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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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石工


▲中世の石工

世界中をあちこち旅して廻り、歴史に残る偉業を残したいとは思わないかね?そうは思っても、一昔前の遍歴の騎士よろしく、戦いの日々に身を投じるのはちとごめんときた。石工は、そんな君にぴったりの仕事だよ。

なんといっても、石工の作品は永遠に残るんだ。都市を守る堅固な城壁がいらなくなるわけないし、この世にキリスト教徒が住んでいる限り、世界には教会が必要だ。


城壁や教会堂のほかにも、建てるべきものはたくさんある。信仰に身を捧げる修道士のための、静かな祈りの場所である修道院や、高貴な方々のための新しい城砦なんかだ。でも、修道院や城砦がいくつも並んで建てられることなどそうないし、ひとつの都市が連続して2つも3つも大聖堂を建立することもない。そんな余裕はどんな都市にもないからね。だから、石工は仕事がありそうな場所に、自分から赴いていく必要がある。だからいろんなところを旅するのさ。もっとも、安定した生活を望むのなら、都市の名士のために邸宅やギルド会館などの建築を担う、都市の石工として生活するという道もあるんだがね。

だが、自分の技術を最大限に駆使して、万民のために仕事をしたいと思うなら、目指すべきは大聖堂の建設だ。もちろん、建築を計画を立てるのはお偉いさんだ。名士たちをはじめとする都市住民の寄付が、莫大な費用負担の多くを占めるし、大聖堂の設計を施すのは建築家だ。

でも、集まった資金と設計を基にして、無骨な石の塊を、洗練された聖堂へと生まれ変わらせるのは、なんといっても俺たち石工なんだ。天まで届くかのような尖塔や、ステンドガラス。いくつもの柱に囲まれた大伽藍を見た人々は、神への信仰心を新たにすると同時に、これを建てた俺たちへの尊敬の念を胸に抱くに違いない。


君が徒弟期間を終えて、晴れて職人として遍歴に出る際には兄弟団(中世における相互扶助団体。構成員はしばしば同業者組合に同じ)から君独自のマークを与えられる。このマークを、自分が削った石に掘り込むことで、君の仕事量は一目瞭然になるわけだ。仕事量は給金支払いのための大切な指標になるし、石材の品質保証にもなる。そうそう、給金といえば親方は職人の倍の給金が出るのが普通だから、せっかく石工になるのなら親方を目指したいものだね。

最後に、石工になるにあたっては注意することがある。石工の仕事には危険がつきものだ。水と小麦しか扱わないパン屋と違って、石工は鋭い工具を扱うし、建築の時には高い位置で仕事をしなければならないこともあるから、転落の危険だってある。利腕を負ったりしてしまえばそれまで、石工としてはもう役立たずだ。

そんなとき頼りになるのは兄弟団。だから、職人なら誰でもそうだが、特に石工になるんだったら、兄弟団の仲間たちとの関係を良くしておくように忠告しておくよ。特に
俺とは仲良くしておいた方がいいと思うね。

ドイツ、遍歴石工の集まる宿屋にて
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私有修道院

修道院というと、貴族権力から独立した、教会組織に属したものであると思いがちです。しかし、ほとんどの修道院が教皇の指導下に置かれるようになるのは、意外にも遅く11世紀になってからのことです。西ヨーロッパに初期の修道院が建てられてから実に500年の間、教皇権の及ばない修道院があったのです。これらの修道院は、王や貴族の支配の下で建立されました。今回は、特に9世紀頃に活発だったとされるの貴族の私有修道院、自家修道院とも呼ばれるものについて紹介します。

自家修道院は、貴族が自らの領地内に創設した修道院で、これらの修道院では創設者やその祖先のために祈祷が行われ、創設者一家は私有修道院に埋葬されました。しかしながら、もちろん貴族たちは、死後の安寧だけのために、私費を投じて修道院を建てたわけではありません。

まず、修道院は創設者の子息を受け入れる養育の場となりました。これにより、兄弟間の遺産分割による領地の分散がいくらか食い止められました。また、女子修道院を創設し、結婚の予定のない娘をそこの院長として入れるということも行われました。驚くべきことに、たった12歳の少女が女子修道院の院長となることさえあったようです。

