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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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国家の役人へ

【中央】

初期の中央行政組織が王の私的な役人団だったのに対し、ヘンリー1世(1100 - 1135)の時代には宮内府の管轄とは別の組織が作られていき、しだいにこの組織が統治を中心的に担う存在となっていきます。王の家政役人に代わる国家の役人の台頭は、イングランドの支配が国王による恣意的なものから、定められた制度的なものへと変わっていったことを意味します。

この新しい組織を統括したのは「チーフ・ジャスティシア」でした。直訳すれば最高司法官ですが、意訳では行政長官とでも言うべき存在です。ノルマン朝が開かれた当初から大陸と島とに領土が二分されていたイングランドでは、王の不在が多く、その間でもしっかりと統治が行われるように王の代理人を置く必要があったのです。

また、新組織の中核となったのは財務府「エクスチェカ」です。もちろん財政業務を担っていましたが、その本業はむしろ最高司法官の下で在地行政を行うことでした。初期のエクスチェカは常任の定まった人員を持つ組織ではありませんでした。王国の主要人物かその代理人による集会で年に2回開かれる王国役人たちの会計審査が行われましたが、その集まりこそが初期のエクスチェカでした。

最後に新組織の第三の要素として裁判組織が挙げられます。任命された常任の裁判官たちは大陸と島それぞれに複数名派遣され、その地で裁判・行政業務に携わりました。またウィリアム征服王(1066 - 1087)時代からあった巡回裁判は、それまでは王の信頼する家臣が裁判官を勤めていたものを、前述の常任裁判官の中から選ぶこととしました。裁判官は王領地を査察・監督し、領民からの訴えを王の裁判権の下で裁き、それに伴う罰金などの裁判収入をもたらしました。

【地方】

フランク王国の伯がもとは地方長官であったのが世襲化し、諸侯身分を形成していったのと同じように、イングランドのシェリフたちも放っておけば地方豪族化する危険がありました。イングランドの歴代の王たちはこのような傾向をどうにか防ごうとします。

ノルマン朝を開いたウィリアム征服王にはシェリフの独立を防ごうとする思惑は無かったと思いますが、結果的にシェリフの世襲を一度完全に廃しました。1071年までにシェリフの大部分が征服王が率いてきたノルマン人に取って代わられたからです。

しかし、このノルマン人シェリフはしだいに豪族化し、その特権を以って私腹を肥やすようになります。父の後を継いだヘンリー1世はこれに対し、州長官の権力を小さくする政策を採ります。具体的にはシェリフの裁判権を縮小し、代わりに州の中小貴族層による地方裁判所を設置しました。

ヘンリー1世の没後、王の甥スティーヴンの時代にイングランドは内乱に突入します。その後、ヘンリー1世の孫であるヘンリー2世(1154 ‐ 1189)が即位したときには、内乱に乗じて世襲化に成功した多くのシェリフがいたのです。ヘンリー2世は巡回裁判所を以って州長官職から貴族を排し、後継として王の役人を送り込んだのです。
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