中世ヨーロッパの歴史と題された書物の多くは、古代ローマ帝国の滅亡からゲルマン民族の侵入に示される中世初期、現代に連なる国家の成立と封建制の確立、農業の躍進と都市の勃興をみた中世盛期、戦災、疫病、飢饉に見舞われた衰退の後期中世を経てルネサンス、大航海時代を迎えるというようなスタイルをとっています。もちろん、そのような政治史、制度史も重要な歴史の一面ですが、そこには生きた人間は存在していません。あるのは連なる事件と年号、連綿と続くエリートの系譜だけです。
そのような中で、中世の生きた人間を発見しようとした身体史の総合として、本書は非常に興味深い内容となっています。中世の身体のカテゴリとして、性を中心とする身体の抑圧からはじまり、中世人の死と生、医療と病気、食、入浴、スポーツなどの生活の諸相を描き、さらには身体を国家や政治機構の象徴としてとらえるなど、中世人の身体観にまで話は広がっており、身体史の重要性が実感させられます。結びの言葉「身体には歴史がある。身体とは、我々の歴史なのだ」が端的に表している通り、本書の第一の主張は身体には歴史があるということなのです。
人間の体への認識や体を動かすという行為は、あまりにも当たり前のことであるが故に歴史家たちに顧みられてきませんでした。「序」の中で引用されているマルセス・モースは、体の動き方や身のこなしは人類に生得の普遍的なものでは有り得ないと述べています。これは、ダンスなどの民族独特の体の動かし方についての話ではなく、歩き方、就寝の方法、座る、しゃがむといった休息の方法など人間の生活に欠かせない動きの話なのです。モースはこれらの人間の体の動きは「とりわけ社会、教育、作法、流行、威光などとともに変化する」と述べ、身体は自然な、歴史とは別の次元に存在するものではなく、その時代や地域の影響を如実に受けて変化していく、文化的なもの、すなわち歴史ある存在なのだと主張しています。
本書の意義は、生活諸相への考察が単に中世の物質社会の説明に終わっていないところにあります。つまり、食や入浴などの事象を単なる生活の一局面として捉え、何を食べ、どんな家に住んだかなどを物質的に考察するだけでなく、中世のイデオロギーを支配したエリートのキリスト教会と、それに反抗する民衆の身体という全体の中に、それらの事象が埋め込まれているということです。これにより、本書は中世人の生活に対する素朴な好奇心を超えた、生活、文化を規定していたものの領域にまで踏み込んでいる内容となっています。
中世における身体の最大の特徴は、それが一方で称えられ、またもう一方では抑圧されるという緊張関係の中にあったということでした。その中で、キリスト教会は当初身体を完全に抑圧しようとしましたが、身体の強い反抗はそれを許しませんでした。そこで、教会はただ欲求を禁止して身体を抑圧することを止め、身体をキリスト教の教義体系の中に組み込み、管理、監視していくことで人々を根幹から支配していったのです。教会による規制や、身体の反抗は、双方とも近代から現代に連なるヨーロッパ人の身体史に影響を与えています。中世の身体、中世の人々は、ふたつの価値の中で揺れ動きながら近代を模索していたのです。