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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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メロヴィング朝終期、王国の実権は宮宰が握るようになります。その中でも偉大な宮宰がピピンでした。
<ピピン2世>
7世紀に入り三分王国制が定着した頃、メロヴィング朝の王の力はしだいに弱まり、それに替わって宮宰「マヨール・ドムス」が政治の実験を握り始めました。クロタール2世が採用した宮宰は各分王国で権力を強め、分王国同士の争いは宮宰間の争いに他ならないのでした。
こうした中、宮宰ピピン1世の娘と、メッツ司教アルヌルフの息子アンセギサルの間にピピン2世が誕生します。彼は父と同じように宮宰となり、アウストラシアを中心に自らの勢力を拡大させていきました。687年、テルトリの戦いを経て、ネウストリアの全権を掌握したピピン2世は、王を凌ぐ国家一の有力者となりました。
しかし、このことはすぐさま王権の交代という事件を起こすことはありませんでした。権力を失ったメロヴィング朝の王たちには、まだ国王としての権威が、王族としてのカリスマが残されていたのです。それは王国一の有力者でさえも、簡単に崩すのは難しかったのです。