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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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【スクタトス】初期から中期にわたってビザンティン帝国軍の軍の4分の3を構成
スクタトスの名前は彼らが持った楕円形の盾であるスクタ(ラテン語で盾の意)に由来します。盾の大きさは横90cm縦120cmほど。彼ら軍の主力歩兵と騎兵が共に使ったのはラメラー、スケール、メイルの三種のた胴着でした。最も普及していた防具はラメラー・アーマーです。
知っての通りラメラーとは方形の薄い金属板に穴を開けそれらを皮紐でつなぎ合わせた鎧です。金属板が上向きに重なるように設計されています。素材は普通は鉄で、他に革や角なども使われたようです。ビザンティン帝国軍でよく使われたこの胴着のことを特にクリバニオンといい、普通は袖なしか半袖で上半身から腰までを覆っています。
スケール・アーマーは小さい薄金を鱗状に並べてつくるもので、ラメラーと違い金属板が下向きに重なっており、また下地になる布があります。胴着は上半身を覆っており袖はありませんでした。
もっとも使用されることの少なかったメイルの胴着はしばしば長袖でメイルのフードとともに用いられました。メイル・アーマーは重ね着可能なことから、上にクリバニオンを着ることもありました。 これらの防具の上から革や綿、フェルト素材などで作られたカバディオンと呼ばれる袖付きの胴着を着用しました。この他に腰や肩にはプテリゲスと呼ばれる垂れ布が付いており、これは革や金属板でできていました。腕と脚部の防護には、革、木、鉄、フェルトなどで作られた腕甲と脛当てを用いました。
兜は部品を組み合わせて作るスパンゲン・ヘルムで統一されていたようです。 武器は基本的に槍で長さは3.6mほど。剣も携帯しており、長さが約90cmの両刃剣スパティオンと同じくらいの長さで片刃のパラメリオンがありました。
騎士の前身となったのは、ラテン語でミレスと呼ばれた人々でした。彼らはフランク時代に有力者に仕える職業戦士としてその身分を形成していきました。初期においては必ずしも騎乗していなかったミレスは、戦場での歩兵と軽装騎兵が果たす役割が小さくなるにつれ、重装騎兵としての装備を身に着けるようになり、兜、鎧、剣の他に軍馬と騎槍(ランス)が彼らの基本装備となっていきます。騎士と馬との関連性はフランス語のシュヴァリエ(chevalier)が馬(cheval)を、ドイツ語のリッター(ritter)が騎乗(ritt)を語源としていることからもわかります。ちなみに英語のナイト(knght)は主従関係から来た下僕(cniht)という語を語源としています。
当初、彼らは農民と大差ない広さの土地の所有者でしたが、装備一式を自前で用意するためにより多くの土地が与えられるようになります。時代の流れとしては、貸し出された(という名目であった)土地は大は伯領から小は村まで世襲される傾向にありました。そうして彼ら下層の職業戦士は小領主として封建制の末端に組み込まれていきます。彼らのような、自身に仕える封臣を持たない小領主や、有力者の家に住み着いて彼らの手足となって働いた家中騎士たちが狭義の騎士です。ドイツにおける家中騎士は特に家士(ミニステリアーレス)と呼ばれ、領主たちの役人として力をつけていきました。また、彼らの中には皇帝直属のミニステリアーレスになることで封土を受け、諸侯と変わらぬほどの権力を持つに至るものまでいました。
