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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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11世紀を通じて石造の城は増加してゆき、12~13世紀になると城は石造のものが一般的となります。石造の城は新たに建造される事もあれば、元々あった木造の城を改築して石造にすることもありました。フランスのロッシュ城は11世紀に石造の城として新設され、イングランドのヨーク城は11世紀の建設当時は木造でしたが、13世紀に石造に立て替えられました。12世紀に一般化した石造の城は、石造の矩形塔(キープ)を外壁で囲む形を基本にしており、イングランドでは「シェル・キープ」様式と呼ばれました。
城の石造化の背景にはヨーロッパ世界全体での経済発展がありました。農業の躍進は人口の増加を招き、人口が増加したことによって開墾や農地の拡大が活発化するという相乗効果は、余剰作物と非農業人口の増大を可能にし、各地には余剰産物を売買するための市場を中心として都市が勃興します。農民の収穫や、商人たちの支払う通行税によって生計を立てていた領主たちは、この経済発展の恩恵を存分に受け、石造の城建築という莫大な費用のかかる事業にも着手できるようになったのです。
11世紀末以降の城の発展には、十字軍を媒介にしたイスラム文化の流入の影響もありました。第一回十字軍へ参加した農民や騎士たちは、エルサレム奪還後にそのほとんどが故国に帰ってしまったため、残された聖地の防衛はエルサレム王国などの十字軍国家と少数の騎士修道会に託されました。僅かな騎士だけで広大な聖地を防衛する必要があったヨーロッパ人は、城を用いることで兵数の少なさを補ったのです。騎士たちは現地のギリシア人やアラブ人、トルコ人などの築城技術を学び取り、自分たちの戦闘経験も活かして城を改築・建造していきました。その築城技術の一部は十字軍帰還者らによって輸入され、多角形や円形の塔やキープがヨーロッパの城塞に導入されていくようになったのです。角の部分が脆い矩形の塔に対し、多角形や円形の塔には死角がなく、丈夫であるという利点がありました。1215年にジョン王に包囲されたロチェスター城は、陥落後にキープが円形に再建されました。
キープを囲む防護壁が木製の柵から石造の城壁に代わり、城壁自体の防衛力が増していくに連れて、城内には城主の居館をキープとは別に建てることも可能になっていきました。城壁内にある程度の空間を備えた城には、城主一家の住処である居館や炊事場、厩、武器庫など数種の建造物がキープとは独立して建てられました。居館が独立したことにより、城主の住環境は飛躍的に改善しました。もう、キープ独特の狭い窓や冷たい石壁に悩まされることなく、広い食堂でゆったりと食事できるようになったのです。
11世紀以降、フランスではシャテルニーと呼ばれる、城を中心として一円的に広がる領地が形成されるようになります。この時代に、城はそれまでの辺境の防衛、民衆の避難所としての性格を薄め、一定の領域を統治するための支配の道具としての意味を強めていったのです。
騎士の前身となったのは、ラテン語でミレスと呼ばれた人々でした。彼らはフランク時代に有力者に仕える職業戦士としてその身分を形成していきました。初期においては必ずしも騎乗していなかったミレスは、戦場での歩兵と軽装騎兵が果たす役割が小さくなるにつれ、重装騎兵としての装備を身に着けるようになり、兜、鎧、剣の他に軍馬と騎槍(ランス)が彼らの基本装備となっていきます。騎士と馬との関連性はフランス語のシュヴァリエ(chevalier)が馬(cheval)を、ドイツ語のリッター(ritter)が騎乗(ritt)を語源としていることからもわかります。ちなみに英語のナイト(knght)は主従関係から来た下僕(cniht)という語を語源としています。
当初、彼らは農民と大差ない広さの土地の所有者でしたが、装備一式を自前で用意するためにより多くの土地が与えられるようになります。時代の流れとしては、貸し出された(という名目であった)土地は大は伯領から小は村まで世襲される傾向にありました。そうして彼ら下層の職業戦士は小領主として封建制の末端に組み込まれていきます。彼らのような、自身に仕える封臣を持たない小領主や、有力者の家に住み着いて彼らの手足となって働いた家中騎士たちが狭義の騎士です。ドイツにおける家中騎士は特に家士(ミニステリアーレス)と呼ばれ、領主たちの役人として力をつけていきました。また、彼らの中には皇帝直属のミニステリアーレスになることで封土を受け、諸侯と変わらぬほどの権力を持つに至るものまでいました。
戦士たちを統制しようとした教会の騎士に対するキリストの戦士化や、南仏などを中心に騎士的宮廷文化が築かれていくことなどの相互作用として、騎士は素朴な戦士集団から、崇高な理想を掲げた階級へと変化していきます。そして13世紀までには、一般に想像されがちなイメージ、すなわち「貴族すなわち騎士である」という騎士制度とも言えるものが確立します。1184年、マインツで行われた聖霊降臨祭の際、皇帝フリードリヒ・バルバロッサの二人の息子が騎士に叙されたことは、騎士身分が下層戦士から王侯貴族まで広がったことを示すよい例です。広義の騎士は彼らのような全ての貴族と、彼らに仕える家中騎士で構成されています。しだいに、騎士になるための教育、訓練、そして騎士叙任などが一連の流れに乗っ取って行われるようになっていきました。騎士志願者は、親族や有力者の下で小姓として働き、戦時には主君の従士となり、時が来れば儀式化された叙任式を迎えて、晴れて騎士となったのでした。
つまり中世の騎士と一口にいっても、その姿は時代やその騎士自身の境遇によって大きく違うものだったのです。圧倒的多数の騎士は、小さな領地をもつ(あるいはまったく領地をもたない)貧しい人々で、大所領を持ち封臣を幾人も従えているような騎士(貴族)はごくわずかでした。彼らはまさに、中世の軍事制度、社会制度の変化の中で生まれ、変容を遂げていったのです。
▼共に14世紀、フランスで描かれた騎士
城砦を攻めようとしている指揮官にとって、もっとも安上がりだった攻城兵器は破城槌でした。もっとも単純な破城槌は、切り倒した木を横に倒して、兵士に担がせるだけでよかったのです。強化された破城槌の先端部分には、鉄の塊が装着されていて、破壊力を高めていました。また多くの場合、破城槌は車輪の付いた可動式の小屋を備えており、兵士たちは比較的安全な場所から攻撃することができました。しかし、この兵器では目標に接近しなければ使用できないため、破城槌の使用前には堀を埋め、遮蔽物を取り除く必要がありました。