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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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豆のポタージュ

中世の野菜の中で重要な位置を占めたものに豆類があります。豆は栄養分を豊富に含む中世人の大事なエネルギー源のひとつだったので、かなり多く消費されました。代表的な豆として、そら豆、えんどう豆、ひら豆(レンズ豆)、ひよこ豆(エジプト豆)などが挙げられますが、中心だったのはそら豆とえんどう豆です。

豆はスープやピュレにされて食べるのが一般的でしたが、特には小麦と一緒にパンにされることもありました。多くは菜園よりもむしろ畑で栽培され――豆類が窒素を貯めこむことから――他の穀物の成長に貢献しました。
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肉食日と精進日

中世の人々には食事に関して多くの宗教上の制約がありましたが、そのひとつに肉食禁止の日があります。これは一年のサイクルのものと一週間のサイクルのものがあります。一年のリズムとしては、四句節、降臨節、そして祝日の前日があります。

四句節は復活祭(春分の日の後の最初の満月の次の日曜日)の前の40日間(日曜を除く)のことで復活祭の6週間と4日前、灰色の水曜日から始まりました。降臨節(11月30日に最も近い日曜日からクリスマスイヴまでの約4週間)と共にこれらの期間中は、肉はおろか卵やチーズなどを食べるのも禁止されました。祝日の前日の場合は、卵やチーズを食べることが許されました。一週間のうち、主に金曜日が精進日、つまり肉食禁止の曜日とされ、地域によってこれに水曜日、土曜日が追加されました。

さて、これらの日々に中世の人々の食卓に並んだのは魚でした。貧しい人々は保存が利き、安価であったニシンを中心に食べ、裕福な人々は彼らより新鮮な魚を手に入れることができました。魚は河川、海、養魚池などで獲られ、燻製や干物、塩漬けにされ、あるいはす生のまま売られました。

中世人の肉食

中世の人々はかなり多くの肉を消費していました。中世後期の肉類の消費量は現在と比べても遜色ありません。つまり、一年間に50~100㎏の肉を食べていたのです。現在、欧州の肉類消費量は一年にだいたい80~100㎏ほどです。ちなみに、日本人の場合には50㎏を下回ります。中世が終わりを告げると肉の消費量は減少していき、もとの数字に戻るまでに数世紀を要しました。

豚・牛・羊が主な食用動物でしたが、その他にも鹿、猪、山羊、兎、鶏、鳩、鴨や白鳥、孔雀なども食卓に出されました。狩猟による食料獲得も重要なものでしたが、全体の中の割合は数パーセントに過ぎず、多くは家畜から肉類が供給されました。

中世初期には周囲に広がる森での豚の牧畜が中心でした。豚は都市でも飼われて残飯や生ごみの処理に一役買いましたが、同時に都市の不衛生を引き起こす要因ともなりました。時代が進むにつれ、豚の消費は減少していき代わりに牛が増加しました。これは動力源となり、乳をとれる牛の重要性が増したからだと考えられます。

建築材料

最近、中世の食に関する本を読んでいるのですが、非常に面白いです。彼らがどんなスパイスを使い、どれほどの肉や小麦を食べ、それらをどのように調理したかなどは中世人の生活を知るための大きな要素です。



<建築材料>

中世の家は、その家のある地方や家の主の富によって変わりましたが、ほとんどが木材、石材、土で建てられました。家の床は石を敷き詰めたものや、もっと簡単に土を踏みしめただけのものもありました。二階以上の床は木でできていて、これは下の階の天井となっていました。屋根は石の瓦を敷き詰めたり藁で作られたりしました。

窓は小さいことが多く、まだ大多数の家には非常に高価だったため窓硝子はついていませんでした。その代わりに蝋や油をひいた紙や布、木製の枠などが使われました。戸締りするのには木の鎧戸を用いました。

中世の人口について

お久しぶりです。なかなか更新できずにいましたが、そろそろ更新を再開したいと思っています。



<中世盛期の人口>
11世紀頃、中世盛期に入りヨーロッパの気候が温暖化してくると、それに伴う農業生産の増加から、人口は増えていきました。当たり前ですが、しっかりとした戸調査などない時代なのでヨーロッパの人口の推定値は研究者によって様々です。ヨーロッパ全体の人口としては1000年頃:4000~5500万人、1200年頃;6000~6500万人、13000年頃:8000万人以上と増加していったと考えられています。