戦士たちを統制しようとした教会の騎士に対するキリストの戦士化や、南仏などを中心に騎士的宮廷文化が築かれていくことなどの相互作用として、騎士は素朴な戦士集団から、崇高な理想を掲げた階級へと変化していきます。そして13世紀までには、一般に想像されがちなイメージ、すなわち「貴族すなわち騎士である」という騎士制度とも言えるものが確立します。1184年、マインツで行われた聖霊降臨祭の際、皇帝フリードリヒ・バルバロッサの二人の息子が騎士に叙されたことは、騎士身分が下層戦士から王侯貴族まで広がったことを示すよい例です。広義の騎士は彼らのような全ての貴族と、彼らに仕える家中騎士で構成されています。しだいに、騎士になるための教育、訓練、そして騎士叙任などが一連の流れに乗っ取って行われるようになっていきました。騎士志願者は、親族や有力者の下で小姓として働き、戦時には主君の従士となり、時が来れば儀式化された叙任式を迎えて、晴れて騎士となったのでした。
つまり中世の騎士と一口にいっても、その姿は時代やその騎士自身の境遇によって大きく違うものだったのです。圧倒的多数の騎士は、小さな領地をもつ(あるいはまったく領地をもたない)貧しい人々で、大所領を持ち封臣を幾人も従えているような騎士(貴族)はごくわずかでした。彼らはまさに、中世の軍事制度、社会制度の変化の中で生まれ、変容を遂げていったのです。
▼共に14世紀、フランスで描かれた騎士
現代よりはるかに道路事情が悪く、交通手段も未発達であった中世においては、ものを運搬することは非常に手間のかかることだったことでしょう。領主たちはもちろんこの面倒な仕事を領民に義務付けました。これが運搬賦役です。
運搬賦役は二種類に分けられます。ひとつはアンガリアと呼ばれる重量賦役です。これは穀物や葡萄酒、塩などを荷車や牛、舟を使って運ぶものです。1年間で1、2回行われ、運搬には数日から1、2週間を費やしました。例としてライン川流域に所領を持ったプリュム修道院の中の所領ヴィヤンスの場合を見てみます。ヴィヤンスの農民は5月と12月に、荷車一台分ほどの小麦を80キロほど離れた本院まで運ばなければなりませんでした。足の速い隊商だったとしても一日に進めるのは40キロ程度だったと考えると、この賦役は往復すると一週間弱かかるであろうと考えられます。
もうひとつはスカラという軽量賦役で、これは徒歩や馬で持っていける手紙や小さな荷物などを運搬するものです。他の義務を免除される替わりに専門で軽量運搬賦役を行う農民もいて、彼らのことはスカラリウスといいます。マンスが20を超えないような小さな所領でも、中心地に近いところでは数人から十数人のスカラリウスがいました。
運搬の目的地としては各所領の中心地(修道院であれば本院や分院)や領外の都市などでした。運ばれた物資の一部はこれらの中心地に付随している市場で売られました。荘園制度の中の運搬賦役は、ものや人の流れを作り出し、商業活動を活性化させると同時に都市などの大量消費地を支える働きをしていました。運搬によって葡萄や塩などの専業生産も大いに活気づいたのではないでしょうか。
以前書いたレーエン制に関する記事はかなり辞書的だったので、今回はヨーロッパで封建制度が生まれていく過程に焦点を当ててみたいと思います。
封建制度が古ゲルマンにあった従士制の影響を強く受けているのは周知の通りです。まず従士制についてみていきます。古ゲルマン世界は一部の有力者(王や族長、首長)からなる支配階級と、自由民と非自由民(奴隷)の二種類の人々で構成されていました。そして、自由民の男子であることは戦士であることとイコールでした。戦争になると、男は家族や一族で一部隊を編成して戦いに行ったのです。
やがて、一部の自由民が専業戦士として部族の有力者に従属するようになります。これは自ら進んで有力者の従属下に入り、彼らのために率先的に戦うことで、金銭、装備、馬、食料、戦利品などを獲得し、種々の特権を得るようになります。有力者に従属し彼らの家で給養されることと引き換えに、平時には護衛を勤め、やがて助言者にもなっていく人々を従士といい、有力者と従士とのこの関係を従士制といいます。
現物による給養はしだいに土地の授与に変化していきます。与えられた土地から上がる収益によって装備や馬などを従士自ら手配することが求められていくのです。この土地は従属への見返りですので、義務を怠たればただちに返還されるべきもので、有力者が貸し与えるといった状態でした。しかし、そこに実際に住む従者にとってはそのようなことは建前に過ぎず、しだいに土地は従士の財産とみなされるようになり、子孫に相続されていくようになります。
