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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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試験が終わりました。もう忘れることにします。さて、今回はピピンによってカロリング朝が開かれる流れを追っていきます。
<ピピン3世>
741年、カール・マルテルが死去した後には彼の息子カールマンとピピン3世が王国を分割統治していました。747年にカールマンが修道院へ隠居すると、ピピンは王国最高の権力者となりました。
そしてついに、ピピンは王権交替にむけて活動を始めます。ソワソンでの諸侯会議に先駆けて、ピピンは教皇ザカリアスに王朝交替への同意を求めました。ランゴバルドなど外敵の存在を気にかけており、西ヨーロッパに同盟政権を求めていた教皇はこれに応じました。これにより、ピピン一族の権力は宗教的な支援のもと権威へと昇華したのです。751年、諸侯会議でピピン3世は、メロヴィング朝最後の王シルデリック3世を廃位し、カロリング朝を打ち立てました。