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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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ハウスカール

今回も、アングロ・サクソンについてです。AoEやAoMのプレイヤーなら聞いたことのある兵士だと思います。


<ハウスカール>

半傭兵の戦士であるハウスカールは、彼らは王や伯に仕える私兵となり、報酬には主に金銭を受け取っていました。彼らはプロの戦士であるため練度は高く重装備だったので、小規模な部隊であっても強力な軍事力になりえました。

ノルマン・コンエスト(1066)直前の王家のハウスカールは3000人ほどだったと考えられています。また、同時代の伯の保有ハウスカールは、250~300ほどだったであろうと推測されています。

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セイン

王族や上級貴族である伯の護衛兵のことをセインといいます。彼らは貴族に仕える報酬として、金品にを受け取ったり土地を与えられて小領主になったりしました。セインは貴族に私兵として、徴集のいらない常備軍として仕えました。珍しいことではありましたが、セインは伯にまで上り詰めることも可能でした。セインは選抜された民兵や傭兵らと共に戦い、アングロ・サクソン諸王国の軍隊の主力となりました。

フュルド

今回は…いきなり軍隊についてです。10世紀以降の農村については改めて書いていきます。




アングロ・サクソン人は、農地面積を基準にしたを基本とした徴募兵制度を持っており、チェオルルと呼ばれる自由農民に兵役の義務がありました。アングロ・サクソンの社会では、一家族が食べていけるのに充分な農地面積を1ハイドとして、5つのハイドが協力してひとりのフュルドと呼ばれる兵士を送るものとされていました。

当時のブリテンの小領主であるセインの保有地は最低で5ハイド程であったので、こうして徴集されたフュルドはある程度の練度と重装備が与えられていました。5つのハイドは、セインが保有する領地の一部であったり、個人あるいは複数のチェオルルのものであったりしました。彼らは、その徴集形態から特に選抜フュルドと呼ばれ後述する大フュルドとは別に組織されました。選抜フュルドは、通常軍務60日の間に、必要に応じていつでも召集されました。

大フュルドとは、健康な全自由民に対して課せられていた義務であり、領土防衛のために緊急に徴集されるものでした。彼らは選抜フュルドに比べ、練度でも装備でも劣っており、故郷から半日以上遠くへ行軍する義務を持たなかったため、その使用は限定的なものでした。


農村の歴史 「カロリング朝期」

今回も前回に引き続き農村についてです。カロリング朝期(8~10世紀)についてです。


<カロリング朝期>

ピピンによりカロリング朝が開かれ、強力な王権が固められた結果、大領主たちはさらに多くの土地を吸収し、領地を広げていきました。また、牧畜も前時代より発達しました。温暖な気候を利用して葡萄栽培も盛んになり、水車の利用によって、いままで人力に頼っていた仕事を軽減することも可能になりました。また、従来の二圃制に代わり、耕地を冬麦の畑・春麦の畑・休閑の三つに分けた三年輪作が生まれたことは、農業生産を増加させることになりました。冬麦とは、小麦や燕麦のことで、春麦とは大麦や燕麦のことです。

しかし、このような農業技術の発達は、ヨーロッパ全ての地域に均一的に見られたものではありませんでした。二圃制は一部の地域では今まで通り続けられました。また、鉄製の農具の普及率や、家畜の数も充分だったわけではなかったようです。そのため、三年輪作が厳密には行われず、休閑期が長くなるようなことも。ざらにあったようです。

▼「メロヴィング朝期とカロリング朝期の比較」

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農村の歴史 「メロヴィング朝期」

今回は、農村の続きです。帝国崩壊後のフランク王国前期、ローマとゲルマンの融合は、ガリアの地を中心に発展していくことになります。


5~8世紀中葉まで、メロヴィング朝フランク王国の時代には特に大きな変化は、農村には訪れていませんでした。理由は、丁度この時期が寒冷期になっていたためです。しかし、土地の有力者を指導に、若干の耕地の拡大が行われました。しかし、有力者はその領地のほとんどを、自営農民の土地から吸収することで形成していきました。

いまだ、強力な王権が固められていなかったため、政治が不安定であったこの時代。個人経営の農民の権利は、とても安全なものとは言えませんでした。そのため、中小自営農民は有力者に庇護を求めて土地をいったん譲渡し、貢租の支払い義務を付加され再授与されることをし始めました。これにより古典荘園制(古典荘園制参照)が生まれます。

この時代の特徴として、農耕と牧畜の融合が発達したことがあげられます。すでにこの時代には、狩猟より牧畜の方が遥かに一般的だったのです。牛や馬を使って耕地を耕し、家畜の糞を肥料とし、牧畜は農耕の発展を助けていくことになりました。しかし、いまだ土地は多くの森林で覆われていたのです。

 


農村の歴史 「ローマとゲルマン」

今回は中世農村の歴史の初回です。都市の発達にまた今度(というより、新しい資料の収集時間がとれませんのでストックで…)です。騎士についても忘れているような…。とにかく、中世の農村は、ローマとゲルマンの文化の融合によってなされました。そのところから紹介を始めます。