家族の一員が住む場所となるほかに、修道院は領地支配のためにも重要な役割を果たしていました。まず、修道院には創設者の宿泊を受け入れる義務がありました。自家修道院は、領地巡回の必要がある貴族の外泊施設の役割も持っていたのです。また、修道院は往々にして領主が投じた費用よりも多額の寄付を集め、創設者は自由にこの寄付金を利用することができました。また、文字の読めない領主も多かった時代に、読み書きのできる修道士を文書管理人や使者として使役できるのも、私有修道院から得られる利点でした。貴族はこのように、聖と俗、両面の利益のために、修道院を創設したのです。


「聖女の遺骨求む―修道士カドフェルシリーズ1」 エリス・ピーターズ




舞台は12世紀、イングランド。元十字軍戦士のカドフェルは、いまや老年に達し、修道院で自慢の庭園を管理することに日々の喜びを見出していたが、ある日、ウェールズの聖女の遺骨を引き取る遠征隊に加わることになった。そこで彼ら一行を待ち受けていたのは…

ミステリー小説ですので話の中身にはあまり触れないようにしますが、この小説は主人公のカドフェルを中心に、仲間の修道士たちや、在地の村人たちを主な登場人物として、村で起きた殺人事件を軸にして語られます。

この本の特徴のひとつは、描写の対象に王侯貴族や兵士ではなく、地主や自由農民、それに農奴たちといった社会の末端部分に生きる人々を多く含んでいる点です。騎士や軍人を主役とした小説は多いですが、この小説はそれらとは一味違ったものになっています。

また、推理小説的な展開に、巧妙に中世の人々の、迷信や信仰、身分関係などを織り込むことで、現代推理小説にはない面白みもあります。テンポがよい痛快活劇というわけではありませんが、中世好きならぐいぐいと話に引き込まれていくこと請け合いの一冊です。


粉挽き屋、あるいは水車小屋管理人


▲中世の風車

粉挽き人になりたいだって?止めておいたほうがいいと思うよ。なんていったって、粉挽きは村皆の憎まれ役なんだから。粉挽きは村から離れて、一人っきりで水車小屋を管理している。だから周囲の目のないところで農民から集めた小麦の目方をごまかしているに違いないと思われているのさ。

もっとも、領主のバナリテ(水車小屋、パン焼き竈など公共施設の使用強制)があるから、使用量を払って粉を挽いてもらうより、自宅の石臼を使いたいと思っている農民たちは、君が目方をごまかそうが、ごまかすまいが、粉引きの存在を憎々しく感じているんだけどね。


それでもいいと言うのなら、水車の管理権を委託してもらうために、まずは水車を所有する領主と契約を結ぶ必要がある。水車小屋を建て直したり、堰(水車の効率を高めるためにつくるんだ)を修繕したりする場合、ほとんどの費用を領主が払ってくれる。でも、粉を挽くための石臼やその運搬にかかる費用は、領主だけでなく粉挽きも負わなければならないよ。それから、水車や装置を動かす大小の歯車などは、粉引きが自前で修理、購入しなければいけないんだ。

人に憎まれて、なおかつ維持費のかかるだけの仕事なんて誰もやりたがらない。もちろん、この仕事には旨味がある。まず、粉挽きは村の共同体に属していないから、村長による下級裁判権の支配を受けない。農民たちの理不尽な訴えにも法的に悩まされることはないわけだ。

さらに、水車小屋の管理には水車用地の経営というおまけもついてくる。いや、おまけというには大きすぎるかな。この用地にはいくらかの耕作地や菜園、牧草地の他に、水車を回す河川の使用権も入っているんだ。粉挽きは川で魚を獲ることもできるのさ。領主権のひとつである河川利用権に守られた川で農民たちが釣りをしようものなら、たちまち罰金を課されてしまうのに比べ、すごい待遇だろ?


