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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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アルバイトを始めました。働くって大変ですね…。更新はまた遅れ気味になりそうです。来年度までにHP完成できるかな…。
農業賦役は、賦役の形態によってふたつの区分がなされます。ひとつは賦役労働が日数を基準に決められるもので、これは週に約3日ある週賦役が中心でした。週賦役の他には、およそ2~6日の耕作賦役、半月から一月の季節賦役がありました。また、賦役の日数が定められておらず、領主の恣意によって決められる荘園もあり、農民の隷属性が非常に高いものだったことがわかります。もうひとつは定地賦役を呼ばれるもので、これは各マンスに割り当てられた直営地を、農民が全て管理するというものです。このときに使う種子は領主が提供し、生産物は全て領主のものとなりました。
試験が終わりましたので更新を再開したいと思います。
コミューン運動は、都市住民が中心となって展開したもの、司教や伯などの都市領主が先導したもの、都市領主と住民が協力して行われたものなど様々でした。また、武力を伴っての、市民による強硬なコミューン運動は例外として知られるだけであり、多くの都市では都市領主が頃合を見計らって運動を懐柔していきました。このように運動形態が多様であったため、都市住民の自治の具合や領主の権力範囲などは都市によって様々なものとなりました。また、王権とコミューン運動との関わりも様々でした。たとえばフランスでは一時、王領地内でのコミューン運動は制限されましたが、後には経済的利点などを考慮して奨励されました。これは、コミューン運動の容認の見返りとして都市に軍役を義務づけ、王を頂点とする封建制のピラミッドの中に都市を取り込もうとしたのです。