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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

学問として、道標として-前近代における占星術の歴史

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▲人の十二ヶ月と十二宮「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」より

占星術とは、惑星や星座の位置を解釈することで、国家や人の運命を予言するというものです。今日、占星術は迷信の類とみなされていますが、前近代の社会においては、古代の権威によって根拠付けられたれっきとした学問でした。

占星術(アストロジー、astrology)という語が星(アストロス、astros)と論述(ロゴス、logos)というギリシア語の合成であることからも、占星術が、まやかしなどではない論理だった学問と見なされていたことがわかります。


広範な地域に、数世紀にわたり普及した占星術の手法は、各地域、時代によって多少の違いはみられるものの、基本的な考え方は同じものでした。すなわち、太陽の進む道筋である黄道を12等分し、それぞれの部位(宮)にある星座を特定し、さらに太陽と月を含む7惑星(水星・金星・火星・木星・土星)の位置を解釈するという手法です。

30度分の幅を持つ12の宮のそれぞれに星座が与えられています。白羊宮(おひつじ座)、金牛宮(おうし座)、双子宮(ふたご座)、巨蟹宮(かに座)、獅子宮(しし座)、処女宮(おとめ座)、天蠍宮(さそり座)、人馬宮(いて座)、磨蠍宮(やぎ座)、宝瓶宮(みずがめ座)、双魚座(うお座)です。

紀元前2世紀のギリシア人によって整理された結果、白羊宮が春分の日に当たるために十二宮は以上の順序で表記されますが、地球の自転軸の微妙なずれのために、2000年以上経った今日では春分の日には双魚座(うお座)がきてしまっています。これらの黄道12宮と7惑星には、それぞれ異なった性質が割り振られ、天空における両者の配置相関関係は複雑な理論に基づいていました。


占星術の生まれははっきりしていませんが、古代メソポタミアのシュメール人の間に始まったとする説が有力なようです。それが現在とほとんど変わらない形に到ったのは、前5世紀頃のカルデア王国(新バビロニア王国)においてでした。このため、ヨーロッパではカルデア人は占星術師の代名詞となっています。

古代メソポタミアに芽生えた占星術は、やがて西はギリシア、東はインドにまで伝播していきます。特に西方の占星術は、ギリシアの宇宙観や自然哲学と結びつき、ヘレニズム時代に一大発展を遂げます。プラトンやアリストテレスは、天体の運行と地上の物質の運動との間に相互関係を求め、数学者ピタゴラスは天体運動の数学的正確さから星空に万物の普遍性を見出そうとしていました。ヘレニズム時代までには世界の四大元素(空気・水・土・火)や人体の四体液論(多血質・粘液質・憂鬱質・胆汁質)、温感湿乾、春夏秋冬、幼・壮・老といった人生の各時期などとも結び付けられて考えられるようになりました。


起源前後にはローマ人のマニリウスは12宮を6宮づつ男性宮、女性宮に分け、また12宮各宮が人体のどの部位に相当するかを定めました。これは後の医学占星術に受け継がれていきます。さらに時代が下り、2世紀には大天文学者プトレマイオスが多くの恒星の位置を記した星表「アルマゲスト」をまとめ、また「テトラビブロス」で占星術の集大成を行いました。

偉大な学者たちによって権威付けられた占星術はローマ帝国にも受け入れられましたが、帝国の滅亡後は西欧での伝承が途絶えます。改めてヨーロッパに占星術が普及しだすのは、アラブ文化の受け入れが盛んになった11、12世紀以降のことです。


占星術による運命決定にはいくつかの型がありました。前兆説と呼ばれるものは、上記の12宮や惑星の運行にあまり関わらず、日食や月食、彗星などの突発的な天文事象が見られたときに、地上の事件の予兆を見るというものです。また、人が誕生した時点での星の配置で、その人の一生が運命付けられるとする生誕推知法、支配宮と惑星とが特異現象を起こした際、その支配宮に属す人々のに一大変化をもたらすとする一般占星術、個人や国家などが何か行動を起こそうとする際に、その時期や行動の如何を占う行動発端法などがあります。

ヨーロッパへともたらされた占星術は、同地で特段の変化を遂げることはありませんでしたが、ヨーロッパ世界にすばやく浸透し、時たま教会からの圧力を受けながらも、天文学が占星術から分離し、近代科学によって占星術が否定されるまで大きな影響力を持ち続けました。
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