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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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11世紀、中世都市を作り上げた人々は伯爵や司教などを相手にとり、自ら自治を行うために戦いました。このコミューン運動は市民と領邦貴族との争いでした。中世後期になると、都市の支配をめぐりこんどは市民内部で争いが起きます。当時、市政を司っていたのは一部の富裕層だけでした。中世盛期の経済発展によって財を成した彼らが市参事会員の大多数を占めました。
14世紀になると各地でこのような寡頭制的な政治を行った富裕層(都市貴族・門閥)と市政への参入を狙う職人や労働者たちとの間で争いが頻発します。ツンフト闘争の始まりです。しかし、この闘争は市民全体の市政参加を求める革命のようなものではなく、あくまでも彼らが市政への参加を求めて立ち上がったものでした。
【フィレンツェの場合】
イタリア諸都市の代表としてフィレンツェで起こったツンフト闘争、チョンピの乱について見て行きましょう。フィレンツェは毛織物業と金融業で栄えた都市で、有力な商人ギルド、羊毛ギルド、両替商ギルドの構成員だけで市の役職の7割以上を占めていました。それに対して多くの職人やチョンピたちは市政への参加は認められていませんでした。チョンピというのは毛織物の製造過程において準備段階の仕事をする日雇い労働者です。
1378年、彼らはついにその不満を爆発させます。市庁舎を占領し、羊毛ギルドに押入って書類を焼き払い、下層民からなるギルドを立ち上げたのです。しかし、この反乱は武器を取った上流市民たちによって数ヶ月で鎮圧され、ギルドも3年ほどしか続きませんでした。結局、チョンピの乱は失敗に終わり都市貴族の支配は変わりませんでした。
▼魚商人ギルドの親方会議
次回はドイツとフランドルの都市におけるツンフト闘争についてです。ツンフト闘争でとりあえずギルド関連の記事は終了。騎士の本を買ったので、次はそこら辺を記事にしようと思ってます。頭が痛い…。
親方になるためには遍歴の旅に出て修行を積まなければならない。このような条項がギルド規約に追加されたのは、15世紀中ごろからです。その後、職人の遍歴は義務化の流れに乗って増えていくのですが、それ以前にも、自主的に遍歴の旅にでる職人たちがいました。
まず、遍歴職人の走りとも言えるのは石工たちでした。中世に入ってから市壁や教会堂など大規模な石造建築が増えていきます。しかし、そのような建築物を都市内の石工だけでつくりあげることは不可能です。かといって、建設が終わればほとんど不要になる職人たちを多く都市内に住まわせるのは無駄でしかありません。(職人たちは食っていけなくなることでしょう)そこで、石工たちは、大規模な建設のある都市で数年仕事をした後に、また違う都市へと移動して言ったのです。鐘を造る際に大量に必要になる鋳物職人も、石工たちと同じように旅をしました。
15世紀に入ると状況が変わってきます。中世の最盛期を過ぎ、「中世の秋」とも言える時代に突入したヨーロッパでは人口増加が止まって、経済的発展を見込めなくなる都市が増えました。その結果、流入してくるあたらしい都市民に対し、ギルドは既存の利益を守るため親方株(つまり親方になる権利)の制限を始めました。この結果、都市には親方への昇進の見込みがない職人や徒弟があぶれることになります。都市はやっかいなことに、不満たらたらの人々を抱え込むことになったのです。
この問題の解決策として、職人の遍歴が行われたのです。彼らは1年から7年の間、各地の都市間を遍歴し働き口を探すようになっていったのです。必要に迫られた職人の行動が、やがてギルドの慣習となり、法律となっていくのです。これは、一時的に市内の不満分子を取り除くという効果の他に、経済発展の止まってしまった都市から、いまだ拡大を続ける都市への労働力の提供という効果をもたらしました。
▼聖堂を建てる石工 ▼宿屋に向かう旅人
ツンフト内では基本的に自分の店を構えられるのは親方だけでした。職人は親方の下で働き、徒弟は親方の手伝いをしながら仕事を覚えていきました。徒弟は縁者が徒弟金を払い、親方のもと衣食住を世話してもらい、技術を教えてもらう代わりに親方のために下働きをしました。徒弟期間は2~4年ほどで、長いものでは6年続きました。徒弟期間を終えればすぐに店を持てて営業に入れるわけではなく、ほとんどは職人として町の親方の下で働くか、遍歴の旅に出なければなりませんでした。職人が親方になるためには一定の技術力(親方作品マスターピースの作成など)とともに親方加入金を支払えるだけの資金力も求められました。親方はツンフトの幹部として新規親方の採用、組合長の選出、規約の決定などの権利を持ちました職種によっては(例えば刺繍工や職工など)親方の未亡人など女性の親方が認められる場合もありました。
