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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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ミレスから騎士へ-騎士身分の誕生と変遷

騎士の前身となったのは、ラテン語でミレスと呼ばれた人々でした。彼らはフランク時代に有力者に仕える職業戦士としてその身分を形成していきました。初期においては必ずしも騎乗していなかったミレスは、戦場での歩兵と軽装騎兵が果たす役割が小さくなるにつれ、重装騎兵としての装備を身に着けるようになり、兜、鎧、剣の他に軍馬と騎槍(ランス)が彼らの基本装備となっていきます。騎士と馬との関連性はフランス語のシュヴァリエ(chevalier)が馬(cheval)を、ドイツ語のリッター(ritter)が騎乗(ritt)を語源としていることからもわかります。ちなみに英語のナイト(knght)は主従関係から来た下僕(cniht)という語を語源としています。

当初、彼らは農民と大差ない広さの土地の所有者でしたが、装備一式を自前で用意するためにより多くの土地が与えられるようになります。時代の流れとしては、貸し出された(という名目であった)土地は大は伯領から小は村まで世襲される傾向にありました。そうして彼ら下層の職業戦士は小領主として封建制の末端に組み込まれていきます。彼らのような、自身に仕える封臣を持たない小領主や、有力者の家に住み着いて彼らの手足となって働いた家中騎士たちが狭義の騎士です。ドイツにおける家中騎士は特に家士(ミニステリアーレス)と呼ばれ、領主たちの役人として力をつけていきました。また、彼らの中には皇帝直属のミニステリアーレスになることで封土を受け、諸侯と変わらぬほどの権力を持つに至るものまでいました。

戦士たちを統制しようとした教会の騎士に対するキリストの戦士化や、南仏などを中心に騎士的宮廷文化が築かれていくことなどの相互作用として、騎士は素朴な戦士集団から、崇高な理想を掲げた階級へと変化していきます。そして13世紀までには、一般に想像されがちなイメージ、すなわち「貴族すなわち騎士である」という騎士制度とも言えるものが確立します。1184年、マインツで行われた聖霊降臨祭の際、皇帝フリードリヒ・バルバロッサの二人の息子が騎士に叙されたことは、騎士身分が下層戦士から王侯貴族まで広がったことを示すよい例です。広義の騎士は彼らのような全ての貴族と、彼らに仕える家中騎士で構成されています。しだいに、騎士になるための教育、訓練、そして騎士叙任などが一連の流れに乗っ取って行われるようになっていきました。騎士志願者は、親族や有力者の下で小姓として働き、戦時には主君の従士となり、時が来れば儀式化された叙任式を迎えて、晴れて騎士となったのでした。

つまり中世の騎士と一口にいっても、その姿は時代やその騎士自身の境遇によって大きく違うものだったのです。圧倒的多数の騎士は、小さな領地をもつ(あるいはまったく領地をもたない)貧しい人々で、大所領を持ち封臣を幾人も従えているような騎士(貴族)はごくわずかでした。彼らはまさに、中世の軍事制度、社会制度の変化の中で生まれ、変容を遂げていったのです。

▼共に14世紀、フランスで描かれた騎士

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