これだけの経済的優位にある粉引きは、当然ながら領主への貢納も大きい。でも、それを差し引いても粉挽きは農民たちとは比べられないほどに裕福だ。もし、君がそれほど野心家でなくて、出来るだけ人にも憎まれたくないのなら、都市の粉引き屋をお勧めするよ。都市内では当局の監視が厳しくて、粉挽きは下級役人のような位置づけになる。そもそも、穀物の売買や、家禽の飼育(穀物が飼料となる)が禁止されるから、たとえ目方をごまかしてもあまり利点はないんだ。

都市の粉挽きでは不満かい?まったく君は野心家なんだね。それならクレルヴォー修道院で水車小屋に空きがあると聞いたよ。受付係りの修道士ヨハネスを訪ねてみるといい。

フランス、シャンパーニュの修道院にて、1206年

ルイ9世の地方行政

第7回十字軍から帰還したルイ9世には、処理しなければならない国内問題が数多くありましたが、その中のひとつが地方行政官の引き締めでした。旧来からの代官であったプレヴォの職権の乱用を防ぐため、ルイの祖父にあたるフィリップ・オーギュストの御世に、フランスではより広範囲を治める代官が新設され、裁判権の代行、徴税、有事には徴兵などを執り行っていました。この代官は主に北フランスではバイイ、南フランスではセネシャルと呼ばれていたのですが、皮肉なことに彼らもまた、職権乱用で王を困らせるようになっていたのです。

この状況に対処するため、ルイは1254年に行政改革の大王令を下します。この王令は代官に対し慣習に基づいた適切な裁判をすることを求め、彼らの職権乱用を抑えるためのさまざまな項目が含んでいました。まず、賄賂による汚職を防ぐために、代官は自分の上司やその家族へ贈り物をすることが禁じられ、また反対に自分や自分の家族への贈り物を受け取ることを禁じられました。

また、管区内の住民との癒着が問題とならないよう、頻繁な配置換えがなされた他、代官の子息と地域住民の婚姻は禁じられました。さらに、代官には管轄地域内での不動産の所有が認められず、下級役人の増加により国庫負担が増え、代官の権力が肥大化しないように下級役人の数は制限されました。

彼らは代官職を退任しても全ての責任から解放されるわけではありませんでした。現役中、彼が執り行った業務に対する苦情や訴えを受け付けるために、元代官として自分自身、あるいは代理人が前の管区に留まる必要があったのです。退任直前を好機とし、職権乱用をして逃げ去ることは許されなかったのです。王領地の中で進められていた、このような地方行政制度の発展は、いまだ官僚組織として完成された域には達していたとはいえませんでしたが、中世後期の絶対王政を支えるひとつの柱となっていくのです。


聖職者の階位と業務-司教と司祭

中世ヨーロッパの世界において、人々はその生業から「祈る人」「戦う人」「働く人」に分けられていました。今回取り上げるのは「祈る人」についてです。キリスト教が世界を満遍なく覆いつくしていた時代にあって、彼ら聖職者は今よりはるかに大きな勢力として存在していました。祈る人はキリスト教の布教と、それに伴う聖職者の増加に伴い、体系化された組織をつくり、聖職者に階位を設けました。

最上の階位は司教で、彼らは初め都市部に多かったキリスト教徒たちの指導者でした。次にくるのが、宗教的職務は司教と同じながら、束ねるべきキリスト教徒が少ない司祭です。司教がローマ時代の属州の中心都市に住み、広大な司教区の信徒を指導したのに対し、司祭はひとつの村や都市をいくつかに分けた街区ごとに置かれ、直接的に信徒と交わるのが仕事でした。司教と司祭の下には、助祭や副助祭、侍祭、祓魔師、読師、守門などの階位がありましたが秘蹟(サクラメント)を行えるのは司祭以上のものに限られたため、彼ら下級階位の祈る人は司祭となるまでの修行過程と見なされ、業務も補助的なものでした。

司教の上には教皇や大司教がありそうなものですが、実際には大司教はただ大きな司教区、権力を持つ「司教」であり、教皇は「都市ローマの司教」でした。しかし、ローマが古の帝国の首都であり、また聖ペテロが初のローマ司教を勤めたことから教皇座は特別なものとされたのです。司教は広大な司教区を支配し、多くの司祭を統括することから行政的役割を持つことになります。免税特権を持ち、また王侯貴族から多くの寄進を受けた彼らは、しばしば聖界にいながら領主として台頭しました。司教は自分の管轄地において封建領主と同じように独自の裁判権を行使し、中心地の都市では司教座大聖堂(カテドラル)を保持しました。もちろん、司教一人で全ての業務をこなすことはできないので、都市には司教の補佐を勤め大聖堂を管理する聖堂参事会が生まれます。司教は新たな司教やそれより下の階位の聖職者への叙任権を持ち、俗界諸侯のように国王たちの顧問になったりもしました。このように当時の支配階級に属していた彼らの出自は(聖職者が少なくとも建前上は世襲がないことから)貴族階級ということが多々ありました。

