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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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中世の都市人口

中世の都市は基本的に壁で囲われていましたので、できるだけ壁の建造コストを抑えるために市域は狭いのが常でした。そんな状況でしたので、一部の大都市を除き中世都市の人口はほとんどが数千人規模の小さい者でした。普通、人口1万人以上の都市を大都市、2000~1万人のを中都市、500~2000人のを小都市と分類します。注意しなければならないのは現在知られている中世都市の人口は、都市の徴税・軍役のための各種台帳や食料消費量などから逆算した、おおよその数であるということです。では各地域の都市人口を見ていくことにしましょう。



イタリアには13世紀、人口2万を越す都市が20以上あり、一大都市圏を形成していました。研究者や国によってかなり数字にばらつきがあるようなので、ここで示す数字は大体の人口です。中世後期の海上交易の中心、ジェノヴァとヴェネツィアがそれぞれ10万程度でイタリア、というより全ヨーロッパの中でも指折りの大都市でした。ミラノとフィレンツェもこれとほぼ同数でした。学芸で栄えたパドヴァとボローニャはそれぞれ3万人と4万人。ルッカ、ピサ、シエナなどの都市では人口はおよそ2万人でした。南イタリアに目を向けるとナポリは5万、両シチリア王国の中心地だったシチリアのパレルモは人口4万を越えていました。永遠の都ローマはどうだったかといいますと、過去の栄光は影を潜め少なく見積もると人口は2万に満たなかったようです。

ドイツにおける最大都市はケルンでその人口は最盛期には4万人にも及びました。14世紀のドイツにはフランクフルト、ミュンヘン(共に一万)などの大きな都市もありましたが、これらのように人口一万人以上を抱える都市は、15ほどしかありませんでした。人口が2千~1万の都市は約25で、あとの100を越える都市は、人口が千人から2千人の小都市でした。そしてもっと小さい都市も存在したのです。フランスやイギリスでもその状況にほとんど変わりはありませんでした。

北フランスには200ほどの都市がありましたが、そのほとんどは中小都市で大都市は10を数えるに過ぎませんでした。例えば14世紀アミアンの人口は3万、ランスは1万4千ほどでした。フランス王国の首都にして最大の都市であるパリの人口は、20万を超えるという説もありますが、周囲の都市との人口があまりにも違いすぎることからもわかるように、この数字は誤りで人口は8万ほどであったとする考えもあるようです。

北フランスやドイツに隣接するフランドル地方も、北イタリアと同じく一大都市圏を成していました。ヘントには5万人、ブルッヘには4万人、ブリュッセルは3万でアントウェルペンには2万人が住んでいました。ロンドンの人口は4万人ほどでしたが、他のイングランドの都市はほとんどが中小都市だったようです。



このように中世都市の人口は、かなり地域差の激しいものだったことがわかります。また、数えるほどの有名な大都市は中世都市のほんの一部に過ぎず、中世都市文化を形成したのはこれらの大都市の影響もさることながら、大多数の中小都市のネットワークにあるのかもしれません。…って何かの本にあったような(爆)。どちらにしろ、都市に住んでいたのは人口の1割(後期にはもっと増えることもあったようですが)に過ぎず、いまだ人口の大多数は農村に居住していたという事実も忘れてはいけません。
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