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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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都市の職人たち 「金銀細工師」



<金銀細工師>

金銀細工師は一般的な鍛冶師とは異なり、金や銀などの希少金属を専門に扱う職人でした。彼らは、主に裕福な市民や貴族層の者を顧客として、精密に仕上げた数々の金銀細工を販売しました。彼らの顧客の社会的地位が高いことは、金銀細工師たちのギルドが都市の序列の先にあることに関係していました。
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都市の職人たち 「皮なめし工」



<皮なめし工>

皮なめし工の主な仕事は、動物の皮を革にすることでした。彼らは薄い金属を使って皮に付いた毛や肉をそぎ落とし、溶液と水に皮を何度も何度も浸すことで皮をなめしていきました。革をなめすための作業は数ヶ月にも及んだため、革は元の皮より何倍もの価値がつきました。なめされた革、靴や小箱、本の表紙、鞘や鎧などを作るのに使われました。


都市の職人たち 「鍛冶屋」

 



<鍛冶屋>

中世の金属製品の供給を担っていた職業が鍛冶屋です。鉄の元である鉄鉱石はヨーロッパ各地の地表付近から採掘され、木炭と共に燃やされて精錬された後に鍛冶屋に運ばれました。鉄やその他の金属を加工したのは、兜、刀剣、甲冑などの軍用製品の職人や、きり、針金、刃物、鍋、錠前、拍車などの製品を作る専門の鍛冶屋たちでした。また、鍛冶屋の作り出す鉄製の頑強な蹄鉄やすきの刃は、重量有輪犂を使用し、牛から馬への動力変換を進めた農業改革の推進力のひとつになりました。



ずいぶん久々の更新となりました、紗瑠々です。これから、農村関連から飛んで、中世の市民について紹介していきます。いくらかたまったら、HPの方も更新します…

 


農業賦役

アルバイトを始めました。働くって大変ですね…。更新はまた遅れ気味になりそうです。来年度までにHP完成できるかな…。



<農業賦役>

領民は、領主に対して大きく分けてふたつの義務を持っていました。ひとつは貢租で、これは保有地での生産物の一部を納めることでした。もうひとつの義務として賦役労働がありました。賦役労働には、大きく分けて三つの種類があり、ひとつは直営地での農作業、領主が使う品物の製造、農作物や製造物の運搬でした。ここでは農業賦役について記します。農業賦役は、領主の直営地を農民が無償で耕作するというのものですが、いまだ農業生産率が低かった農村で、貴重な労働力を奪われる賦役は、大きな負担でした。

 

農業賦役は、賦役の形態によってふたつの区分がなされます。ひとつは賦役労働が日数を基準に決められるもので、これは週に約3日ある週賦役が中心でした。週賦役の他には、およそ2~6日の耕作賦役、半月から一月の季節賦役がありました。また、賦役の日数が定められておらず、領主の恣意によって決められる荘園もあり、農民の隷属性が非常に高いものだったことがわかります。もうひとつは定地賦役を呼ばれるもので、これは各マンスに割り当てられた直営地を、農民が全て管理するというものです。このときに使う種子は領主が提供し、生産物は全て領主のものとなりました。


農民保有地



<農民保有地>

各農民が貸し出されたかたちとなる農民保有地は、通常「マンス」(仏語読み、独語は「フーフェ」)という単位にわけられました。一マンスの農民保有地は、一世帯、あるいは複数世帯によって管理される農地です。また、全ての農民が保有地を所有できたわけではなく、保有地を持っていたのはある程度の財力を持った農民たちでした。村落の農民の半数は、小作農として雇われ仕事を行っていました。彼らのような貧しい農民が、領主直営地の耕作の中心を担った地域もありました。

 


領主直営地



<領主直営地>

大土地所有者となった有力者たちは、多くの場合各地に散らばっていた所領を、いくつかの荘園に分割し、それぞれの荘園には荘司を置いて管理していました。領主直営地は、所領に築かれた領主館や荘司の邸宅の敷地とその周囲に広がる農地のことです。領主直営地は、主に農奴を使った賦役労働によって支えられていました。

農奴身分の成立

領主の下には、不安定な時代を有力者の庇護下で暮らそうと考える農民が集まってきます。これらの農民は有力者に土地を無償譲渡し、自身の隷属の対価として保護を求めました。農奴身分すなわちコロヌスに転落した農民に対し、領主は貢租や賦役などの義務を付加して土地を貸し出しました。自由農民は自ら有力者の小作人になったのです。