司祭は上級貴族のような司教と大きく異なり、小教区の庶民たちの宗教上の導き手でした。司祭は信徒からの供物やお布施の何割かを自身の聖職録に当てていましたが、それでも生活ぶりは周りの農民と大差なく、司祭が農耕に従事するのは一般的であったようです。中世初期にはラテン語もままならないような司祭も多かったようですが、グレゴリウス改革などの諸変革を経てそのようなことは減っていったようです。

司祭の職務には毎週日曜のミサや祝日に行われる宗教行事などがありましたが、その他に新生児への洗礼、冠婚葬祭の儀式などがありました。ここからはまさに揺り篭から墓場まで、日常生活の全てに関係していた教会の姿を見ることが出来ます。先日新聞で、小説家の佐藤賢一さんのコラムで聖職者を取り上げていたのですが、それによると聖職者は今の公務員のような存在だったといえるそうです。洗礼は出生手続きであり、終油の秘蹟は死亡手続き、結婚まで教会の管理下にあり、中世で最小の行政区といえば小教区だったので確かにそう言えるかもしれません。

砂糖-この上なく甘く真っ白な

聖地への十字軍と、それに続く東方貿易の活発化によって中東からは数々のモノが流れ込んできました。砂糖きびの栽培・精製技術もそのうちのひとつです。ヨーロッパにもたらされた砂糖はまずもって薬品として扱われました。そもそも一般的に食用に出来るほど安価なものではなかった砂糖は、その純白の色合いやこの上ない甘さも手伝ってか、神秘的なものだと考えられていたのです。砂糖を薬品とみなす考えもイスラム世界から導入したようで、11世紀の医師イブン・スィーナーは砂糖を万能薬と見なしたいました。12世紀のビザンティン皇帝に仕えた医師も熱さましに砂糖漬けのバラの花を勧めています。イスラム流れの考えを用いて砂糖の薬用を説いたものもいましたが、もっと単純にその甘さと白さ、貴重さによって、砂糖には薬用効果があるはずなのだと考えられていたのです。かのトマス・アクィナスも断食中に砂糖を口に入れるのは、砂糖は薬品であるから問題ないといています。これによって何かと制約の多かった教会からの足かせが無かった砂糖は、近世以降大量に生産・消費されていくことになります。

さてヨーロッパでの主な砂糖の栽培地としては、キプロスやシチリアなどの地中海の島々がありました。砂糖の原料となる砂糖きびはある程度の高温を必要としたため、ヨーロッパの中では暖かい地中海気候の中でしか育てられなかったのです。収穫された砂糖きび砕いてから圧縮して汁を取り出し、その汁を煮詰めて結晶になったものが砂糖になりました。砂糖きび以外の砂糖原料として開発されヨーロッパ各地で栽培されるようになるビート(甜菜)が現れるのは、ずっと後の19世紀のことです。

砂糖は高級品として、それを用いる人々のステータスシンボルにもなりました。ヨーロッパのディナーを飾る一品に砂糖の装飾菓子が出てくるのはその現われです。蛇足ですが、ビートの登場までヨーロッパでは多く生産できなかった砂糖は、近世以降もその高級性を保ちます。しかし、カリブ海などで行われた大規模なプランテーションが発達し生産量が倍増するにつれて、一般大衆にも手が出せるものとなっていきました。

レコンキスタの英雄-エル・シッド

88056b74jpeg<エル・シッドの騎馬像、スペイン-ブルゴス

エル・シッドという渾名こそはロドリゴ・ディアスその人の生きた時代を端的に表していると言えます。エルというのはスペイン語の定冠詞、シッドはアラビア語のサイード、つまり主を意味します。彼はスペインの全キリスト教徒の、そして一部ではありますがイスラム教徒の守護者でもあったのです。レコンキスタの真っ只中に生きた彼の人生を追ってみることとしましょう。

