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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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軍事拠点と避難所と-城の起源

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▲寡兵で城に挑む筆者 「Mount&Blade」より

11世紀以降、中世ヨーロッパの各地で、地域支配の中心として、城の建設が盛んになっていきます。中世中期から多く現れるようになった城は、それまでの防衛施設や、防備を施された集落、軍事要塞などとはいくぶん異なった性質を持ち、中世独特の役割を担っていました。この新しい城は、多くの場合、その城の周辺領域を支配するための拠点であり、当該地支配者の住居であり、権力行使の中心でした。今回は「中世の城」への影響の有無などと併せて、中世盛期以前の防衛施設を概観していきます。

ゲルマン民族の大移動以前、イタリア、フランス、イングランド、スペインなど、西ヨーロッパの大部分を占める地域は、ローマ帝国の支配下にありました。帝国領内の重要拠点や辺境地域にはローマの軍団が配備され、軍団は四方を壁と堀で囲んだ防備施設「カステルム」を築き、そこを拠点に駐屯しました。カステルムは、一見すると中世の城の原型のようにも思われます。しかしカステルムはあくまでも純軍事的な施設であり、帝国からの支配拠点・兵士居留地という意味はあれど、領主の住居としての役割や、分断された領国の中心地としての役割は持っていませんでした(後述のように都市化したカステルムが地域の中心としての機能を持つ事はありえました)。また、カステルムは後世の城に比べ大規模であり、職業軍人の駐屯を前提としていたために、防衛設備が最低限のものに限られているという特徴を持っていました。カステルムには退役した軍人が定住するために純軍事的役割を失って城塞都市となったり、中世に拡張を施されて城として生き残ったものもありましたが、そのまま中世の城の原型というには難がありそうです。

ローマ文明と並んで、中世ヨーロッパを構成する要素のひとつとなった古代ゲルマン社会では、避難施設としの城塞が存在していました。タキトゥスは彼の著書「年代記」の中で、この城塞を「部族の枢要の地」と呼んでおり、マルコマンニ族についての記述では「王の邸」と城塞が別ものとして存在したことがわかります。ゲルマン民族の王ないし首長たちは、いくらかの防備を施した邸宅に、近親者や従士たちとともに住んでいましたが、それは城と呼べるような規模ではなかったようです。ゲルマン人の城塞は、有事の際に民衆を収容するため避難所であり、首長の住居ではなく、部族全体のための城塞だったのです。中世の城は、城主一家、使用人、守備兵などの少人数を収容するのに適したコンパクトなつくりをしており、ゲルマンの避難城塞とはかなり異なった特徴を持っていたといえます。

東ローマ帝国の後身であるビザンツ帝国が、小規模な兵力で防衛可能なつくりの城の原型を提供したという説もあります。ユスティニアヌス大帝の時代、将軍ベリサリウスが北アフリカへと遠征した6世紀頃、チュニジアにアイン・トンガという城塞が建設されました。アイン・トンガは、分厚い石造の壁と高い塔からなる防衛施設で、ひとつの塔は守備隊が最後の抵抗拠点として使えるようにつくられていました。これは中世の城の主塔(キープ)を髣髴させます。また、イスラム教徒もビザンツの建築様式を模倣して、8~9世紀の間、イベリア半島で数百の城塞をつくっています。これらの城塞は矩形の塔で強化されており、レコンキスタを通じてキリスト教圏にも影響を与えていきました。

ヴァイキングの活動も中世の城に影響を与えました。北フランスや低地地方など、ヴァイキングの影響を最も受けやすかった地域では、それまでになかった新しい形式の城塞が生まれました。盛り土の上に築かれた主塔と、柵で防御された囲い地からなる城塞は「モット・アンド・ベイリー」様式と呼ばれ、西ヨーロッパにおける初期の城の一般的な様式であると考えられています。木造であるために考古学的な研究が難しく、この様式の起源はかなり不鮮明ですが、最初の出現がヴァイキング侵攻の時期であるために、ヴァイキングの土塁で防御した野営地と、フランス人の対ヴァイキング用避難城塞からの影響を受けて出来たという説が有力なようです。中世の城は、これらの諸要素の融合と、国家の解体や権力分裂という政治的な条件によって始めて誕生したのです。
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