<ローマとゲルマン>

ゲルマン民族の大移動以前から、リーメス(都市の誕生 「ローマ都市」<要塞都市>参照)を通して、ローマ世界とゲルマン世界の融合が見られました。この融合が、中世ヨーロッパの農村の原型となりました。

まず、ローマから受けた様式としてはパンとワインの食文化がありました。これはヨーロッパ各地に点在していた修道院組織を中心として受け継がれました。この食文化を維持するためには小麦と葡萄が必要なのは言うまでもありません。また、ローマ時代の農業形態のひとつに、ウィラと呼ばれる農業拠点がありました。これは、ウィラの支配者である富裕者(貴族層)が奴隷労働によって行ったものです。当時の農業は、一年ごとに耕作地を休閑させて農地の地力を高める二圃制というものでした。ウィラには牧畜のための放牧地や葡萄畑が、小麦の耕作地とは別に設けてありました。

ゲルマン世界では、麦などの栽培はそれほど発達しておらず、かわりに牧畜が発達していました。パンやビールをつくってはいましたが、ローマに比べるとその規模ははるかに小さいものでした。また、依然として狩猟採集の生活も重要視され続いていました。ゲルマンの集落は小規模なもので、数世帯の家が寄り集まってできているだけでした。周辺には小規模な耕作地と、広い放牧地、そして森がありました。牛・豚の肉や狩猟した獲物の肉、畜産品であるチーズやバターはゲルマン人の摂取する栄養の大きな部分を占めていたのです。牛は休閑中の耕作地を放牧地とし、豚は森で飼育しました。このように、ゲルマンの様式では、森・耕作・牧畜が一体化した農業を行っていた。

▼「ローマとゲルマンの農業」

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次回は、このような農業の融合が、いかにして成されたかを書いていきます。「数日前に試験が近い」と書いたくせに、更新を続けていますが、そろそろ本当に問題になってきました。なので、少しの期間更新をお休みします。


都市の誕生 「建設都市」

今回で「都市の誕生」については最終回です。今回は、領主の指導によって新設された都市と、遠距離交易の発達による都市の形成について紹介します。また、都市の形成に関するまとめもここで行います。


<建設都市>

時代が過ぎるにつれ、ローマ都市の発展や商業的集落の増加、農業の発達による農産物の余剰生産などにより、ローマの崩壊後は局地的だった商業活動が、遠距離を繋ぐ大規模なものに再発展しました。発達した貿易ルートの中継地として、各地に建設都市が築かれました。これらの都市は、領主の指導の下に、あるいは商人たちの手により自然発生的に造られました。建設都市の存在ははさらに地域の商業活動を発展させるのに役立ち、周辺農村との取引の場としても発達していきました。

領主指導の下に建設された都市の中には、領主の居館と接し、また地域の農民の市場的意義も持ち合わせているものもありました。


<都市形成のまとめ>

中世の都市形成は、数百年の間に形成されており、その起源も様々なものでした。今回分けた「ローマの系譜をもつ都市」。地方領主の支配下にある都市」。「農村の市場から発展した都市」、「新たに建設された都市」「交易の活発化により形成された都市」などは、話を進めやすくするために便宜上分けたに過ぎません。中世都市の多くは、これらの諸原因が重なって形成されました。そのことを理解しなければいけません。

これらの都市は、周辺に新設されていった商業的集落と互いに活性化しながら発展しました。これらの市場集落や既存の都市は単体でも中世都市に発展しましたが、やがて一体化して、ひとつの都市を作り上げていくこともありました。

▼「都市を起源からみた分類」 画像をクリックすると大きく表示されます。

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▼都市を支配者からみた分類

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都市の誕生 「領邦都市・市場都市」

ローマの統治下に入らなかったライン以東ドナウ以北の地域では、聖俗の領主館の周辺に都市が形成されることがありました。また、農業の発達も、都市の形成を促しました。


<修道院と城>

10世紀頃からの城の建設により、領主は城を基盤とした、地域への均一な支配を開始していました。また、ローマの支配下に入らなかった地域には、キリスト教布教のために、各地に修道院が建設されました。それらの聖俗の領主館は造幣権や裁判権を持ち、地域住民を支配していたのです。

これらの土地支配の拠点は、領地で作り出された産物の集計地でありそれらの産物の流通の中心でした。そのため、地域の商品を扱う場として、領主館の付近に市場的集落が形成されていきました。これらの集落はブルグスと呼ばれる領邦都市を形成しました。

そうしてできあがった都市は領主の支配下に入りました。権力者の下に集うことによって、都市の商人は彼らの庇護を受け、比較的安全な状況を手にしたのです。都市を支配した聖俗領主の権力は、徐々に弱まっていきます。かわりに都市を運営したのが、市民で構成される自治組織でした。しかし、都市の自治の度合いや、権力移行の様子は、キヴィタスでの司教の市民の関係の場合と同じく、都市によって様々でした。


