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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

聖ドミニコ-托鉢修道会というかたち

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▲ドミニコの持つ書物は異端者が火に投げ入れても、三度宙に舞い上がり焼けなかったという奇跡を描いた絵

11世紀から12世紀にかけて、ヨーロッパ各地では教皇庁に異端視される民衆運動が活発化していきます。これは、11世紀から始まる教会組織の刷新運動、クリュニー、シトーを初めとする修道院運動の広範な展開がきっかけとなり、民衆の中にも使徒的生活の実践を志す機運が生まれたためでした。使徒的生活とは、キリストの福音を広め、聖書に記された使徒たちのように清貧を貫く共住生活を送るというもので、本来は修道院の理想と同じものであるので正統信仰と相容れないようなものではありません。しかし、教会の教義を充分に理解していなかった民衆による使徒的生活の実践は、素朴で単純なものであり、聖書の言行を字句通りに解釈したようなものでした。そのため解釈と論争、妥協を重ねた正統教義とは異なったものとなり、時として教会組織と対立するものとなってしまったのです。

このような動きに対し、まず行動を起こしたのはシトー修道会の人々でした。彼らは、修道院の中で沈黙と祈りの時を過ごすという従来の伝統から、民衆の中に自ら飛び込んで人々を教化するという修道士の新しい展開を示しました。しかし、清貧を旨とはしていても従来型の修道院であったシトー会だけでは、広がる民衆の異端的運動を押さえ込むことは困難でした。時代は、新たなかたちの修道会を欲していました。

そんな折、教皇インノケンティウス3世は、北欧での説教から帰還しローマを訪れていたスペイン人聖職者に、カタリ派の根拠地南フランスでの伝道を薦めます。教皇の推薦を受け、それまで教皇特使たちに委ねられていたカタリ派撲滅の任を授かったのは、オスマの司教ディエゴ、そして聖堂参事会員ドミニクス・デ・グスマンらでした。彼らは、それまでのやり方とはまったく違った異端撲滅活動をすることで、南フランスの民衆を正統信仰に引き戻そうしました。それまで教皇特使や派遣された修道士たちは、壇上の高みから教会の権威と圧力を武器に、民衆に説教を垂れていました。しかし、ドミニコたちは使徒的生活を実践すること、つまり金銀や高価な衣装を捨てて清貧を実践することで、異端者の持つ厳格、質素という武器を自らの中に取り込み、かつ異端者と直接論戦を繰り広げるという、新しい試みをしました。

1206年にはプルーィユに宿舎を建設し、異端から改宗した女性たちの住処としました。この建物は、後に聖母女子修道院と呼ばれるようになります。翌年、司教ディエゴが亡くなった後もドミニコは精力的に活動を続け、1214年にはトゥールーズ司教から複数の教会堂を預けられ、地域の教化に勤めました。このような活動が実り、1216年、新たに教皇に選出されていたホノリウス3世の勅令により、ドミニコのその仲間たちは説教者修道会として正式に認められます、いわゆる托鉢修道会の誕生です。

教会からの認可をきっかけに、ドミニコの仲間たちはパリ、マドリード、ローマへと散っていきます。ローマへ向かったドミニコは、次いでボローニャへと渡ります。最初期の大学を抱えるパリとボローニャにドミニコ会の拠点が置かれたことは、後にドミニコ会が労働に代わり学問に大きなウェイトを置くことに繋がっていきます。ドミニコ会は、後にアルベルトゥスや、その弟子トマス・アクィナスなどの著名な教会神学者を輩出することになるのです。1220年には最初の総会がボローニャ開かれ、ドミニコ会の枠組みが形作られました。この総会には出席したもののドミニコは病を患っており、翌年、ボローニャ大学に埋葬されます。ドミニコ会はその後急速に発展を遂げ、ドミニコ没時の所属修道会は20ほどでしたが、彼が教会によって列聖された1234年にはおよそ100に、13世紀末には550以上に上りました。


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