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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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騎士団の成立-聖地事情

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▲聖墳墓の円堂に詣でる巡礼者たち

世界の多くの宗教にはその宗教固有の聖地があります。聖地巡礼が信徒の人生における一大義務であるイスラム教に劣らず、キリスト教徒にとっても自らの信仰の証明としての聖地巡礼はローマ帝国にキリスト教が広まって以来、連綿と続いていました。ローマ帝国の滅亡や、イスラム勢力によるエルサレムの占領、一部の原理主義的なカリフによる弾圧などを経験する中でも、この聖地への巡礼熱はヨーロッパ中世を特徴付ける流行として、途切れることなく継承されていました。

巡礼は当時、非常に過酷で危険を伴うものでした。交通手段が未発達であり、かつ巡礼路を守る公的組織も存在しなかったため、巡礼者の多くが聖地への途上で盗賊やイスラム兵士の被害に遭っていました。1099年に十字軍士によってエルサレムが陥落したことにより、巡礼はより活発になりましたが、それでも巡礼が危険なことであるのに変わりはありませんでした。枢機卿ジャック・ド・ヴィトリは当時の様子を「野盗や追剥が街道に出没し、巡礼たちを脅かし、多くの人々から金品を奪い取り、人々を虐殺していた」と残しています。

西欧の巡礼者たちは自らを守ってくれる存在を求めていました。しかし、保護者を求めていたのは彼らだけではありませんでした。建国当初の十字軍国家は軍事的に非常に貧弱でした。十字軍国家はエルサレム王国を宗主としてエデッサ伯国、エンティオキア公国、トリポリ伯国で構成されていました。これらの国々は東地中海に面した細長い地帯を占領しており、海岸線は500km、イスラム教国との国教は1000kmにも及びました。それにも関わらず、遠征時には数万を数えた十字軍は今や故郷へと帰ってしまい、聖地にはわずかな兵力しか残されていませんでした。エルサレム陥落から5年経った1124年には、エルサレム王ボードワン2世が招集できた騎士は1000名ほどでしかありませんでした。あまりにも広大な領域を、あまりにも少ない兵力で維持する必要にあったのが、当時の十字軍国家だったのです。

このような状況から、1118年、シャンパーニュ出身の城主ユーグ・ド・パイヤンが友人のジョフロワ・ド・サン=トメールらと共に自発的に巡礼者の保護を始めました。創設期の9人のメンバーによるこの集団は自らを「貧しきキリストの騎士」と呼んでいました。彼らの評判は、領土内での平和維持と軍事力を求めていたボードワン2世の耳にも届きます。王は1119年に、エルサレム市内の土地を騎士団に提供しました。この寄進地は、旧約聖書の時代、ダビデの息子、ソロモンが立てたヤハウェの神殿(テンプル)の跡地であり、イスラムの支配下でアル・アクサ寺院が建てられていました。すでに王宮をダビデ塔に移していたエルサレム王が、この神殿跡地を騎士団に譲ったことにより、「キリストの貧しき騎士」は通称「テンプル騎士団」と呼ばれるようになったのです。

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