このときに有力者が与えた土地のことを独語で「レーエン」といいます。異民族進入の混乱期を経て、小領主、バン領主(城主層)、諸侯、王といったより広範囲に影響を及ぼすようになっていく支配階級の中にレーエン制がシフトしていき、変質を重ねて、中世の封建制度が生まれました。
長い、長いですこの本は。しかし読み応えたっぷりで飽きがきません。それは、きっと登場人物たちが二転三転する状況の中で、みな必死に生きているのが感じられるからだと思います。話のすじは、修道院の新しい大聖堂を建てようとする修道院長フィリップ、建築家トムとその家族と、建設を妨害しようとする司教ウォールランや伯爵ハムレイとの対立が中心となっています。そのほかにも元アウトローの親子やハムレイに伯爵領を乗っ取られ復讐を誓う姉弟など、さまざまな立場の人々が大聖堂を中心にして関わります。
時代は12世紀初頭、スティーヴン王の御世、イングランドでは内乱が勃発していました。内乱中、ということは、ただでさえ弱かった警察力がほとんどなくなってしまうことを意味します。これに乗じて、伯爵ハムレイはやりたい放題です。こんな不条理に対し、武力をもたない修道院には成す術もありません。こういったところは、フェーデが蔓延った中世の姿の、厳しい一面をうまく描いていました。読んでいるとハムレイがどんどん憎くなっていきます。どんどん話の中に引きずられていきます。
名前が「大聖堂」ですので、かなり大聖堂の構造について詳しく書いてあります。しかし、ビジュアルで見るのとは違うので中々想像し辛いものがあります。大聖堂について、いくらか知識があるとより楽しめます。特に、建築様式の変化などにも触れていますので、そこでちょっとした感動があるんじゃないかと。ちなみに私にはわかりませんでしたが…。今度勉強してもう一度読み直したいですね。
ttyfさん、この本を紹介して下さりありがとうございました!
▲フランスの軍船、紋章付きの盾を並べている
文化や生活の多くの部分、でローマやゲルマンの影響を色濃く受けている中世ヨーロッパ世界において、紋章は例外とも言える存在です。紋章は中世の封建制の中で生まれた特異な存在でした。
これまで多くの学者が紋章の起源を、古代ギリシャ・ローマ、ゲルマン文化、あるいは東方などに求めてきましたが、今では中世の紋章は、これらが起源となったのではないと考えられています。
中世の紋章は戦闘の中で甲冑を着込み、兜を被った戦士たちを見分けるために生まれました。一番目につきやすい盾にその人物を表す紋が描かれたのです。紋章の基本形が盾の形をしているのはそのためです。12世紀頃までにその紋は個人を示すものから一族を表すようになり、子孫に受け継がれていきます。
12世紀以前にも盾に模様や図柄が施されていることがありますが、これらは同一人物が規則性のある柄を使っていないことから、装飾性の強いもので、人物の識別や権威の象徴としての意味を持たないため紋章とはみなされません。また、紋章が生まれたのは戦場で識別の必要性があったこと以外に、中世の封建社会という社会の中で、新たに生まれた騎士・貴族という身分を強烈に印象付ける効果も持っていました。
紋章は戦場でその人が誰なのかを瞬時に見分けるためのものですので、形や色が厳格に規定されており、またその目的のために親子、兄弟の間でも同じ紋章を持つことはできませんでした。戦士が持つものだった紋章はいつしか、国家、都市、ギルドなどの諸団体や一般人も持つようになります。しかしやはり大部分の紋章は貴族が使っていました。以下では、貴族の紋章について紹介します。
家紋となった紋章は代々継承されていくものですが、ここで疑問が生じます。親子間で同じ図柄を持てないならばどうやって紋章を継承したのでしょうか。もちろん新たに加わった家門を付け足すことで紋章を変えていくことはできますが、毎回そのようなことをしていたら多すぎる図柄で紋章が複雑になり過ぎてしまいます。
