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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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アルビジョワ十字軍-ミュレの戦いと南フランス諸侯の反乱

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▲南フランス地図(都市の並びはおおよその位置です)

シモン・ド・モンフォールは、ミネルヴ、テルムに続きいくつもの要塞を落としていきましたが、その戦いの中でトゥールーズ伯やフォワ伯などの強力な南フランス諸侯とも争うようになっていきました。1213年にミュレを占拠したばかりの彼の軍勢は損害が多く、南フランス諸侯がシモン・ド・モンフォールと彼の十字軍を潰すための絶好の機会が巡ってきました。

折しも、南フランスに国境を接するアラゴン王ペラ2世がトゥールーズ伯、フォワ伯及びコマンジェ伯の臣従礼を受け、南フランスへの介入を始めていました。臣従礼を受けて、彼らの封建制上の主人になるということは、同時に封臣保護の名目で南フランスに軍事侵攻できるようになったことを意味します。南フランス諸侯とアラゴン国王の連合軍は、ミュレのシモン・ド・モンフォールを圧倒的兵力差で包囲します。同年9月12日、包囲に耐えかねた十字軍はついに一か八かの賭けに出ました。城から打って出たのです。そして、大逆転劇が起こります。北国の騎士の突撃によりペラ2世は戦死、シモン・ド・モンフォール率いる別働隊が大きく迂回して敵側面を突いたことにより連合軍は総崩れになったのです。この奇跡的勝利に勢い付けられた十字軍は、1215年、無血でトゥールーズを占領しました。レイモン6世とその子、レイモン7世はイングランドへの亡命を余儀なくされました。

翌年の1216年、精力的に異端根絶に努めたインノケンティウス3世が崩御しました。この機会にレイモン7世は南フランスに上陸、シモン・ド・モンフォールの弟の守る城を占拠します。これに応じる形でトゥールーズの町は駐屯していた十字軍を虐殺、蜂起の狼煙を上げました。この反乱の動きに対し、シモン・ド・モンフォールはトゥールーズに包囲戦をしかけます。この時、トゥールーズの投石機が放った石が、この北の騎士を死に至らしめました。

シモン・ド・モンフォールの家督を継いだのは息子のアモーリ・ド・モンフォールでしたが、凡庸な彼にはトゥールーズ伯に対抗し、父の築いた大封土を守りきるだけの力はありませんでした。1224年、カルカソンヌは15年ぶりにトランカヴィル家の手に帰しました。1209年のカルカソンヌ陥落の後に獄死したレイモン・ロジェの息子、レイモン・トランカヴェルはトゥールーズ伯、フォワ伯の加勢を受け、父の領地に帰還を果たしたのです。

アモーリ・ド・モンフォールはといえば、父の遺骸と共に北フランスへと帰って行きました。こうして南フランスの政治地図は、アルビジョワ十字軍以前の状態に戻ります。しかし、これで万事が丸く収まったわけではありませんでした。先祖伝来の土地へ戻ったアモーリは、法律上はいまだ自分の領地である南フランスの土地を、フランス王ルイ8世に献呈します。こうして、ルイ8世には豊穣の大地、南フランス征服戦争の大儀名分が与えられたのです。

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