<農業生産の拡大>

中世中期に入ってなされた農産物の余剰も、都市を形成する一因となりました。農村の生産物に、農民たちで消費し、貢租を収めても、まだ余りがでるようになったということです。このような生産物は、農村の週市で取引されました。このような週市が発展して、定住型の集落に発展したものもあったのです。


ローマの伝統-キウィタスなど

中世都市と称されるものは中世の時代に入って、突然生まれ出たわけではありません。ローマ時代や、ケルト時代にまで起源を遡れる集落が、中世都市の大きな部分を占めています。今回は、そのように中世以前の集落に端を発する中世都市について紹介していきます。


【キウィタス】

ローマによる支配によって、地中海周辺世界は数多くの属州に分けられて統治されました。その統治の末端にあったのがキウィタスです。キウィタスは周辺の領域を含めた、帝国行政の最小単位でした。ガリア(現フランス周辺)にはガリア人の時代からオッピドゥムと呼ばれる壁で囲まれた集落が存在しており、帝国の支配に属してからもキウィタスとして周辺地域における重要性を保っていました。

文化も生活も異なる地域を治めなければいけなかったため、帝国はキウィタスに対しかなりの面で自治を認めており、市政を牛耳っていたのは市外に所領を持つ大土地所有者を中心とした市政参事会でした。このような都市管区の制度がライン川以西、ドナウ川以南のヨーロッパなどの地域では帝国の滅亡後も存続していたのです。キウィタスの統治を変わって担うようになったのは教会組織でした。

古代ローマ時代、キリスト教は信者の増加や国教化と共に公的に力を増して、強力な勢力となっていました。教会は崩壊しつつあったローマの国家業務を引き継ぐことが多くなっていきます。その中に、都市の行政官としての業務もあったのです。ローマの主要都市には司教座が置かれ、司教は住民に対しある程度の権力を持ち始めたのです。キウィタスは司教区・司教座都市となっていきます。

こうして形成された司教座都市には、フランク王国時代、都市伯が置かれるようになりました。司教と伯との関係は都市によって様々で、司教がある程度の重要性を残したものから、ほとんどの実権を伯が取得した都市もありました。彼ら都市の指導者層は、都市の自治組織が発達するまで、都市内で大きな権力を持ち続けていたのです。

【カストルム、ヴィークス】

ライン川やドナウ川に沿った地域にはローマ人が造ったリーメス(辺境防壁)があります。辺境防壁の内側に建設されたカストルム(要塞都市)や軍団居留地に付随するヴィークス(小集落)では、ローマに雇われたゲルマン人傭兵や現地人(ガリア人など)が住み着いて、ゲルマニアとの交流に一役買っていました。これらの人の集中する都市的空間は、ゲルマン民族の侵入時に多くが破壊されましたが、フランク王国の諸王の時代には、再び流通の中心地となりました。軍団居留地に属さない独立したヴィークスもあり、これらは街道に沿って建設され、商人や手工業者たちが住み着いていました。


封建制

今回はフューダリズム。すなわち封建制についてです。貴族と貴族の間には、どのような関係が成立したのかを紹介していきます。




封建制、という言葉は中世当時には使用されていませんでした。また、封建制とは多義的な言葉ですが、ここでは中世に貴族間の私的契約であったレーエン制について書きます。レーエン制は、ふたりの「戦う者」間で交わされた相互契約の制度です。これは、一方が土地を与える封主となり、もう一方が、封主から土地を受ける封臣となり、封主は封臣への保護義務を負い、封臣は封主に対する助言や資金の援助などの諸義務を果たす、というものです。レーエン制はただの主従関係ではなく、相互契約であるため、封主でも契約を破れば封臣からの援助は受けられませんでした。

封臣の義務の中でも一番大きかったのは軍隊の提供義務でした。これは、有事の際、封臣が一族郎党を率いて、封主の下で共に戦うというというものでした。軍役は基本的に40日間が普通で、これには様々な制限が付きまといました。出征の連続期間や、軍の移動範囲が州境まで、どこの河川まで、封臣の領地内のみ、などが細々と決められていたのです。領地を受け取った貴族は、土地を直轄地と農民の耕作地とに分けて支配し、領民からの税の徴収などを行ないました。

封建制は、その義務の形態から、臣下の臣下を生み出すことになりました。封臣は、自分に仕える郎党が自前の軍を集めるられるように、自分の領地の一部を彼らに分け与えたのです。しかし、基本的にレーエン制は私的契約であるため、封臣の封臣(封主にとっての家臣の家臣、つまり陪臣)は封主にとっての家臣ではありませんでした。しかし、王権の強かったイングランドなどでは、国王に対し下位の封臣も忠誠を誓わせられることもありました。

▼「土地保有者の権力ピラミッド」 画像をクリックすると大きく表示されます。

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