そこで以下のようなことがなされました。イングランドを例にとりますと、百年戦争の黒太子(ブラック・プリンス)として有名な皇太子エドワードの紋章は、父王エドワード3世の紋章に、Eが横になったような図がついています。このマーク「レイブル」は長子を表しています。先代の王が死ぬと、このEがとれて父王の紋章をそのまま継承できるのです。ちなみに兄弟はまた違ったマークが付加され、その紋は王位を継がないかぎり消えないようです。現代でも紋章の残るイギリス王家を例にとると、エリザベス2世の長男チャールズのレイブルは銀一色、次男アンドリューはレイブル中央に碇の図がついており、三男のエドワードのものには薔薇がついています。
【アウグスブルクの場合】
ドイツ都市からは、都市の支配者であった司教から自由と自治を勝ち取ったアウグスブルクを例にとってみます。14世紀に入って、やはりここでも寡頭政治を行う都市貴族と一般の手工業者の間で対立が生じてきました。1368年、アウグスブルクの職人たちは門や市庁舎、広場など都市の中枢を占拠して、ツンフトの旗を立てて市内を行進し、市参事会に対して、新しい契約団体(都市貴族も職人も含む全市民の団体)の結成を求めました。
フィレンツェでは潰されてしまいましたが、アウグスブルクでは成功し、各ツンフトから代表者を出し、都市貴族と共に市政を取り仕切るようになっていきました。しかし、15、16世紀になると、今度は新しい参事会と下層民との間で抗争が起きてしまいます。これは都市内で生じた著しい格差にありました。納税者の八割を占める下層民の財産は、都市民が持つ全ての財産のわずか3%に過ぎなかったのです。こうして、ツンフトの政治は崩れ、復権してきた都市貴族によってツンフトの権利は大幅に削減されていきました。
【ヘントの場合】
ツンフト闘争の例として最後に、イタリアと並ぶもうひとつの大都市圏であったフランドルの都市、ヘントの例をあげます。ヘントはフィレンツェと同じく毛織物業で栄えた都市でした。この都市でも14世紀になって都市貴族と手工業者との抗争が起こります。結果として1302年以降、都市を治める役職は、毛織物ギルド、肉屋を中心とした諸ギルド、そして都市貴族の3者によって分けられるようになります。
ツンフト闘争のような下層民と支配階級との争いは、都市という環境で特別に起こっていたのではなく、それより大きい、あるいは小さい規模でも上下の争いは起きていました。14世紀、ヘントでは毛織物業者の中でも縮絨工と織布工との間で、あるいはフランドル伯やフランス王に対しての抵抗などが起きていました。
11世紀、中世都市を作り上げた人々は伯爵や司教などを相手にとり、自ら自治を行うために戦いました。このコミューン運動は市民と領邦貴族との争いでした。中世後期になると、都市の支配をめぐりこんどは市民内部で争いが起きます。当時、市政を司っていたのは一部の富裕層だけでした。中世盛期の経済発展によって財を成した彼らが市参事会員の大多数を占めました。
14世紀になると各地でこのような寡頭制的な政治を行った富裕層(都市貴族・門閥)と市政への参入を狙う職人や労働者たちとの間で争いが頻発します。ツンフト闘争の始まりです。しかし、この闘争は市民全体の市政参加を求める革命のようなものではなく、あくまでも彼らが市政への参加を求めて立ち上がったものでした。
【フィレンツェの場合】
イタリア諸都市の代表としてフィレンツェで起こったツンフト闘争、チョンピの乱について見て行きましょう。フィレンツェは毛織物業と金融業で栄えた都市で、有力な商人ギルド、羊毛ギルド、両替商ギルドの構成員だけで市の役職の7割以上を占めていました。それに対して多くの職人やチョンピたちは市政への参加は認められていませんでした。チョンピというのは毛織物の製造過程において準備段階の仕事をする日雇い労働者です。
1378年、彼らはついにその不満を爆発させます。市庁舎を占領し、羊毛ギルドに押入って書類を焼き払い、下層民からなるギルドを立ち上げたのです。しかし、この反乱は武器を取った上流市民たちによって数ヶ月で鎮圧され、ギルドも3年ほどしか続きませんでした。結局、チョンピの乱は失敗に終わり都市貴族の支配は変わりませんでした。
