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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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▲カルカソンヌを追われるカタリ派
カタリ派への教会の態度が変化したのは、教皇特使ピエール・ド・カステルノーがトゥールーズ伯レイモン6世を破門した後、何者かに暗殺されたことがきっかけでした。下手人は不明でしたが、当然のことながらレイモン6世が犯人だとされました。1209年、教皇インノケンティウス3世はフランス全土の高位聖職者、諸侯、騎士らに向けて異端撲滅のための大号令を発します。これを受けて、ブルゴーニュ公を筆頭としてフランスの名だたる諸侯や司教らが、30万とも言われる大軍を引き連れて集結地のリヨンに続々と乗り込んで来ました。この前代未聞の大軍を前にして、レイモン6世は教会への謝罪を行い、以後異端撲滅に協力し、十字軍に参加するという約束で破門を解除されました。十字軍は攻撃目標を、南フランスのナンバー2、カルカソンヌとベジエの副伯、トランカヴィル家のレイモン・ロジェに定め直します。
十字軍は副伯領の主邑のひとつ、ベジエをたった一日で陥落させました。ここで、ひとつ問題が湧き上がります。ベジエ市民の中から、異端者と正統カトリックの信者をどうやって見分けたらよいのかという疑問です。これには、シトー修道会の総修道院長であり、この度の十字軍の総大将であるアルノ・アマルリックが答えました。「全てを殺せ、神は神のものを知りたまう」つまり、神は正統カトリックの信者だけ、あとで天国へ導いてくださるのだから、見分けのつかない異端者を逃がす危険を冒すよりかは、住民を根こそぎ血祭りにあげた方がよいのだ、と。こうしてその数2万とも3万とも言われるベジエの市民は、老若男女の如何を問わず虐殺されたのです。
血なまぐさい殺戮の後も十字軍の勢いは衰えず、次いで彼らは副伯のもうひとつの主邑カルカソンヌへと進軍します。こちらでは、副伯レイモン・ロジェ・トランカヴィル自ら指揮した篭城軍が健闘し、十字軍は2週間に渡る包囲を余儀なくされます。戦闘の決着を着けたのは夏の陽光でした。カルカソンヌの井戸が、南フランスの容赦ない日差しを受けて干上がってしまったのです。篭城軍は已む無く降伏し、副伯レイモンは捕虜となり、その3ヶ月後、赤痢を患い獄死しました。
こうして南フランスで権勢を誇ったカルカソンヌとベジエの副伯、トランカヴィル家は政治舞台から抹消されます。十字軍内では、この副伯の継承者を誰にするかを決定するために会合が持たれました。当時の南フランスは、ローマの伝統を受け継いだ裕福な大都市が多くある豊穣の土地であり、貴族たちにとっては垂涎の的であるはずでした。しかし、副伯の継承を推薦された大諸侯は、自分たちは異端を討伐しに来たのであって南フランスの土地を奪いに来たのではないからと理由を付け、現在の勢力バランスを崩さずにはいられないであろうこの大封土の受領を拒否しました。そこで、目を付けられたのが遠征に参加していた一貴族、シモン・ド・モンフォールでした。さて、一夜にして平凡な領主から、強大な副伯領の主人となったシモン・ド・モンフォールですが、彼の前途は安寧なものではありませんでした。