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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

シトーの改革-働く修道士

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▲クレルヴォーのベルナルドゥス

1098年、ブルゴーニュはディジョンの森にモレームのロベルトゥス(1027頃~1110)を長として、彼と21名の同志によりシトー修道院が創設されました。シトー修道院は、肥大化によって修道制初期の理念を見失っていたクリュニー修道会に代わって、清貧や服従の誓いを新たにするべく西ヨーロッパ修道制全体に改革の影響を及ぼしていくことになります。この修道会も、クリュニーと同じく教皇直属となり、ベネディクト戒律を採用していました。

シトー修道院では第二代修道院長アルベリクスの時代に、修道士の服装が規定されます。彼らはさらしていない白い修道衣を黒の袖無し肩衣の下に着用していたので「白衣の修道士」と呼ばれるようになります。黒の服を着ていたクリュニー修道会士が「黒衣の修道士」と言われたのと対照的です。

1106年にシトー修道会が正式に認可された後、1115年までにはラ・フェルテ、ポンティニー、クレルヴォー、モリモンと、四つの修道院が新たに創設されました。これらの新設修道院はクリュニー修道院が母修道院と呼ばれるのに対して父修道院と呼ばれるようになります。それ以後にも増え続けるシトー系の修道院は、これら母修道院と父修道院からなる5つの主要修道院から生まれていくことになります。1129年にはイングランドに最初のシトー会修道院が建立され、中世の終わりまでにはヨーロッパ全域に750弱のシトー会修道院があったようです。

これらの修道院を結び付けていたのは、第三代院長ステファヌス・ハルディング(1059頃~1134)が起草に関わった「愛の憲章」(カルタ・カリタィーティス)と呼ばれる30ヶ条からなる文書でした。愛の、という名前からも想像が付きますが、クリュニー修道会と違ってシトー修道会の結びつきは民主的で、各修道院は本院の支配下にあるわけではなく、修道院長を決めるのは各々の修道院内での選挙でした。もちろん、シトー会同士の連携がないわけではもちろんなく、例えば父修道院の院長は各々の娘修道院やシトー本院への巡察義務がありましたし、年に一回シトー会の全修道院長が集う大会も開かれていました。

シトー修道会の特徴は、クリュニーと比較していくとよくわかります。まず、彼らは10分の1税(聖職者が領民に課す税)の徴収をせず、隷属民もかかえないで、自分たちの手で生産活動を行うことで経済的自立を成し遂げました。修道士は修道院に居住しなければならなかったため、遠隔地の生産拠点には助修士と呼ばれる、修道士の待遇でも髪を剃らない俗人身分の者たちにまかせていました。「祈り、働く」シトー会士でも本業はあくまで祈ることでした。また、富が流れ込んで肥大化したクリュニーを反面教師として、住居や食事など日々の生活を質素なものとして、典礼でさえ必要以上の豪華さを控えようと努めていました。主に森林地帯で行われた彼らの組織的生産活動は、中世盛期を特徴付ける大開墾運動を牽引していきました。

シトー修道会の名を一躍高めたのは、四つある父修道院のひとつ、クレルヴォー修道院を創設し、そこの初代院長となった聖ベルナルドゥスです。彼は第二回十字軍への参加を呼びかけた人物としても有名です。また、彼は持ち前の演説力を生かして、クリュニー修道会に挑戦状を叩きつけました。これが後に、クリュニー・シトー論争と呼ばれるものです。シトー会はクリュニー修道会の退廃振りを、特にその巨万の富と贅沢を批判しました。彼の名声は、彼自身の聖性を高めるのみならず、シトー修道会全体の勢いをも向上させました。

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