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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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テンプル騎士団-国際銀行にして王室金庫

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▲清貧を象徴する、二人のテンプル騎士が一頭の馬に乗っている図。

テンプル騎士修道会は創立当初、数人の騎士が聖地の港からエルサレムまでの巡礼路を守っているだけのものでしたが、数十年で何百もの騎士を抱える大軍事組織に発展しました。この騎士たちは、修道士にして騎士という身分上、清貧の精神を尊重し、食事や衣服も、世俗の騎士に比べると質素なものでした。しかし、その一方でテンプル騎士団は組織全体としては莫大な富を蓄えていました。この富をテンプル騎士団にもたらしていたのは、ヨーロッパの各地のコマンドリー(騎士団の持つ支部、主に農場として経営)からの上納金や、聖地で異教徒と戦うという崇高な目的に惹かれた人々からの財貨や領地の寄進でした。

この巨大な財力とヨーロッパから聖地にまたがる活動網は、騎士団には金融業を行う機関を与えました。イギリスやフランスに住む巡礼者や十字軍士は、ロンドンやパリに置かれている支部に金銭を預け、聖地で手形と交換に金銭を受け取ることができたのです。これによって、巡礼者は重い貨幣を聖地まで運んでいく手間や危険を避けることが出来るようになりました。また、巡礼者が一定の財産を騎士団に預けておいて、もし戻らなかったならば、その巡礼者の相続人に財産が渡されるように取り計らうこともできました。13世紀に入っても、ヨーロッパで集めらた貨幣を載せた騎士団所属の船舶が地中海を行き来していました。

また、騎士団は巡礼者のための現金移送以外にも寄託(預金)業務や両替、貸付業を行っていました。当時の人々は盗難や火災での被害を恐れて、金銭や貴金属などを修道院や教会に寄託することがありました。修道院に貴重品を預けることで理念的には教会に保障されていた保護と安全の恩恵に与ろうとしたのです。通常の修道院の機能に加えて武装能力を持ったテンプル騎士団にも、このような流れの中で寄託が行われました。寄託の場合は金銭の所有権は騎士団に移らないものの、現金を騎士団に集積される結果を生みました。また、当時の人々にとって、預金は利子が付く投資としては捉えられておらず、むしろ貸し金庫を使わせてもらっているのだと考えられていたため、預託には保管料が付く場合もありました。

現在とは比べ物にならないほどに貨幣の種類や質が雑多であり、一国内でさえ同額の貨幣が何種類と造られていた中世において、両替業務は重要な役割を持っていました。また、騎士団は一個人から王侯まで幅広い身分の人々に貸付も行っていました。騎士団の金貸しについては別記事で後述します。

テンプル騎士団は、しだいに王侯の金庫としての役割も担うようになっていきます。この時代、王の個人資産と国家財政は完全に分離していなかったので、王が騎士団との間で金銭の取引を行うということは、テンプル騎士団金庫の国庫化を意味していました。フランス王フィリップ2世は第三回十字軍(1189‐1192)への参加の際、遺言の執行人をテンプル騎士団の財務長官に指名し、王の不在中の地方からの収入はタンプル塔(在パリ騎士団支部)に集められるように指示しました。また、フィリップ2世の孫、ルイ9世は第七回十字軍(1248‐1254)で捕虜にとられた際、テンプル騎士団の預託金を身代金の一部に使っています。

1295年、フィリップ4世はフィレンツェ人を責任者とする王室財務官庁を新設し、国庫の管理に乗り出しました。しかし、完全にテンプル騎士団による国庫管理がなくなったわけではなく、また王室財務官庁自体もフランドルとの戦争や財政危機のためにリーダーシップを発揮するには到らず、王室金庫がやっと統一されたのは騎士団解散と王崩御の後のことでした。

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