ロドリゴ・ディアスは1043年、イベリア半島中北部、ブルゴスはビバル村の下級貴族の家に生まれました。15歳で父と死別した彼は、当時レオンとカスティリャ両国を支配していたフェルデナント1世の長男サンチョに仕えることとなりました。レオン・カスティリャといえば、後ウマイヤ朝の滅亡後統一が成されず小国分離状態にあったイスラム諸国から、貢租を受けていたようなイベリア半島随一の強国です。一騎打ちの決闘での功績を称えられカンパゾール(勇者の意)と称えられた彼の前には、サンチョ2世として即位した主人の寵臣として、順風満帆の未来が約束されているかに思えました。しかし、運命は彼に甘くありませんでした。

1072年、サンチョ2世は反対派の手で殺されました。王位は弟のアルフォンソ6世に転がり込みます。初めのうちエル・シッドはアルフォンソの姪ヒメナを嫁に貰うなど上手く立ち回っていましたが、政敵の讒言によって追放の憂き目に遭います。アルフォンソはエル・シッドに「サンチョ暗殺に関わっていない」という旨の宣誓をさせられたことを根に持ち、彼を追放したという話がありますが、どうやら史実に即していないようです。

ともかくエル・シッドはサラゴサのイスラム君主に仕えることとなりました。一見変なように思えますが、この時代のレコンキスタはまだ宗教色が弱かったためキリスト教徒とイスラム教徒が入り乱れて戦っていたのです。さてアルフォンソはといいますと、彼は着々と支配権を広げて行きましたが、窮地に陥ったイスラム諸国がアフリカのイスラム系王朝ムラービト朝に援軍を頼んでからは旗色が悪くなっていきます。ザグラハスの戦いで大敗を喫した王はエル・シッドを赦免し彼を頼ることにします。しかし、敗戦の記憶が薄れるやいなや王はまたしてもエル・シッドを追放します。

エル・シッドは二度目の追放を受ける前に支配していたレバンテ(イベリア半島東部の沿岸地帯)を平定し、1094年には長い包囲の後、バレンシアを占領します。アルフォンソの名の下の占領でしたが、実質的には彼が全てを支配していました。1092年に二度目の赦免を受けていたエル・シッドはまたも頼ってきたアルフォンソのところへ一人息子に手勢を付けて派遣しますが、その息子はコンスエグラの戦いで戦死しいてしまいます。その後もムラービト朝と戦い続けていたエル・シッドですが、ついに1099年その波乱の一生を終えます。英雄無き今、もはやキリスト教徒たちはムラービト朝の攻勢に耐え切れず、1102年、バレンシアから撤退します。この町がキリスト教徒の手に戻るまでは、実に130年以上もの時間を要しました。

「白衣の騎士団」 コナン・ドイル



数日前、近所の図書館で借りたものを読了しましたので紹介など。時代は百年戦争前期、主要登場人物は、イングランド南部の修道院出身の従騎士アレイン、同修道院を追放された問題児ジョン、古強者の射手エイルワード、そしてアレインの主人のサー・ナイジェルの4人です。この物語は彼ら4人が、時には荒っぽく時には紳士的に冒険を繰り広げる痛快活劇です。彼らがイングランドを旅立つときからスペインでの会戦、ナヘラの戦いの直前までがこの話の筋になっています。

この本を読んでいると、佐藤賢一さんの「双頭の鷲」を思い出します。こっちではチャンドスや黒太子エドワードを、またベルトラン・デュ・ゲクランやティファーヌ・ラグネルなどをイングランド陣営から見ることになります。両方の本を読むと、話の裏側で何が起こっているのか想像しながら楽しく読むことができると思います。

原著に忠実なのか、名前を何度もフルネームで書いていたり、台詞もまどろっこしいものがありますが、それも見方によっては古典(実際100年前の著作ですが)を読んでいるようで、中世っぽい感じに浸れるかもしれません。騎士道などからり美しく描かれていますので、軽く中世の本でも読みたいと思った方にピッタリの作品だと思います。姉妹本としてサー・ナイジェルの若かりし頃を描いた「ナイジェル卿の冒険」があるので、いずれ読んでみたいと思っています。

今回もttufさんのご紹介の本でした。素敵な本を教えてくださりありがとうございます!

