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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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都市の住民たち 「下層民」



<下層民>

都市社会が発展するに連れて、都市住民の間には貧富の格差が目立ってきます。新しく都市に流入してきた農民たちや、都市内の浮浪者や乞食などがこのような下層民を構成しました。彼らは日雇いや賃金労働などで生計を立てていました。また商人や職人が、病や怪我により、あるいは罪を裁かれ相互扶助団体の援助を絶たれ下層民へ転落することもありました。このような下層民は、犯罪予備軍となり都市の治安低下の一因となり、都市人口の大きな部分を占めていました。
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都市の住民たち 「家人、教会庇護民」

 



<家人、教会庇護民>

都市住民の中には、商人や職人のような自由身分のものばかりではなく、領主や教会に従属する非自由民も多く暮らしていました。聖俗の領主に仕え、造幣などの職務を行い領主権力の代行者となった家人「ミニステリアーレス」や、教会組織に保護されるかわりに貢租を支払う教会庇護民「ケンスアーレス」でした。彼らは、不自由民となることで、領主権力の強力な保護の下、免税などの特権を獲得し、他の自由民より有利な条件で商業活動に従事しました。

 


都市の住民たち 「職人」



<職人>

当然のことながら、商人の活動には品物と売り手を必要とします。これをふたつとも提供したのが職人でした。彼らは、もとは農村で領主に仕えた不自由民であったり、村で働いて農民に必需品をつくったりしていた人々でした。彼らも商人を倣い、同じ職種の者同士で手工業ギルド(ツンフト)を形成しました。手工業ギルドはギルド内の職人に対し、生産・販売量の制限、夜間労働の禁止、販売額などを定めた法を規定し、競争なき社会を作り出そうとしました。それこそが安定をもたらすと考えられたのです。

都市の住民たち 「商人」



<商人>

成立当初から中世都市の主役は商人でした。中世都市は、まずもって商業的(非農業的)集落だったのです。商人は大きく二種類に分けられます。ひとつは地域間交易を行い、大規模な経営をする遠隔地商人、もうひとつは地域内、都市内での活動を主とする小売商でした。

当時、遠隔地商人の商売は、頻繁に出没する野党や追剥のため非常に危険であり、そのため非常に不安定でもありました。このため、遠隔地商人は自力救済の時代に自分たちの商売の安定を求め、相互扶助の団体を結成しました。この団体が後に商人ギルドを結成する前身となります。また、遠隔地商人に一歩送れて小売商たちも、自分たちの安定と安全を目指してギルドを結成していきました。

前へ後ろへ-破城槌

城砦を攻めようとしている指揮官にとって、もっとも安上がりだった攻城兵器は破城槌でした。もっとも単純な破城槌は、切り倒した木を横に倒して、兵士に担がせるだけでよかったのです。強化された破城槌の先端部分には、鉄の塊が装着されていて、破壊力を高めていました。また多くの場合、破城槌は車輪の付いた可動式の小屋を備えており、兵士たちは比較的安全な場所から攻撃することができました。しかし、この兵器では目標に接近しなければ使用できないため、破城槌の使用前には堀を埋め、遮蔽物を取り除く必要がありました。


ねじれ式と平衡錘式-投石機

防衛側に、大量の備蓄食料があり、兵士の士気も高く降伏が望めない場合。あるいは、何らかの理由で短期決戦の必要があるとき。攻撃側は多数の攻城兵器を動員しました。決戦前にも、威嚇や汚物投下のために投石機などは使用しましたが、最後の総力戦に至ると様々な種類の攻城兵器が運用されました。 



<投石機>

攻城戦で使用される投擲機は、そのほとんどが石などを飛ばして攻撃することから、投石機と呼ばれます。投石機には二種類ありました。ねじれ式投石機と平衡錘投石機です。

前者は、古代から使われているもので、以下のように投擲を行いました。動物の毛や腱、植物製の紐などで作った弾力性の高い太綱に、腕木を装着し、それを強引に地面まで引いてからはなしました。この形の投石機の短所は、射程を長くしようとしても、ねじれを利用していることから大型化するのが難しいこと。そして、威力を高めさせると綱の寿命が縮むことでした。

平衡錘投石機は、中世になってから発明されたもので、てこの原理を利用したものであったため、錘を重くしたり、腕木の長さを変えれば簡単に威力を増したり射程をコントロールすることができました。しかし、ある程度大型で取り扱いが面倒であったため、しばしばねじれ式投石機と併用されました。

 


坑道作戦

城砦の弱い一部分を崩壊させることが出来たなら、攻め手にとってこれほど好都合なことはありません。これを実現させたのは、専門家集団による坑道掘りでした。城の攻めては、城の弱点を見分けられる技術者と工兵の一団を高額で雇い入れました。彼らは、破壊の目標地点の下に坑道を掘り、穴が崩れないように材木の支柱を設置します。そして、掘られた坑道の中に可燃性の強い藁や豚の油などを詰め込みました。そこに火をつけると坑道は潰れ、その上にあった城壁は崩壊しました。坑道を通って部隊を城内に投入し、戦闘を開始することもなくはなかったようですが、稀な作戦だったようです。

 

篭城側は、地面に水を張った鍋を並べることで、敵の坑道を発見することができました。坑道に対抗するためには突撃部隊を送り出して坑道を埋めるか、防衛側から敵の坑道とぶつかるように坑道が掘ったりしました。坑道を探し当てるのは困難でしたが、もし探し当てられれば、防衛側には大きな助力になりました。坑道を掘るのには多くの費用と時間を要したからです。


