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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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▲火刑に処されるカタリ派の信者
シモン・ド・モンフォールはカルカソンヌ陥落後も、十字軍の総大将としてカルカソンヌを拠点に戦闘を続けましたが、十字軍の主力であった諸侯の家臣団の多くは、トランカヴィル家を討ち遠征の目的は達成されたとしてさっさと引き上げていってしまいました。しかし、カタリ派を擁護する南フランス騎士の一部は、堅固な城砦に立てこもりなおも抵抗を続けていました。十字軍の総大将として、彼が始めに取りかからねばならなかった仕事は、これらの城をひとつひとつ攻略していくことでした。
1210年6月、要害の地にそびえるミネルヴの攻略にかかります。ギョーム・ド・ミネルヴの指揮する守備兵に守られたこの城への攻撃に際し、シモン・ド・モンフォールは一日の経費が20リーヴルも掛かる投石機を用いて、6週間に渡る長期の包囲を行いました。この投石により敵の水源への道が絶たれたことが勝利の要因となりました。7月22日、守備兵が自由に立ち去ることができる、異端者はカタリ派の信仰を捨てる限りにおいて除名されるという条件の下で、ミネルヴは降伏しました。しかし、この約束にも関わらず150名余りの信者は信仰を捨てるよりかは死を選び、彼らは生きたまま焼かれたのです。
同年の8月、シモン・ド・モンフォールはまたも高所に立つの難攻の城砦、テルムを包囲します。しかし、こちらの戦いでは守備隊の方でも投石機を動員しており、戦いはミネルヴのときのようには進みませんでした。結局、3ヶ月間包囲を続けても城は依然として落ちなかったのです。夏の終わりから始まった戦いも、そろそろ冬を迎えようとしていました。冬の戦いではしっかりした拠点のない攻城側が圧倒的に不利です。
11月、長期の包囲が功を奏し、水源の枯渇したテルムから和睦がなされましたが、その内容は満身創痍の十字軍への撤退勧告とも言えるものでした。すなわち、城は明け渡し、城内の者は自由に退去できる、そして翌年の復活祭に城は元の城主に戻されるというものです。しかし、友軍に続々と見捨てられていたシモン・ド・モンフォールは、この条件を飲みました。しかし、和睦締結から城の明け渡しまでの間に雨が降ったのです。当然のことながら、テルムは和睦案を破棄します。
こうして、十字軍には撤退の道しかないように思われていた11月22日、シモン・ド・モンフォールの軍勢はテルムから物音ひとつしなくなったことに気が付きます。十字軍が恐る恐るテルムへ入ると、そこでは守備隊やカタリ派信者たちが死に絶えていました。和睦申し入れの日に降った雨で、確かに井戸は満たされたのですが、その井戸に死んだ鼠が入っており、城内の者は赤痢のために全滅したのです。この後も、シモン・ド・モンフォールはいくつかの山城を攻略し、南フランスにおける地盤を確固たるものにしていきました。
▲カルカソンヌを追われるカタリ派
カタリ派への教会の態度が変化したのは、教皇特使ピエール・ド・カステルノーがトゥールーズ伯レイモン6世を破門した後、何者かに暗殺されたことがきっかけでした。下手人は不明でしたが、当然のことながらレイモン6世が犯人だとされました。1209年、教皇インノケンティウス3世はフランス全土の高位聖職者、諸侯、騎士らに向けて異端撲滅のための大号令を発します。これを受けて、ブルゴーニュ公を筆頭としてフランスの名だたる諸侯や司教らが、30万とも言われる大軍を引き連れて集結地のリヨンに続々と乗り込んで来ました。この前代未聞の大軍を前にして、レイモン6世は教会への謝罪を行い、以後異端撲滅に協力し、十字軍に参加するという約束で破門を解除されました。十字軍は攻撃目標を、南フランスのナンバー2、カルカソンヌとベジエの副伯、トランカヴィル家のレイモン・ロジェに定め直します。
十字軍は副伯領の主邑のひとつ、ベジエをたった一日で陥落させました。ここで、ひとつ問題が湧き上がります。ベジエ市民の中から、異端者と正統カトリックの信者をどうやって見分けたらよいのかという疑問です。これには、シトー修道会の総修道院長であり、この度の十字軍の総大将であるアルノ・アマルリックが答えました。「全てを殺せ、神は神のものを知りたまう」つまり、神は正統カトリックの信者だけ、あとで天国へ導いてくださるのだから、見分けのつかない異端者を逃がす危険を冒すよりかは、住民を根こそぎ血祭りにあげた方がよいのだ、と。こうしてその数2万とも3万とも言われるベジエの市民は、老若男女の如何を問わず虐殺されたのです。
血なまぐさい殺戮の後も十字軍の勢いは衰えず、次いで彼らは副伯のもうひとつの主邑カルカソンヌへと進軍します。こちらでは、副伯レイモン・ロジェ・トランカヴィル自ら指揮した篭城軍が健闘し、十字軍は2週間に渡る包囲を余儀なくされます。戦闘の決着を着けたのは夏の陽光でした。カルカソンヌの井戸が、南フランスの容赦ない日差しを受けて干上がってしまったのです。篭城軍は已む無く降伏し、副伯レイモンは捕虜となり、その3ヶ月後、赤痢を患い獄死しました。
こうして南フランスで権勢を誇ったカルカソンヌとベジエの副伯、トランカヴィル家は政治舞台から抹消されます。十字軍内では、この副伯の継承者を誰にするかを決定するために会合が持たれました。当時の南フランスは、ローマの伝統を受け継いだ裕福な大都市が多くある豊穣の土地であり、貴族たちにとっては垂涎の的であるはずでした。しかし、副伯の継承を推薦された大諸侯は、自分たちは異端を討伐しに来たのであって南フランスの土地を奪いに来たのではないからと理由を付け、現在の勢力バランスを崩さずにはいられないであろうこの大封土の受領を拒否しました。そこで、目を付けられたのが遠征に参加していた一貴族、シモン・ド・モンフォールでした。さて、一夜にして平凡な領主から、強大な副伯領の主人となったシモン・ド・モンフォールですが、彼の前途は安寧なものではありませんでした。