▼魚商人ギルドの親方会議
次回はドイツとフランドルの都市におけるツンフト闘争についてです。ツンフト闘争でとりあえずギルド関連の記事は終了。騎士の本を買ったので、次はそこら辺を記事にしようと思ってます。頭が痛い…。
親方になるためには遍歴の旅に出て修行を積まなければならない。このような条項がギルド規約に追加されたのは、15世紀中ごろからです。その後、職人の遍歴は義務化の流れに乗って増えていくのですが、それ以前にも、自主的に遍歴の旅にでる職人たちがいました。
まず、遍歴職人の走りとも言えるのは石工たちでした。中世に入ってから市壁や教会堂など大規模な石造建築が増えていきます。しかし、そのような建築物を都市内の石工だけでつくりあげることは不可能です。かといって、建設が終わればほとんど不要になる職人たちを多く都市内に住まわせるのは無駄でしかありません。(職人たちは食っていけなくなることでしょう)そこで、石工たちは、大規模な建設のある都市で数年仕事をした後に、また違う都市へと移動して言ったのです。鐘を造る際に大量に必要になる鋳物職人も、石工たちと同じように旅をしました。
15世紀に入ると状況が変わってきます。中世の最盛期を過ぎ、「中世の秋」とも言える時代に突入したヨーロッパでは人口増加が止まって、経済的発展を見込めなくなる都市が増えました。その結果、流入してくるあたらしい都市民に対し、ギルドは既存の利益を守るため親方株(つまり親方になる権利)の制限を始めました。この結果、都市には親方への昇進の見込みがない職人や徒弟があぶれることになります。都市はやっかいなことに、不満たらたらの人々を抱え込むことになったのです。
この問題の解決策として、職人の遍歴が行われたのです。彼らは1年から7年の間、各地の都市間を遍歴し働き口を探すようになっていったのです。必要に迫られた職人の行動が、やがてギルドの慣習となり、法律となっていくのです。これは、一時的に市内の不満分子を取り除くという効果の他に、経済発展の止まってしまった都市から、いまだ拡大を続ける都市への労働力の提供という効果をもたらしました。
▼聖堂を建てる石工 ▼宿屋に向かう旅人
ツンフト内では基本的に自分の店を構えられるのは親方だけでした。職人は親方の下で働き、徒弟は親方の手伝いをしながら仕事を覚えていきました。徒弟は縁者が徒弟金を払い、親方のもと衣食住を世話してもらい、技術を教えてもらう代わりに親方のために下働きをしました。徒弟期間は2~4年ほどで、長いものでは6年続きました。徒弟期間を終えればすぐに店を持てて営業に入れるわけではなく、ほとんどは職人として町の親方の下で働くか、遍歴の旅に出なければなりませんでした。職人が親方になるためには一定の技術力(親方作品マスターピースの作成など)とともに親方加入金を支払えるだけの資金力も求められました。親方はツンフトの幹部として新規親方の採用、組合長の選出、規約の決定などの権利を持ちました職種によっては(例えば刺繍工や職工など)親方の未亡人など女性の親方が認められる場合もありました。
親方は自分の自宅権仕事場で職人や徒弟とともに暮らしました。彼らは家族の一員であり、その中でも親方は家長権を握っていました。親方の徒弟への体罰は認められていましたが、いくつもの規則でいきすぎないように限度を設けていました。例えば、1276年のアウグスブルクの都市法には「親方は徒弟を殴ってもよいが怪我をさせてはならない」と定められています。また、出血の有無を取上げる法や、殴る回数に上限を設けた法令もありました。
さて、彼らの給金にはどのような差があったのでしょうか。13世紀頃のフランスのオーギュスタン修道院建設のために働いていた石工を例にとってみます。すると日給は、親方:24(単位ドゥニエ以下同)、職人及び手伝い労働者:12となっています。つまりだいたい2:1です。また建設にかかわった他の職種の親方も、親方間での給金はほぼ変わらず、徒弟との比率も同じでした。