたフランチェスコの教えを守る厳格派は聖堂建設に反対しましたが、フランチェスコの「聖なる教会に逆らってはならない」という言葉のために、抵抗することはできませんでした。1239年、創設者が生きていたら絶対に認められなかったであろう大聖堂はおよそ10年という異例の速さで完成します。イタリア・ゴシックを代表する建築となったこの聖堂には、ジョットなどの画家によって聖フランチェスコの生涯が壁画として残されました。

修道会は、1212年にキアラによって始められた第二修道会、1221年からある在俗信徒のための大三修道会を合わせ発展を続け、聖フランチェスコ大聖堂完成の前年にはドミニコ会と並んで異端審問も担うようになります。14世紀初頭には所属修道院数が1400にも達します。そして1323年には、修道会内で長く続いた厳格派と穏健派の争いに終止符が打たれます。教皇ヨハネス22世によって厳格派の教えは誤りとされ、考えを変えないものは異端として断罪したのです。こうして、フランチェスコの教えに最も忠実であった人々は、異端者として火刑に処され、修道会から追放されました。

PR