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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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イタリア | フランス | ラテン |
ロベルト | ロベール | ロベルトゥス |
ルッジェーロ | ロジェ | ロゲリウス |
タンクレーディ | タンクレード | タンクレドゥス |
グリエルモ | ギョーム | ウィレルムス |
戦士を欲していた南イタリアに、当時土地不足によって相続を得られず、故郷にあぶれていたノルマン人たちが引き寄せられます。この需要と供給を結びつけたのは、イタリアを経由して旅していたノルマン人巡礼者たちでした。南イタリアの諸侯はこぞってノルマン人傭兵を集めます。その中でナポリ公と契約したライヌルフスという男は戦功によりアヴェルサの町を与えられ、ここに南イタリアにおける初のノルマン人伯領が生まれました。アヴェルサ伯は分散していた同郷者を集めて、自分の下で戦うように勧め、この町をノルマン人の拠点とします。
この町に引き寄せられたノルマン人の中に、タンクレードの息子たちがいました。タンクレードはノルマンディーの小領主でしたが、彼らの息子たちは小さな領地を分割相続する気にならなかったのか、次々と南イタリアへと旅立っていきました。息子たちは南イタリアでそれぞれ活躍しましたが、特筆すべきは二番目の妻との間の長子ロベルトでした。ロベルト・ギスカルド(強者)と呼ばれるこの男は、始めはアヴェルサ伯の元から独立しアプーリア公となっていた兄に付き従っていましたが、後に公位を踏襲します。
アヴェルサ伯・アプーリア公両ノルマン系勢力は周辺の小国を吸収しながら拡大し、南イタリアを分割する二大勢力となっていきます。1080年までにロベルト・ギスカルドは各地の反乱を鎮圧し、教皇と組んだアヴェルサ伯をも倒し、南イタリア全土を支配するに至りました。その後、叙任権闘争により皇帝ハインリヒ4世と争っており、軍事的な援助を求めていた教皇グレゴリウス7世と和解を果たし、一部地域を除いた領地に対し教皇の封臣となりました。こうしてロベルトは圧倒的な勝利と、教皇の承認によって統治をゆるぎないものにしたのです。
両シチリア王国は11世紀、ノルマン人冒険者のひとりタンクレードの息子、ルッジェーロが南イタリアの一部とシチリア島を平定して築き上げた強力な伯領が起源です。今回は、ノルマン人が進入してくる以前の南イタリアの情勢について紹介したいと思います。
ローマ帝国滅亡後の5世紀末、東ゴート族がイタリア半島を支配した後、東の帝国はユスティニアヌス帝のもと国土の再征服(6世紀初期)に乗り出しました。しかし、イタリアを回復したのも束の間、今度はランゴバルド族の侵攻に遭い、東帝国は長靴型の半島のわずか爪先と踵の部分、すなわちアプーリア地方とカラブリア地方にのみ影響力を持ち、半島中部カンパニア地方に点在するナポリ、アマルフィ、ガエータの都市とそれらに付随する若干の周辺領域に対しては名目上の宗主権を持つのみになってしまいました。その他の南イタリアは、568年にランゴバルド王国が成立したのと同時期に興ったスポレート、ベネヴェントのランゴバルド系両候国が占めていましたが、その後スポレート候国が王国に吸収され、ベネヴェント候国が分裂した結果、ベネヴェント、カープア、サレルノの町を中心にした三つの候国いずれかの支配下に組み込まれていきます。
また、シチリア島はイスラム教の発生以来西進を続けていたムスリムの将軍たちが支配していました。このように、当時の南イタリアにはラテン・カトリック文化、ギリシャ(ビザンツ)・オーソドックス(東方教会)文化、アラブ・イスラム文化という地中海を取り巻く三つの大きな文化圏が互いにせめぎあっていました。そして、諸侯国や帝国領、各都市はこの地の覇権争いに勝てるような強力な軍隊を必要としていたのです。南イタリアのこのような情勢が傭兵としてのノルマン人を呼び寄せたのです。
▼南イタリアの主要都市と地方名
【人口増加】
前回紹介した農業の発達により耕作地からの収穫量が倍増、それに伴ってヨーロッパ全体の人口は大幅に増加しました。現在のフランスの人口はおよそ6000万人ですが、西ヨーロッパ全体のこの数字に達したのは1200年頃のことでした。1000年当時には4000万人ほどであったことを考えると200年で1.5倍の伸びです。それからも人口増は止まらず1300年には8000万人にも膨れ上がります。これにより多くの都市建設が活発になり、都市民が増えたことは事実ですが、やはり一番影響を受けたのは人口の9割を占める農民たちでした。(詳しくは中世の人口についてを参照)彼らは土地不足に苦しむようになり、それが中世農業革命の第二波ともいえる大開墾運動を引き起こしました。
【大開墾時代】
フランスでは12世紀頃ピークを迎えた開墾運動は、大きく分けて三つの方法で行われました。すでに村落共同体を形成していた農民たちが、自分たちの村の周囲を少しずつ切り開いて開墾していったもの。シトー会などを中心とする修道会組織が、修練の場を求めて森に入り、そこに築かれた修道院を中心として開拓が行われたもの。または、領主などの有力者が指導力を発揮して、農民に森の中に新たな拠点を作らせて、そこから村を広げていくというものです。開墾運動は西ヨーロッパの内側だけに留まらず、エルベ川の彼方、東ドイツへの植民やイベリア半島への植民も活発に行われました。
【商用作物の生産】
それまでどうにか食っていくので精一杯だった農民に、それまでの数倍の収穫が得られるようになり、その結果しだいに主要作物(小麦やライ麦)以外の生産が増えてきました。葡萄の栽培は特に活発で、一時期にはなんとイングランドにまでも広まりました。ボルドーやブルゴーニュのワインなどは銘柄としての価値を持ち、経済活動と共に発展した交通網によって各地に輸出されました。また、藍色の原料となる大青などの染料作物や、麻などの繊維作物は大消費地である都市に送られ市民の生活を支えました。
【影響】
これらの農業革命によって、それまで外的を内側に縮こまっていた印象のあったヨーロッパ世界は、有り余るエネルギーを外に放出させていくようになります。中東での十字軍、イベリア半島でのレコンキスタなどはその例です。また、農業生産の向上は農民を支配する聖俗領主の経済的な成長を進め、彼らはその財を使って堅固な城を築き、豪華な大聖堂の建設を進めました。高所得者である貴族層の消費は経済の活性化を促し、農民に求められるものもしだいに賦役から貢租、金銭へと変化していきます。11世~13世紀の間に行われたこの農業革命が、中世ヨーロッパの最盛期の根幹を成していたと言えるのではないでしょうか。
中世ヨーロッパの時代三分割の真ん中、中世盛期に農業は飛躍的な発達を迎えます。この発達は技術の発展や人口増加、大規模な開墾運動などが互いに影響しあって、農業革命期とも呼べる時代を作り出しました。さて、これらの要因となった事物をひとつづつ見ていくことにしましょう。