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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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ヨーロッパ大戦-ブーヴィーヌの戦い

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▲オラース・ヴェルネ「ブーヴィーヌのフランス王フィリップ2世」

“王国全体のあらゆる所で拍手喝采以外には何も聞こえない。身分、貧富、職業、性別、年齢の区別なく、皆、賛美歌を歌おうとし、皆の口から、王に対して栄光と賞賛と名誉が歌われる”

ギョーム・ル・ブルトン『フィリピデ』第12巻、西村由紀子訳、西洋中世資料集(2000)より

1214年7月27日、フランス、トゥルネー西のブーヴィーヌにおいて、大規模な会戦がおこなわれました。この戦いは、神聖ローマ帝国、イングランド、フランスなど北ヨーロッパの大国の命運を握る非常に重要な戦いでした。一方の陣営は、オーギュストの渾名で知られるフィリップ2世(1180-1223)率いるフランス軍であり、封建契約のために集った諸侯率いる騎士と歩兵から成っていました。それに対する連合軍は、ヴェルフェン家の神聖ローマ皇帝オットー4世(1198-1215)を率いるドイツ諸侯、イングランド陣営としてはソールズベリ伯ウィリアム、ジョン王(1199-1216)の腹違いの兄弟であるウィリアム・ロングソードがおり、フランドル伯フェルディナント、ホラント伯やブラバント公など低地地方の諸侯たちも加わっており、さらにはフランスの反乱貴族であるブーローニュ伯なども馳せ参じている大連合でした。

フランス王に対するこのような大規模な連合軍が成立する背景には、個々の勢力のフランス王に対する敵対関係がありました。オットー4世は皇帝位をめぐり、シュタウフェン家のフリードリヒ(後のフリードリヒ2世)と対立していましたが、フィリップ2世と教皇はフリードリヒを支援していました。また、イングランド王ジョンはアンジュー家の所有していた大陸領土をフィリップとの戦いでほとんど失っていたために、その奪還を狙っていました。そのために、ジョンは低地地方諸侯やブーローニュ伯らに対し貨幣知行を与えて彼らを対仏同盟に繋ぎとめていたのです。貨幣知行とは土地の代わりに貨幣を与えて、その大小として軍役奉仕を求めるものでした。ブーヴィーヌの戦いに先立つ2月、ジョンは自ら南仏はラ・ロシェルに上陸しプワトゥー地方で勢力を拡大させていましたが、フランス王太子ルイの反撃のためにそれ以上の進軍を阻まれました。しかし、この遠征は実は陽動であり本命は北フランスの皇帝率いる連合軍だったのです。

ブーヴィーヌで激突した両軍の兵力がどの程度であったのかについては、よくわかっていません。最大で両軍合わせて8万の軍勢がいたとする記述もありますが、これは多すぎだとする見解もあり、合計1万から4万の兵力と考えられてもいますが、それにしても幅が大きすぎます。騎兵と歩兵の割合に対しても議論があるようですが、ブーヴィーヌに参加したある一軍では騎兵の4倍の歩兵がいたというのが、基準になるかもしれません。また、フランス軍よりも連合軍のほうが、大差ではないにしろ、数で勝っていたようです。

戦闘はトゥルネーを出発しリールに向かう途中であったフランス軍に、連合軍が追いつくというかたちで始まりました。フィリップ2世が戦場を故意に選んだのか、それとも止むに止まれぬ状況を感じて選んだのかは不明ですが、彼は敵を迎え撃つべく、全軍を騎兵と歩兵から成る隊列を3隊編成して横一列に並べました。連合軍も同じような編成を行い、左翼にフランドル伯、中央にオットー4世、右翼にイングランドとブーローニュ伯の軍が配されました。しかし、連合軍は追撃の中で隊列を大きく乱しており、その長さは数kmに及んだと考えられています。このことが連合軍にとって致命傷となります。

最初にフランス軍に追いついたのは左翼のフランドル伯で、ブルゴーニュ公とシャンパーニュ伯に率いられたフランス軍右翼と衝突しましたが、戦いはもっぱらフランス軍優勢に進みました。この戦闘の最中、中央では、歩兵を前面に配置し守りの姿勢をとったフィリップ2世に対し、オットー4世の軍が攻撃を開始します。ドイツ軍は一時フィリップを落馬させるまで攻め込みますが、やがてドイツ軍が衰え始めると、後方に温存してあった騎兵の支援を受けて、フランス軍の巻き返しが起こり、馬を負傷させられたオットー4世は戦場から逃走します。中央とほぼ同時に戦闘に入った連合軍右翼は、当初フランス軍と互角に戦っていましたが、全ての歩兵がまだ戦場に到達しきれておらず、さらに他の戦闘で勝利したフランス軍が増援にやってきたために、ソールズベリ伯やブーローニュ伯といった指揮官を失い敗北します。

連合軍左翼が敗走を始めると戦線は崩壊し、戦いはフランス軍の完全な勝利に終わります。フランドル伯、ブーロニュ伯、ソールズベリ伯ら5人の諸侯が捕虜となり、両軍会わせて百数十名の騎士と数戦の兵士が戦死したと伝えられています。この戦いの結果、フランスは領土拡張を成功させ安定的に国家を維持していきます。一方ドイツでは、諸侯に見放されたオットー4世が戦いの翌年に廃位され、シュタウフェン家のフリードリヒ2世が新たに神聖ローマ皇帝に即位しました。イングランドでも、遠征の失敗が諸侯の失望を招き、マグナ・カルタに繋がる内乱の要因のひとつとなりました。
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