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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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緋色の教皇顧問-枢機卿の制度と職務

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▲教皇と枢機卿

世界史にも登場する枢機卿といえばフランス国王で宰相を務めたリシュリューとマザランがいますね。また、ローマ法王(テレビではこちらの表現が多いですね、教皇と同じ意味です)の選出にコンクラーベを行うというイメージもあるかもしれまんせん。ここからは、中世に生まれた枢機卿の制度についてみていきます。

中世におけるキリスト教会の勢力は、宗教的、権威的なものに留まらず、政治的、社会的なものでもありました。教皇庁は、軍事力こそ王侯に敵わなかったものの、財政や教皇勅書による圧力を通じて世俗世界に大きく干渉していました。このような実力ある教会が形成されたのは、11世紀から12世紀に隆盛した教会改革の時代でした。この時代の教会は聖職者の妻帯、聖職売買、俗人の叙任などの風紀の乱れにより俗権の干渉を受けやすい状況にありました。教会はこの状況を打破し、教皇庁を至上の権威とするローマ教会という、キリスト教的な秩序の理念を実現し、教会の俗権からの開放を達成しようとしていました。

教会組織の幹部である枢機卿が制度として形成されたのはこの教会改革の時代のこと。元々、枢機卿とはローマの教会堂に交代制で勤務する、ローマ近郊の聖職者たちのことを指す名称でした。主聖堂であるラテラノ聖堂に週番で勤めたのは司教枢機卿であり、市内の4つの聖堂で同じく週番制で典礼を行っていたのが司祭枢機卿です。ラテラノ聖堂やローマの街区を管轄として仕事をする聖職者たちは助祭枢機卿と呼ばれました。司教枢機卿7人、司祭枢機卿28人、助祭枢機卿18人の計53人で枢機卿は始まったわけですが、定員が満たされることは少なかったようです。

11世紀頃から、枢機卿は単なるローマの週番聖職者から、教会を引導する幹部的な立場に変化していきます。教会改革に際し、司教枢機卿の活躍があり、彼らは教皇の助言者としての地位を固め、ついには教皇選出権を握るまでになりました。1059年には、教皇ニコラウス2世によって教皇選出規定が出され、司教枢機卿による教皇選出が一般化します。さらに、叙任権闘争により教皇と皇帝側の対立教皇が並立している裏側で、司教枢機卿を優先する教皇選出規定に反発する司祭枢機卿や助祭枢機卿を味方に取り込もうとする両陣営の動きにより、司祭枢機卿や助祭枢機卿の地位も上昇し、1100年頃までには司教も司祭もない、一元化された枢機卿団が生まれます。この枢機卿団が現代まで教皇の選出権を持つことになるのです。ちなみに13世紀には緋色の服が枢機卿の装束とされるようになります。リシュリューもマザランも肖像画では赤帽子をかぶり、赤い服を着ていますね。

枢機卿の仕事は前述した教皇選出のほかにも、教皇の補佐役として教会の重要問題に対処したり、教皇特使としてヨーロッパ各地で教皇庁の外交官として活躍しました。教皇選出については1179年、第三回ラテラノ公会議により教皇選出には枢機卿団の3分の2の賛成が必要である旨が決められ、枢機卿団内の党派争いによって教皇が選出できないという事態を防ぎました。また、12世紀以降の教皇勅書には補佐役として、枢機卿の署名が添えられるようになっていきました。枢機卿団は教皇に破門、列聖、司教選任、教義などの教会の重要事項への助言を行い、教会裁判権の最高裁としての教皇の補佐のために司法の仕事も行っていました。

枢機卿はまた、教皇庁の政策を継続させるという役割も担っていました。教皇には高齢になってから就任する者が多いために在位期間が短く、十数年から数十年に渡って君臨する世俗の君主のように政策を一貫させることが難しかったんですね。そんな中、教皇が枢機卿団というひとつの集団から選出されたことは、教皇庁の意思の連続を可能にしたのです。また、教皇位の空位期間でも教皇庁は枢機卿団を中心としてまとまることが出来ました。枢機卿団によるこの集団指導体制は、トップの存在である教皇が頻繁に変わるという特質を持つ教皇庁において、重要な意味を持っていたのです。

 ▼リシュリュー     ▼マザラン
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