領主の支配下に入らずに自営農民として生活することも可能で、そうすれば隷属民になることはありませんでした。しかし、自力救済が基本の世界で戦争や不作の際にも、一人で生きていかなければなりません。領主の庇護下に入った農民は有力者の庇護下に入ることで、まさかの事態に備えようとしたのです。領主の支配下に入ったものは、前記のように自営農民から発したものと、元は領主個人の耕地で働いていた奴隷が小作人化したものとがあります。

地主はなぜ奴隷に土地を貸し与え、農奴としたのでしょうか。そのまま直営地で働かせていれば、取り分も多いはずです。しかし、これは奴隷使用上の制約を無視した考え方です。ローマ帝国でも盛んに行われたこのような奴隷の小作人化は、最終的には利益をもたらしたようです。つまり、大勢の奴隷を扱うには、彼らを束ねる組織が必要となり、組織を運営するにはそれだけ金がかかります。また、奴隷は一箇所に集めると反乱の危険を生じます。これでは元も子もありません。そして何より、主人のためにタダ働きする奴隷より、働けばそれだけ自分の取り分も増える農奴の方がはるかに労働意欲が高かったのです。

こうして、多くの自由農民と奴隷が、有力者の庇護下に入って小作人化したことで、中世に特徴的な農奴身分が形成されていくのです。しかし、この農奴化の割合は地域によってかなり異なっていたようです。また、この後、紀元1000年頃から城主層の台頭が始まるにつれて、農奴の権利なども変化していくことになります。

08.1.11 加筆修正

大土地所有者の出現

西帝国滅亡後、度重なる戦役や反乱鎮圧を行ったフランク王国は、多くの土地を獲得・没収していきました。これにより広大な王領地が形成されます。また、地域の有力者も、王国の官職に付随する領土を狙い、さらに自営農民の土地を買って所領を増やしていきました。世俗の領土におとらず、王や領主からの寄進によって教会の領土も拡大しました。教会へ土地を寄進することは、死後に何倍もの価値を付けて返ってくるという考えが浸透していたのです。また、教会の支持を得ることは、キリスト教化した社会にとって非常に重要なことでもありました。

 


コミューン運動 その2

試験が終わりましたので更新を再開したいと思います。



<コミューン運動>

運動の収束により都市には共同体「コミューン」が成立します。コミューンは宣誓を通じて結束した都市住民による団体でしたが、これは都市住民全てを包括している共同体ではなく、少なくとも都市内に家屋か土地を持ち、税金を納めているものだけに限られていました。そしてこの数は、多くの場合都市住民の半数に届きませんでした。彼らの代表が都市の政治に関わっていきますが、前にも記した自治の度合いの違いがここで現れます。フランドルやイタリアの諸都市はコミューンが全面的な自治権を得ましたが、フランスやイングランドなどでは王や諸侯、または彼らの代官が都市を治め、都市住民の代表がこれに加わるに留まりました。


コミューン運動 その1



<コミューン運動>

11世紀以降、多くの都市に都市慣習法が定められました。この慣習法成立は、コミューン運動と呼ばれる都市住民の運動が直接の引き金となりました。10世紀からの中央権力弱体化により、各地では権力や領土をめぐって、諸侯や騎士の間で戦争が絶えませんでした。また、都市の領主の恣意により都市住民の権利や財産が侵害されることも問題とされていました。こうした中、都市住民は都市領域の平和と領主の恣意性の排除を求め、各都市で運動を広げていったのです。

コミューン運動は、都市住民が中心となって展開したもの、司教や伯などの都市領主が先導したもの、都市領主と住民が協力して行われたものなど様々でした。また、武力を伴っての、市民による強硬なコミューン運動は例外として知られるだけであり、多くの都市では都市領主が頃合を見計らって運動を懐柔していきました。このように運動形態が多様であったため、都市住民の自治の具合や領主の権力範囲などは都市によって様々なものとなりました。また、王権とコミューン運動との関わりも様々でした。たとえばフランスでは一時、王領地内でのコミューン運動は制限されましたが、後には経済的利点などを考慮して奨励されました。これは、コミューン運動の容認の見返りとして都市に軍役を義務づけ、王を頂点とする封建制のピラミッドの中に都市を取り込もうとしたのです。 



はい~、最近は都市で攻めております紗瑠々です。現在製作中のHP「紗瑠々の資料館」は、できれば4月までに完成させたいと思っております。これまでのブログ「紗瑠々の資料室」の記事を中心に、同じく中世ヨーロッパについてのHPとなります。