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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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王、諸侯・城主・領主-貴族間の相互関係

これまで「封建制」や「裁判領主制」などの記事で中世の支配体制について紹介してきましたが、それらを総括して全体的に眺めてみると、中世社会はどのようなものであったのか。それを探っていきたいと思います。

世界史の教科書には、中世のヨーロッパ世界と称してフランス、イングランド、神聖ローマ帝国と色分けされた地図が載っています。初めて中世史について学ぶ人でなければ、この地図は内情を何も表していないことがわかるはずです。今のような独立主権国家としての国境線が引かれたのは絶対王政によって国王が一円的に王国を支配するようになってからのことです。それ以前の中世のヨーロッパは無数の諸侯が跋扈するアナーキーな状況にあったわけです。

さて、今度は中世史の入門書を見てみます。今度はカペー朝の支配領域が小さく示されて、周囲にシャンパーニュだのアンジューだのの伯領が幅を利かせているのがわかります。しかし、中世社会についてより詳しく知りたいと思ったら、この諸公領で線引きされた地図だけで満足していはいけないようなのです。

中世の支配体制の大きな流れとしては、中世初期フランク王国による広域的支配があり、その後の王国の分割によりヨーロッパ世界では城を中心勢力を築いた城主層が台頭し始めます(中世中期)。城主層の封主である伯を中心とした諸侯は、彼らより上位の貴族や王に対しての封臣として、自己の支配体制を固めていきます。城主の下には普通ひとつの村の支配権を持つ小領主層がいました。しだいに王と諸侯は自らの領地で支配権を広げ、最終的には都市・議会と結びつくなどして基盤を固めた王権が絶対権力になるに至ります(中世後期)。かなり大雑把ですが、社会の流れはこのようになっています。

それぞれの支配体制を王、諸侯、城主、領主に分けて紹介していきます。王はキリスト教の擁護者、ゲルマン的な血統を引き継ぐ者として全国(ここでは王領と封臣の支配域)に渡っての統治権を握ろうと努めていきます。具体的には王は上訴審の際の最高裁判権を持ち、諸侯たちの第一人者としての力を持つようになります。王領地の管理はプレヴォ、バイイなどの代官を派遣して行っていました。王は中央統治機構としての役人も揃え、中央集権化を図る足がかりとしていきます。諸侯の影響力はしだいに低下し、王領の騎士や学問を修めた市民層が政治を牛耳るようになっていきます。

諸侯たちも王の支配をコンパクトにしたような支配をしていました。城主や小領主へ授封していない直轄地は城代、所領管理人が担い、役人としては裁判執行人や裁判、徴税、軍指揮を代行した副伯などがいました。

城主は城の周囲5~10km、数ヶ村に渡り支配権を行使しており、中世の支配形態の核をなしていました。城主は城に守備兵として家内騎士を置き、さらに支配下の村の直接の管理人として小領主を従えていました。これらの領主には家内騎士たちが身分上昇してなったり、領地を継承できない城主一家の次三男がなったりしました。小領主はもはや小さな所領を経営するのに代官も役人もいらないので、領主一家と村落共同体の代表と共に村を統治しました。

中世の支配は、以上のように王、諸侯、城主、領主によって行われていました。また今回は紹介できませんでしたが、司教座や修道院も無視できない大きな勢力を成していました。今回は、全体を簡単に眺めてみると言うコンセプトで紹介して行きましたので、いずれ各階級の貴族についてより詳しい記事を書きたいと思います。

▼支配階層についてのイメージ
(ナイトの駒は家内騎士と小領主両方を表しています)

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