▲「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれた地獄(15世紀)
「神を、そして教会を信じ、敬虔に生きましょう。さもないと地獄へ落ちますよ」
まっとうな教育を受けておらず、文字を読むことさえできなかった中世の農民を前にして、村の司祭や説教師が盛んに持ち出した常套句が上の文章です。「悪さをすれば地獄行き」というのは至極わかりやすい話であり、当時の宗教人は、説教の際に天国という言葉よりも頻繁に地獄という言葉を利用していました。地獄の恐ろしさについては、聖職者たちはいくらでも語って聞かせることが出来ましたし、教会堂の怪物の彫刻や壁画が視覚的にも地獄の恐ろしさを伝える役割を果たしていました。
では中世キリスト教世界にあって、天国と地獄はどのように位置づけられていたのでしょうか。キリスト教の根本理念を形作っている聖書には、天国という言葉が、神の国という言葉とほぼ同義語として使われています。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5:1)の一節は有名です。聖書の中ではからし種やパン種などといった比喩を用いて説明されている天国は、イエスが再来した後の完全となったキリスト教世界を意味しています。
「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入るほうがよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコによる福音書9:47-48)聖書の中でこのように描かれる地獄は、神の教えを守らない者たちの死後における苦しみの場です。しかし、天国も地獄もほとんどが比喩的に表現されているので、聖書のみから中世人にとっての天国と地獄を理解するのはなかなか困難です。
中世における天国と地獄のイメージ形成は、原始キリスト教時代の教父たちに始まり、時代の聖職者たちによって徐々に進められていきました。大教皇グレゴリウス1世(540頃~604)の『対話篇』には、臨死体験や幻視についての記述があり、これらは中世の来世観に大きな影響をもたらしました。また、ドイツの隠者、オータムのホノリウス(1080頃~1156)は『教えの手引き』の中で天国と地獄について言及しています。これによると、天国は物理的な場所ではなく、歓喜に満ちた霊的な存在であり、反対に地獄では熱さ、寒さ、肉体的・精神的苦痛・悪臭などの耐え難い責め苦が待っている場とされています。
さらに『教えの手引き』には新たな来世の可能性として、天国へ行くために現世での罪を清める、天国と地獄の中間とでもいうべき場が登場します。後に煉獄と呼ばれるようになるこの世界では、人は罪の重さに応じて、短い場合は数時間から数日間、長ければ何年もの間、浄罪に努めなければなりませんでした。この煉獄という考えは、6,7世紀に大陸に持ち込まれたアイルランド修道制の持つ贖罪の意識と重なり、しだいに中世の来世観の一部となっていきます。
13世紀のある説教集の中には煉獄に落ちた高利貸しが、妻の祈り・施し・断食などの敬虔な行為によって救われるという話があります。このように、煉獄は死者と生者との関係を持続させるという性質を持っていました。煉獄の意識は、お互いの死後の平安を求めて、祈りや教会への寄付を行ったギルドや兄弟団などの組織の広まりと連関しながら、中世人の心にゆっくりと染み込んでいったのです。
人は誰しも小さな罪を犯すもの。天国か地獄かの二択では、完全な聖人以外はみんな地獄行きということになってしまいます。煉獄が、まったく罪を犯したことはないとは言いきれない、多くの平信徒の心を掴んだのは想像に難くないですね。
今野國雄『ヨーロッパ中世の心』日本放送出版協会(1997)