親方は自分の自宅権仕事場で職人や徒弟とともに暮らしました。彼らは家族の一員であり、その中でも親方は家長権を握っていました。親方の徒弟への体罰は認められていましたが、いくつもの規則でいきすぎないように限度を設けていました。例えば、1276年のアウグスブルクの都市法には「親方は徒弟を殴ってもよいが怪我をさせてはならない」と定められています。また、出血の有無を取上げる法や、殴る回数に上限を設けた法令もありました。
さて、彼らの給金にはどのような差があったのでしょうか。13世紀頃のフランスのオーギュスタン修道院建設のために働いていた石工を例にとってみます。すると日給は、親方:24(単位ドゥニエ以下同)、職人及び手伝い労働者:12となっています。つまりだいたい2:1です。また建設にかかわった他の職種の親方も、親方間での給金はほぼ変わらず、徒弟との比率も同じでした。
ギルドの中で特にものを作る職人たちのギルドを手工業者ギルド、あるいはツンフトと呼びます。ツンフトとはドイツ語で「適当なもの」というような意味ですが、それが「社会の秩序」といった意味に変わっていきました。ツンフトはこの言葉どおり、まさに職人たちの間に秩序をもたらす組織でした。職人はギルドによって社会的な拘束を受け、徒弟は親方の下働きをして何年も過ごさなくてはなりませんでしたが、ギルドへの加入は商人や貴族などといった他の身分(多くの場合、彼らより高い)と張り合っていくための手段でもありました。彼らは親方、職人、徒弟で構成されていましたが、今回使う職人は一般的な手工業者(つまり親方、職人、徒弟をまとめて)を職人として書いていきます。
さて、ツンフトの主な役割を見ていきましょう。ツンフトは基本的に他より突出した職人を嫌いました。そのために細かく分化された他の職人の仕事を請け負うことは禁止されていましたし、労働時間も制限されていました。有利な条件で商談できる売買相手が見つかると、職人はそのことをツンフトに知らせる必要があり、これらの規則に反すると共同体へ罰金を支払わねばなりませんでした。また、ツンフトは職人の作った製品を保証し、ごまかしや不良品があった場合には市当局ばかりでなくツンフトからも罰せられ、違反が重なるとツンフトを追放されました。普通、当局はツンフト未加入の職人に対し営業を認めていなかったので、ツンフト追放はまさに「経済的な死刑と同じ」(『中世への旅 都市と庶民』H.プレティヒャ)だったのです。
大都市のギルドや、規模の大きいツンフトは各自のギルド(ツンフト)会館や専用の居酒屋を持っていました。会館にはギルドの資金が集められ、また集会や宴会もそこで行われました。祭の際には一緒になって行進し、前回書いたような社会的、宗教的な活動を共にし、仲間同士を助け合うツンフトはまさに彼らの小宇宙(中世都市)の中のさらに小さい世界でした。
中世の都市には、同業者の集まりであるギルドが作られました。ギルドの構成員は、ともに祭事や宴会に参加し、仲間の埋葬に責任を持ち、相互扶助の義務を負っていました。社会保障制度などあるわけがなく、自力救済が基本の時代ですから、相互扶助団体の持つ意義は相当強大きなものであったろうことは簡単に予想できますね。怪我や病気になって仕事ができなくなった仲間、老人や構成員の遺族の生活を支えていたのはこのギルドでした。
彼らは職業という社会的関係で繋がるとともに、同じ守護聖人をもつなど宗教的関係によって結ばれていました。ギルドでは新しい職人の教育や技術の継承が行われ、彼らは教会に自分たちの祭壇を持ち、ミサをあげたのです。また、夜回りや見張りなど市民の義務がギルド単位で行われたり、市政参加の際にも各ギルドから代表者が市参事会を構成するなど、ギルドは行政的な区分でもありました。
中世ヨーロッパを形成するほかのものと同じく、都市に生まれたギルドは古代ローマとキリスト教の影響の上に成り立ったものでした。古代ローマには同業者組合コレギウムがあり、これがキリスト教の受け入れとともに宗教的に結び付けられた相互扶助集団へと変化していったのです。このような流れを受けて、まず遠隔地交易を共にすることで団体を築いていった商人が商人ギルドを、次いで都市に定住する職人が手工業者ギルド(ツンフト)を形成していきました。
試験が終わりましたので更新を再開したいと思います。
コミューン運動は、都市住民が中心となって展開したもの、司教や伯などの都市領主が先導したもの、都市領主と住民が協力して行われたものなど様々でした。また、武力を伴っての、市民による強硬なコミューン運動は例外として知られるだけであり、多くの都市では都市領主が頃合を見計らって運動を懐柔していきました。このように運動形態が多様であったため、都市住民の自治の具合や領主の権力範囲などは都市によって様々なものとなりました。また、王権とコミューン運動との関わりも様々でした。たとえばフランスでは一時、王領地内でのコミューン運動は制限されましたが、後には経済的利点などを考慮して奨励されました。これは、コミューン運動の容認の見返りとして都市に軍役を義務づけ、王を頂点とする封建制のピラミッドの中に都市を取り込もうとしたのです。