封鎖の中で

防衛側の篭城が始まっても、すぐさま石弾が飛び交う戦闘状態に入るのではなく、攻撃側は城を兵糧攻めにすることを第一目標としました。兵糧攻めは、攻撃側の補給が万全で、且つ城の封鎖が完璧に行われると成功しました。しかし、兵糧攻めが長引くと、攻撃側の陣営も疲労してしまいましたし、士気が下がることで脱走兵も出し始めます。そして、通常防衛側より多人数の攻め手に供給する食料が常に万全にしておくのは非常に困難でした。また、攻め手の側に伝染病が蔓延することも稀ではなく、酷いときには攻撃側の軍勢の敗走を招きました。そして、篭城側が冬まで持ちこたえると、ほとんどの場合攻め手は陣を解かなければならなくなりました。冬の攻城戦は、安定した居住空間を持たない彼らにとってに明らかに不利だったのです。

また、攻撃側はただ城が飢えるのを待つだけでなく、さまざまな行動をとって降伏を早めさせようとしました。攻撃側が行った篭城側への行動として大きかったのは、水の補給の断絶でした。城内に井戸があり、それが正常に機能していると兵糧攻めには時間がかかりましたが、水を絶たれれば城は長くは持ちません。攻め手は、家畜の死骸や排泄物を投石器で城内に放り込んで、篭城側が使っている井戸や水槽などの水を腐らせ使い物にならなくしました。また、これにより伝染病を引き起こすことも狙いのひとつでした。また、城が外部から水を水道管などで引き込んでいる場合は、これ幸いと破壊したのです。

 


攻城準備-篭城準備

ヨーロッパの年代記は、中世を通して数多の戦争があったことを今に伝えています。クレシー・ポワティエ・アザンクールなどの非常に有名な戦闘は、そのほとんどが多くの兵力を平野でぶつけ合った会戦です。しかし、当時の戦闘の主役は小貴族や騎士たちの間で、あるいは国際戦争のさなかに繰り広げられた攻城戦でした。地域の中心である城を手中にすることは、その地域までも手に入れることに等しかったのです。

 


<戦闘までに>

敵の降伏勧告を突っぱねた都市や城が、攻城戦に際してまずしなければならなかったことは、食料の確保でした。篭城を控えた城には、保存の利く穀物や塩漬けの肉類が大量に運び込まれました。また、水も篭城に欠かすことのできないものでした。事実、水源が絶たれると、城は一週間と持たなかったのです。井戸や水槽が何かの理由で使えなくなったときのために、葡萄酒なども大量に運び込まれました。

食料や水の備蓄と共に重要だったのは、木材や鉄、油などの物資の備蓄でした。木材や鉄は、簡単な矢や、槍の作成、城の補完工事などに使用され、油は熱して敵に浴びせかけるために貯められました。そして、もちろん守備兵も城に入れなければなりませんでしたが、これは多ければ多いほどよいというものではありませんでした。攻城戦において、圧倒的な優位にあった守備側は、上手くすれば攻め手の10分の1の兵力でも城を守りきることが可能であり、何より貴重な食料を減らさせないために、大人数の篭城は危険だったのです。そのため、篭城に際して、老人や女子供など戦闘能力の無い弱者はしばしば城外に追い払われました。

城や都市の攻略に先立ち、攻撃側はまず包囲予定の城の門番や守備兵、時には総司令官の買収を狙いました。これが成功して、攻城戦に入る前に攻防の決着がついてしまうこともありました。相手が簡単には買収されないときは、策略を使って城を奪うこともありました。数人の城の人間を捕らえ、彼らの服を着た潜入部隊を組織し、敵が防御体勢に入る前に城を乗っ取ってしまうこともあったのです。これらの策略が成功しなかったときには、攻撃側は長い時間と大変な労力をかけて城を包囲しなければなりませんでした。


フランク王国の分裂

フランク王国、西方世界の覇者にも終焉の時が近づいてきました。



<フランク王国の分裂>

814年、西ローマ帝国皇帝にして西方世界の覇者であったカール大帝が死ぬと、広大な国家の帝位は息子ルートヴィヒ(独語読み、仏語ではルイ)に委ねられました。彼にはロタール、ルートヴィヒ、ピピンという三人の息子がいました。817年、彼は長子ロタールに帝位を継がせ、後の二子は領土を与えられるもののロタールの宗主権に入ると定めた「帝国計画令」を出しました。

しかしこの6年後、ルートヴィヒは新たに生まれたシャルルへの土地相続のために「帝国計画令」を自ら反故にしてしまいました。これにより、兄弟間、父子間の不和を招いてしまいます。840年に王ルートヴィヒが死去した後も争いは収まらず、843年のヴェルダン条約においてようやく兄弟間の戦争は終わりました。これによりロタールはフリースラントからイタリアまでのフランク王国中部(中部王国)を治め、ルートヴィヒはその東の王国領(東フランク王国)を、シャルルは西側(西フランク王国)を、というように王国は分割されました。

ロタールの死後、彼の息子3人に領土は分けられましたが、結局870年のメルセン条約により、イタリアを除く地域は東西フランク王国に吸収されました。カロリングの血筋はこの後もしばらくは西方世界を支配しましたが1000年までに王家は断絶しました。



いったん、ここまでで通史で紹介するヨーロッパ史をストップします。次回からは、今まで途中になっていたカテゴリの続き、もしくわこれまで紹介してきた中世初期の政治、社会、経済について記していこうと思います。