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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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ギルドの中で特にものを作る職人たちのギルドを手工業者ギルド、あるいはツンフトと呼びます。ツンフトとはドイツ語で「適当なもの」というような意味ですが、それが「社会の秩序」といった意味に変わっていきました。ツンフトはこの言葉どおり、まさに職人たちの間に秩序をもたらす組織でした。職人はギルドによって社会的な拘束を受け、徒弟は親方の下働きをして何年も過ごさなくてはなりませんでしたが、ギルドへの加入は商人や貴族などといった他の身分(多くの場合、彼らより高い)と張り合っていくための手段でもありました。彼らは親方、職人、徒弟で構成されていましたが、今回使う職人は一般的な手工業者(つまり親方、職人、徒弟をまとめて)を職人として書いていきます。
さて、ツンフトの主な役割を見ていきましょう。ツンフトは基本的に他より突出した職人を嫌いました。そのために細かく分化された他の職人の仕事を請け負うことは禁止されていましたし、労働時間も制限されていました。有利な条件で商談できる売買相手が見つかると、職人はそのことをツンフトに知らせる必要があり、これらの規則に反すると共同体へ罰金を支払わねばなりませんでした。また、ツンフトは職人の作った製品を保証し、ごまかしや不良品があった場合には市当局ばかりでなくツンフトからも罰せられ、違反が重なるとツンフトを追放されました。普通、当局はツンフト未加入の職人に対し営業を認めていなかったので、ツンフト追放はまさに「経済的な死刑と同じ」(『中世への旅 都市と庶民』H.プレティヒャ)だったのです。
大都市のギルドや、規模の大きいツンフトは各自のギルド(ツンフト)会館や専用の居酒屋を持っていました。会館にはギルドの資金が集められ、また集会や宴会もそこで行われました。祭の際には一緒になって行進し、前回書いたような社会的、宗教的な活動を共にし、仲間同士を助け合うツンフトはまさに彼らの小宇宙(中世都市)の中のさらに小さい世界でした。
中世の都市には、同業者の集まりであるギルドが作られました。ギルドの構成員は、ともに祭事や宴会に参加し、仲間の埋葬に責任を持ち、相互扶助の義務を負っていました。社会保障制度などあるわけがなく、自力救済が基本の時代ですから、相互扶助団体の持つ意義は相当強大きなものであったろうことは簡単に予想できますね。怪我や病気になって仕事ができなくなった仲間、老人や構成員の遺族の生活を支えていたのはこのギルドでした。
彼らは職業という社会的関係で繋がるとともに、同じ守護聖人をもつなど宗教的関係によって結ばれていました。ギルドでは新しい職人の教育や技術の継承が行われ、彼らは教会に自分たちの祭壇を持ち、ミサをあげたのです。また、夜回りや見張りなど市民の義務がギルド単位で行われたり、市政参加の際にも各ギルドから代表者が市参事会を構成するなど、ギルドは行政的な区分でもありました。
中世ヨーロッパを形成するほかのものと同じく、都市に生まれたギルドは古代ローマとキリスト教の影響の上に成り立ったものでした。古代ローマには同業者組合コレギウムがあり、これがキリスト教の受け入れとともに宗教的に結び付けられた相互扶助集団へと変化していったのです。このような流れを受けて、まず遠隔地交易を共にすることで団体を築いていった商人が商人ギルドを、次いで都市に定住する職人が手工業者ギルド(ツンフト)を形成していきました。
また縦回転のローラー臼の誕生によって、オリーブやサトウキビ、樫の樹皮などの原料を潰して油や砂糖、タンニン(革をなめすのに使われる)を抽出したり顔料製造が行われました。ローラー臼はすり潰す用途のほかにも金属などの研磨に使われました。
クランクやカムの利用で水車の回転運動を上下運動へと変化させた水車もあり、そうしてできた水力ハンマーは織りあがった毛織物を叩いて強くする縮絨作業に使われました。また縦運動の水車は金属加工においても大きな革新をもたらしました。鉱石の粉砕、ハンマーによる鍛造、水力ふいごによる品質の向上と生産の拡大などです。水車はその他にも金属板の圧延・切断、硬貨の鍛造、坑道の排水、換気、鉱石の巻上げなどを行い、中世の工業に欠かせないものとなりました。
▼ローラー臼
▼回転砥石
▼水車による鍛造
▼水力ふいご
前の記事でも書きましたが、11世紀末のイングランドには5000を超える水車が存在しました。そのような総括的な資料は他の地域にはありませんが、例えばフランスのピカルディ地方では11世紀初期に40あった水車が12世紀末には245へと増加し、同じくオーブ地方では11世紀にたった14だったものが13世紀初期にはおよそ200に増加しました。
風車の起源は古代エジプトにまでさかのぼるとも言われていますが、記録に残されているものでは10世紀頃、現在のイラン・アフガニスタンの国境地域に作られたのが最初だとされています。この地域では水車の原動力となる河川が少ないことを考えれば、強風が吹くこの地域で風を使った機械を作ろうとしたことも不思議ではありません。風車は主に、井戸水の汲み上げや製粉に使われました。さて、本題のヨーロッパの水車の話に入ります。
中世ヨーロッパで風車が登場するのは12世紀初期です。風車はやはり水流に恵まれない地域を中心に普及してゆき、例として13世紀、フランドルのイーペル周辺だけで120の風車があったと記録されています。また、風車といえばオランダですが、この地に風車がやってきたのは13世紀後半のことです。写真などで何度も目にしたことがあると思います。オランダでは14世紀末頃からは干拓のために多くの排水風車が活躍しました。
また、風車は時代とともにその形を変えていきます。初期の風車は車がついた箱を木柱「ポスト」の上に乗せて、風の向きに応じてその箱を回転させる箱型風車でした。しかし、本体を動かすのは労力がかかったために、14世紀に入ると風車の頭の部分だけを回転させることができる塔型風車が登場します。これらの風車は製粉が主な仕事でしたが、オランダなどでの干拓や水車も行うようなさまざまな用途に使われるようになっていきました。
▼箱型風車
▼塔型風車
今日は暑かったですね。(関東在住)最近は涼しくなったと思っていたんですが…まぁ、夜はぜんぜんマシになりましたが…。中世の人々は(今の日本のような殺人的な気候ではないにしろ)気候をすべて直に受けて生きていたんですよね。たくましいことです。
また、沿岸部では潮の満ち干を利用して水車を回すものがありました。河口などにダムをつくり、干潮時に水門を開けて車輪を回すのです。13世紀、イギリスには38台の潮力水車がありました。しかし、11世紀末のイギリスには5624台の水車があったとされていますので、このような型の水車は非常に稀だったといっていいでしょう。