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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

下馬装甲騎兵に守られて-イングランドの長弓戦術

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▲ポワティエの戦い(1356)におけるロングボウ兵

百年戦争を代表する数々の戦場で名を馳せたロングボウは、ブリテン島西部、ウェールズ地方を発祥としています。ウィリアム1世(1066-1087)がイングランドを占領した際にウェールズとの間に辺境伯領を置いて以来、イングランドはウェールズ人との戦いを続けていました。長弓を用いた遠距離攻撃を得意とし、イングランド軍が近づくと山に逃げ込んでゲリラ戦を展開するウェールズ人にイングランド軍は長い間悩まされていました。彼らとの長年にわたる戦役の中で、イングランド軍に徐々に長弓が採用されていったのです。ヘンリー3世(1216-1272)の時代には自由農民への武装を義務付ける「武装条例」(アサイズ・オブ・アームズ)の中で装備すべき武器として弓と矢が追加されました。さらに、ウェールズを屈服させたエドワード1世(1272-1307)は、長弓兵と騎士・装甲騎兵からなる軍勢で勝利を得ていました。しかし、この時点での長弓兵は、騎馬突撃の前段階で敵戦力を消耗させるために用いられるのが主で、戦場での決定打は装甲騎兵による突撃であることに変わりはありませんでした。

イングランドの長弓兵と装甲騎兵による編成に変化をもたらしたのはスコットランドとの戦役でした。1298年のフォルカークの戦いにおいては有効性を証明した長弓戦術は、1314年のバノックバーンの戦いではイングランド側に決定的な敗北を招くことになります。フォルカークにおいては防衛陣を組むスコットランド槍兵のシルトロン(密集陣形)の上に矢の雨を降らせることで勝負がつきましたが、バノックバーンではシルトロンの突撃に不得手な装甲騎兵が対応し、側面に展開した弓兵は少数のスコットランド騎兵に掃討されてしまいました。装甲騎兵はほとんど何の援助も無いままシルトロンの槍衾に攻撃され敗北します。つまり、長弓兵・装甲騎兵軍は、相手が防衛陣を組んで動かない場合には効果的でしたが、相手が積極的に攻めてくる場合、防御の苦手な騎兵と打たれ弱い軽装弓兵を敵にさらしてしまうという弱点を持っていました。そこで考案されたのが、長弓兵と下馬した装甲騎兵(メン・アット・アームズ)による戦術でした。

エドワード・ベイリオルがイングランドの支援を受けスコットランドの大軍と戦ったダブリン・ムーアの戦い(1032)では初めて長弓兵と下馬装甲騎兵による陣が敷かれました。エドワード率いる軍はほとんどがイングランド人で、500の装甲騎兵と2000の長弓兵から成っていました。エドワードは装甲騎兵の大部分を下馬させて中央に配置、その両脇に長弓兵をやや前面に迫り出した形で並べ、後方には予備の騎兵を残しました。スコットランド軍は数の多さを頼みにイングランド軍中央へ突撃をかけましたが、彼らの頭上には良好な視界を確保した長弓兵からの連射が降り注ぎました。また、中央の下馬装甲騎兵も槍に刺されて暴れまわる軍馬を気にする必要なく、軽装のスコットランド歩兵に対応することができました。この戦いの翌年、エドワード3世(1327-1377)率いるイングランド軍が同じ戦法をより大規模に用いてハリドン・ヒルの戦いでスコットランド軍を破りました。かくして、イングランド十八番の長弓・下馬装甲騎兵布陣が完成します。

この戦術が採用されるためには、長弓兵の確保という前提条件がありました。長弓は単純な武器でしたが、それゆえに直接力を加えて弓を引かねばならないため、かなりの力を要しました。クロスボウなど素人でもすぐに扱えるようになる武器とは異なり、ロングボウの使用には長期の訓練が欠かせなかったのです。この問題に対処したのはヘンリー3世の武装条例やエドワード1世による弓術の推奨であり、これらの政策により潜在的長弓兵戦力が増加・維持されました。この長弓戦術は大陸に持ち込まれ、若干の変化を加えつつも、基本を変化させることなく百年戦争においてイングランドの勝利を支えていくことになります。


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