最盛期の人口増加を国家・地域別にみてみると、イングランド:110~370万人、フランス:600~2000万人、イタリア:500~1200万人程であったと推測されています。人口の増加は、さらなる農業生産の拡大などのほかに十字軍の活動や東欧への植民など、ヨーロッパ外部への影響を強めていく一因となりました。

イタリアの外国人傭兵

イタリアでの戦役に参加した傭兵たちは、外国人が大きな部分を占めていました。例えば1270年代にフィレンツェは約100人のイングランド兵を雇っていたし、同じ頃ミラノで起こった政争で都市を二分する戦いがあったとき、実際に戦ったのはカスティリヤ人とドイツ人でした。また1432年にパドヴァは対ヴェローナ戦役のためにドイツ人とボヘミア人の連合部隊を雇っていました。また、ブラバントやスイスなどの伝統的な傭兵輩出国からも、多数の傭兵がイタリアの各コムーネに雇われていました。その他にも、フランス、ハンガリー、スペイン、コルシカ、プロヴァンスなど要するにキリスト教世界全域から傭兵は集まってきていました。

イタリアの傭兵-雇用

傭兵隊の存在はコムーネやイタリアの小領主などの雇用者に大きな支出を強いました。傭兵隊に対する支出は、通常の基本給の他も様々なものがありました。まず、雇用者は傭兵隊長に給金の一部をまとめて前払いする必要がありました。また、戦闘によって失われた馬や、兵士の身代金などの損害補償も雇用者の義務でした。また、大規模な戦闘の前には、傭兵たちにいくらかの金や、それに代わる現物などを用意して、傭兵たちの士気をあげる必要もありました。

金食い虫の傭兵隊への支出は、コムーネの財政の大きな負担となりました。コムーネでは、これらの資金をまかなうために、市民に臨時の税をいくつも課し、また国債を強制的に買わせたりしました。それでも、前金などのまとまった資金が不足するときは、民間の金貸しから金を借りることになりました。

イタリアの傭兵-被雇用

コムーネと雇用契約を結んだ傭兵たちには、通常の戦闘行為のほかにも任務がありました。傭兵たちは、都市の公安を司る警察的な役割を果たすことが求められました。また、雇用契約が長期化する中で、常に戦闘をしている状態でなくなった傭兵たちには、通常とは違った待機契約が取られることもありました。

待機契約は、普通の給金よりも給金(待機料)が少なくなる代わりに、傭兵たちに平時には暇を出すというものでした。これにより、いくらかの領地を持つ小貴族が傭兵隊長の部隊は、戦闘がないときには、領地の経営をすることができました。

イタリアの傭兵-組織

中世盛期、北イタリアで活躍した傭兵たちは、主に傭兵隊「コンパニー」を組んで活動していました。ならず者の集団でもあった傭兵隊は、強力な傭兵隊長の下にひとつの単位と成りました。傭兵隊長は、その大多数が下級貴族の子弟から成っていました。これは、中世盛期の人口増加により、土地や財産の大部分が長男に相続される中で、貴族の次男三男が取る一般的な道が兵士になることであったことに関係します。

また、傭兵たちは戦略単位としてより小さい組をつくりました。ドイツ人傭兵は騎士1名、従者1名で成る兜組「バルブータ」を最小の単位としました。これはドイツ騎士の多くがバルブータ(目と鼻以外を覆う兜)を装備していたことに由来します。またイングランド人傭兵は2名の騎士と1名の従者で成る槍組「ランチャ」を単位としていました。

 


イタリアの傭兵-小史

12世紀以降、中央権力不在のままに成長していた北イタリアでは戦争は恒常的なものでした。各自治都市「コムーネ」は周辺領域「コンタード」を巻き込んで、利権や富、領土をめぐって、コムーネ同士、または領主の都市や城と戦闘を繰り返していました。

当時の北イタリア諸都市には、ある程度には市民兵が組織されていましたが、実際に戦闘になったとき、頼りになるのはプロの兵士でしかありえません。このプロの兵士の役目を担ったのが傭兵たちでした。彼らは、様々な国家の、様々な身分から出た兵士たちでした。

初期の傭兵たちは、個人や数人から成る小単位で雇われていましたが、後には数百の騎兵や歩兵を動員できる軍団ごと雇用されることが多くなっていきます。また、その雇用形態も数ヶ月が一般的でしたが、時代を経るにつれ半永久的な雇用契約が結ばれるようになり、彼らは常備軍化していきます。