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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

善悪二元論の系譜-カタリ派

フェルナン・ニール『異端カタリ派』 白水社(1979)

今回のテーマは「カタリ派」です。

カタリ派とは、11~13世紀にヨーロッパ、特にフランス南部に広まったキリスト教の異端です。初めに注意しなければならないのは、この「異端」という言葉。これはあくまで自分たちを「正統」だと考えたローマ・カトリック教会の教えと異なる、という意味です。従って、異端者たちは自分たちこそが真実の教えを守っているのだと信じていたわけです。カタリ派の信者たちは自身のことを、キリスト教徒と称していました。

一説によれば、3世紀に創始されたマニ教が、バルカン半島、北イタリアを経て、南フランスに広まる中でキリスト教的な衣をまとっていったのが、このカタリ派であるといわれています。カタリ派は、別名アルビジョワ派とも呼ばれていました。南フランスのアルビという都市に由来するようですが、確かなことはわかっていません。最終的に、この「異端」の教えは、13世紀、フランス王国を中心に組織されたアルビジョワ十字軍によって徹底的な弾圧を受け、消滅しました。

カタリ派の中心的な教えは、善悪二元論という言葉に要約できます。二元論とは、全てのものが神の創造物であるという一神教の考えではなく、善は神に由来し、悪は神とは別の原理に由来するという考え方です。マニ教、そしてキリスト教や仏教とともにマニ教に影響を与えたゾロアスター教も二元論を信奉していました。二元論の歴史を通して、カタリ派の信仰に迫っていきましょう。

ゾロアスター教は、前7世紀頃(諸説あり)にイランで生まれた宗教です。世界は光明神アフラ=マズダと、それに対立する暗黒、アーリマンの対決の場であると説き、最後の審判によって光明神が勝利するという教えは、教科書の通りです。この考え方はユダヤ教やキリスト教にも継承されています。

では、なぜ古代のイランで、このような宗教が生まれたのでしょうか。それは、人々が自分たちは根本的に間違った世界に住んでいるのではないかと思えるほどに、古代の世界が生きにくいものだったからと言えます。大量殺戮、奴隷制、気まぐれな君主による専制、強制労働、飢饉や天災など、古代の人々の生活には実に多くの困難が存在していました。そのため、神はなぜこんな世界をつくったのか、という疑問は自然に湧いてきます。そこで、この世界について、特に悪の存在理由について説明したゾロアスター教が受け入れられたのです。

マニ教は、ゾロアスター教の善悪二元論を引き継ぎ、世界の創造神話をつくりあげました。それによれば、世界には善と悪の二原理があり、善の神が悪を滅ぼそうとしてさまざまなものを創造したが、それら創造物が悪に取り込まれてしまったことで、人の生きる世界がつくられたというものです。

さて、やっとカタリ派に戻ってきました。カタリ派は、これまでみてきた善悪二元論を教義の中心とし、そのうち善なるものは霊的な存在であり、悪なるものは物質的な存在であると考えました。なぜなら、マニ教の世界創造からわかるように。人が物質として知覚できる世界は悪に取り込まれたことによってつくられたものだからです。

善悪二元論の教えは、必然的に現世の否定、徹底した禁欲主義を信者に義務付けることになりました。現世の否定とは、物質的なものを全て否定するということを意味します。つまり、食事、生殖などの活動を極力抑えるということです。この教えを極限までつきつめるとどうなるか、考えると少し怖いですね。

もちろん、全ての信者にこれらの教えを徹底させることは難しいため、カタリ派には大きく二種類の信者がいました。完徳者(パルフェ)は、黒衣まとったカタリ派の教えの忠実な実践者でした。完全な菜食主義者となり、あらゆる性的関係を断つことで物質を極限まで排し、信者を導く立場になったのです。その他大勢の帰依者(クロワヤン)は出来る限りで禁欲生活に努めました。カトリックに対応するような司教、司祭、助祭などの職階は完徳者が勤めました。完徳者には女性も多く含まれていたというのは、カトリック教会と大きく異なる点でしょう。

最後に、南フランスでカタリ派が拡大した要因を考えてみましょう。大きな要因がふたつあります。ひとつは、13世紀までの南フランスは、フランス王権に組み込まれていない、ひとつの政治地域、もっといえばひとつの文明として独立した立場にあったことです。フランス王権がローマ・カトリック教会と強い絆を持っていた当時においても、南フランスは貴族から平民まで、カタリ派の教えに従う生活を送ることができたのです。

もうひとつの理由は、ローマ・カトリック教会の腐敗です。これは他の異端や教会改革全般に共通することですね。11世紀以来の度重なる教会刷新の動きが示す通り、当時の教会は貴族との繋がりが強く、聖書が求める清貧生活とはかけ離れている状況が多く見られました。一般の信者にとっては、キリスト教にしろ、カタリ派にしろ、教えの細部はわからずとも、肥太った貴族出のカトリック司教や、内縁の妻を持つ田舎司祭に比べ、清貧に生きるカタリ派の完徳者がよき指導者に見えたであろうことは、容易に想像がつきます。

カタリ派を、異端と捉えるのはひとつの考え方ですが、ひとつの宗教としてみると、また違った歴史の一面が見えてくるように思います。
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