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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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Ⅲ-シチリア伯ルッジェーロ1世

今回はロベルト・ギスカルドの公国から視点をずらし、タンクレードの末っ子ルッジェーロがシチリア伯となるまでの経過を追っていきます。ルッジェーロは他の兄たちを追って南イタリアへ向かい、六つ上の兄でアプーリア公だったロベルト・ギスカルドに仕えます。1058年、紆余曲折の後に彼はカラブリアの村ミレートを獲得します。その後、ルッジェーロの視線は西にある目と鼻の先の島、シチリアへと注がれることになります。

当時シチリア島はイスラム教徒の支配下にありましたが、一枚岩ではなく3人の将軍がそれぞれの領土を治めている状態にありました。それまで均衡を保っていたシチリアのパワーバランスが崩れ、将軍の1人がルッジェーロに支援を求めて来たとき、ルッジェーロのシチリア島征服が始まりました。彼は兄の本土での戦争に協力しつつ島での領土を拡大していき、1072年には最大の主要都市パレルモを陥落させます。このとき、ルッジェーロは兄ロベルト・ギスカルドからアプーリア公を宗主としたシチリア伯の称号を受けます。シチリア伯ルッジェーロ2世の誕生です。その後も征服活動は続き、1091年までに彼の伯領はシチリア全土を支配下に組み込むことに成功しました。

アプーリア公ロベルト・ギスカルドが遠征中に死亡すると、跡を継いだ息子がいたにも関わらず、ルッジェーロはほとんど独立した君主のように振舞いました。アプーリアの新しい主となったロベルトの息子ルッジェーロ・ボルサは、異母兄との対立や諸侯の相次ぐ反乱の中で勢力を急速に衰えさせており、ロベルトの建設した公国は小領主や都市の単位にまで分裂してしまいました。彼は叔父であり臣下(であるはず)のシチリア伯ルッジェーロに、公位の踏襲を認め、援軍を送ってもらうためにカラブリアの大部分を割譲しなければなりませんでした。こうして、ルッジェーロはシチリアとカラブリアを支配する南イタリア最強の国家となったのです。
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