パン屋

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     ▲中世のパン屋

都市に住んでパン職人として店を構えたいとお考えですか?それならば、市民たちから嘘吐き呼ばわりされることを恐れないことが肝心です。

町の人々や市当局は、あなたがパンの目方や麦の種類、品質を誤魔化しているのではないかと疑っています。市民の信頼を勝ち取るためには、堂々と胸を張って当局の審査に挑めるようなパンを作らなければなりません。


目方や麦の誤魔化しは論外ですが、それ以外にも基本的なきまりがあります。例えば、パン屋は原則1枚の銀貨(1デナリウスないし半デナリウス相当)の倍数に値する大きさのパンしか作ってはいけません。それよりも小さい額の貨幣はほとんどないからです。

飢饉のときはどうすればいいかって?そのときは組合ないし当局の決定に準じて、パンの値段ではなく目方を変更します。これは非常に面倒な仕事ですが、麦価格に応じた目方でパンを作れるようにならないとパン屋の仕事は務まりません。


もし、あなたが誘惑に負け法を犯してしまったら、それこそ城壁の維持費捻出に苦心している当局の思う壺です。初犯の罰金は銀貨60枚で済みますが、二度目の場合は120枚で、三度目のときはもはや容赦なく720枚の銀貨を罰金として支払わねばなりません。この額は、パン屋の二週間分の稼ぎよりも高いことをよくよく頭に入れておいて下さい。

また、大きな飢饉の後には、多少理不尽でも罰を負わされることを覚悟しなければなりません。都市の役人たちはいらだった市民をいくぶんか落ち着かせるのに我々を必要としているのですから。


都市行政府は市民が飢餓に苦しまないようにと、計画的に麦を買い入れています。しかし、計画が狂って在庫に余りがでてしまったとき、パン屋はに市が定めた幾分高い値でその麦を購入する義務もあります。先代のパン屋の中には、これに抗議した者たちもいましたが、結局のところ罰金を支払う破目に陥ってしまいました。当局には逆らわないほうが無難でしょう。また、都市のパン屋には、週に何日か町へと出向いてくる農村のパン売りというライバルがいます。特にあなたが低所得者向けのパンを中心に作っているとき、彼らは大きな障害となるでしょう。

嫌な話を聞いてパン屋になる気は失せてしまいましたか。しかし、パン屋はすばらしい仕事です。もう諦めてしまうと言うのはもったいない。パン屋は都市の全ての人々に必要な日々の糧を与える大切な職業です。

町の名士にはふかふかの白パンを、多くの市民たちには褐色の小麦パンを、そして日々の生活で手一杯の貧しい者たちには全粉パンや混合麦のパンを、それぞれ提供するのです。あなたの作るパンがあるからこそ、役人も商人も、職人も日雇い労働者もせっせと働くことができるのです。


さて、パン屋の仕事は粉をふるいにかけることから始まります。このふるい作業、簡単なようでいて実は結構大変なのです。このふるいが上手くいかないと、パンの種類の誤魔化しだと市当局に目を付けられることになります。

ふるって種類別にしたパンを、よく捏ねて、作っておいたパン種と混ぜて丸い形にととのえます。このときの重量を決めるのにも熟練の技が必要です。なぜなら、審査の対象となるパンは焼きあがったパンなので、水分が蒸発する分パン生地の状態から軽くなるのです。これを考慮した上で、パンを窯に入れて焼き上げます。1日に3、4回行うパン焼きで、パンを取り出す時間を決めるのはパン職人の経験と勘です。焼きすぎて硬くなったり、生焼けになったりしないために徒弟の頃によく学ぶ必要がありそうです。


こうしてできたパンは、店から張り出した台を通して売ることができます。普通、客にパンを渡すのは職人の妻か女使用人です。また、もしあなたが職人として成功すれば、市場に売り台を出してもっと多く稼ぐこともできるでしょう。パンは町の居酒屋や旅籠にも売られていきます。町の住民の糧となるのも、居酒屋での憩の時を創るのも、旅人の空腹を満たすのも、あなたの作るパンなのです。ほら、このパンなんか、なかなかいけるでしょ?

フランス、旅人向けの宿屋にて